15 一連の出来事の種

 カーテンの隙間から差し込む光が一筋伸びて、ユーリの顔を鋭く照らす。少し身じろぎをすると、大きくあくびをする。やがて瞼の間から黄金の瞳が現れる。
 ハインリヒに与えられた部屋は気が置けなく随分寛げた。久々の快眠だった。ユーリが爽やかな気分で伸びをすると、白いシーツの上に、蛙の黒い影が小さく伸びた。
 相変わらずの光景にため息をつきながらふと見ると、ハインリヒがなぜかソファで横になっている。
 ――何でわざわざソファで寝てんだ?
 ユーリはベッドから飛び降りると、ソファに乗りあがり、ハインリヒのその頬をペトペトと叩いてみる。
「おい、ハインリヒ。朝飯に遅れるぞ」
 数回小さな音が鳴った後、黒い瞳がまぶたの隙間から現れた。
「あ、……おはようございます、ユーリさま」
 ハインリヒはぼんやり焦点の合わない目でユーリを見る。髪が右側に向かって跳ねているせいで、童顔に磨きがかかっている。
「なんでここで寝てるんだ?」
「いえ。特に理由は……」
 なぜか見る見るうちに顔が赤くなっていく。
 不思議に思いながらユーリが覗き込んで回答を待つと、ハインリヒは髪を撫でながら渋々のように呟く。
「ええと、私には、そういう趣味はありませんし」
「はあ?」
「い、いえ。だからっ、ええと、少々寝台が狭かっただけです」
「狭いわけないだろ。俺、こんな大きさなのにさ」
 そう言いつつ、ユーリは自分の姿を見下ろす。ハイリンヒの手のひらくらいの大きさは、とても邪魔になるとは思えない。
 ハインリヒはしばし言葉を探したが、とうとう黙り込んでしまった。
 真っ赤な顔のまま、何か言いたげにぱくぱくと口を動かすけれど、言葉にならずに非常に苦しそうだ。
 やがてハインリヒは諦めたように言う。
「なんだか、一連の出来事の種が見えて来た気がするのです。しかし、なぜか口が動かないのです。きっと呪いのせいでしょう」
 ハインリヒは困ったような顔をしながらも、少し嬉しそうだ。
 目が困っていて、口が笑っている。
「なんなんだ、薄気味悪いな」
「とにかく、望みを捨ててはいけないということです! ……さあ、今日も頑張りましょう、ユーリさま!」
 妙に張り切って、ハインリヒは立ち上がった。
 ――どうしたっていうんだ?
 ユーリはやはり不可解な思いをしながら、ハインリヒの肩に登ると、彼とともに食事に向かうこととした。


 ユーリが食卓につく頃には、もうアンジェリカもベアトリクスも食事を終えようとしていた。
「遅いわよ。待ちくたびれて食べちゃったわ」
 アンジェリカがテーブルの向こうから文句を言う。そう言いつつもアンジェリカは、いつものようにユーリの分の食事を残しているようだった。
 以前と違って、このごろは、自分の嫌いなものだけではなく、他のものも残してある。
 フルーツが好きなことを、彼は一言も言っていないのだけれど、アンジェリカも好物であろうそれがこのごろひっそりと皿に残っている。
 ――もしかしたら、俺のために?
 勘違いかもしれないけれど、どうしてもユーリは口元が緩むのを抑えられない。
「ほら、ユーリ様。がんばってくださいね!」
 ハインリヒは相変わらず妙に嬉しそうに、ユーリをアンジェリカの席に連れて行きながら、小声で励ます。
 しかし、席にたどり着く前に、しなやかな白い手が彼らの行く手を阻んだ。
「おはようございます。ユーリ様」
 妖艶な笑みを投げかけられ、ユーリは一気に凍り付いた。
 彼の頭の中に、昨日の悪夢が急激に蘇ってくる。
 普通の男なら、その笑顔ですっかり骨抜きになるのだろうけれど、ユーリは違った。
 彼女のその唇も、人間の姿の時にはみずみずしい果実に思えるのかもしれないが、ユーリの今の大きさでは牛にも匹敵するくらい大きく見えて、ただひたすらに恐怖が勝った。
 どうやらアンジェリカの唇はユーリにとっては特別だったらしい。
 一気に青ざめるユーリを、ベアトリクスはなんなく掴むと、自分の皿の前に座らせる。
 力加減がやはり全くなっていなくて、ユーリはつぶれそうになり、食卓にはふさわしくないような悲鳴を上げた。
「――お姉さま!」
 アンジェリカが悲鳴のような声を上げて、近づいてくる。
「もうちょっと考えて触ってちょうだい! つぶれてしまうわ!」
 ――いや、お前だって、俺の扱いは散々だったけど。
 ユーリはそう思ったけれど、彼女の成長ぶりに感動して口に出すのは控えた。
「ユーリ様は、今日からは私と一緒に食事をとられますわ」
 つんとした表情でベアトリクスがアンジェリカに向かって宣言する。
「そんな勝手なこと!」
 アンジェリカが珍しく憤った様子を見せる。
「どうせ、おもちゃくらいにしか思っていないのでしょう? アンジェリカには勿体ないわ」
「おもちゃじゃないわよ、ユーリは私の友人です!」
 アンジェリカは、ベアトリクスを睨みながら、はっきりとそう言った。
「――え?」
 ユーリは驚きすぎて息が止まった。小さな心臓もそのまま止まるのではないか、そう思った。
「あれ? でも、蛙だから友“人”だとおかしいのかしら……じゃあ、友ガエル?」
 あまりに驚きすぎて、ユーリには付け加えられた呟きは聞こえない。
 ハインリヒも同様で、そのくりっとした大きな瞳が目から溢れるのではないかというくらい、目を見開いている。
「……ともかく。せっかくユーリの分、食事を残しておいたのよ、食べてもらわないと困るわ」
「食べ残しなんて。失礼過ぎてとても私には出来ないわ」
 ベアトリクスがため息をつきつつ言うと、アンジェリカは不可解そうに眉をひそめる。
 しかしベアトリクスは何の説明もしようとはしない。ユーリの素性についてはアンジェリカに教えるつもりは毛頭ないようだった。
 伝わらないという事はこれまでの事で分かっているけれど、話そうとさえしないというのは……
 ――あざといなあ。
 ユーリはベアトリクスの計算が見えて、げんなりする。でも、本人の目の前で堂々とやるのだから、いっそ清々しいかもしれない。
「ハインリヒ。俺、アンジェリカのとこで食べるって、このお姉さんに伝えてよ」
 ハインリヒは力強く頷く。
「あの。ベアトリクス様。ユーリ様はアンジェリカ様のところで食事をなさると」
「――何かおっしゃいました?」
 ベアトリクスはハインリヒに向かってにっこりと微笑む。薔薇の香りがするような華やかな微笑みだった。
 ハインリヒは、はっきりとたじろいだ。
「ええと、ですから」
「ユーリ様は、何が好物でいらっしゃるのかしら?」
 そう言いながら、ベアトリクスは白魚のような手で瑞々しいオレンジをつまむと、ユーリの口の前に差し出す。
 食欲という本能に従い、思わずそれを口にすると、アンジェリカの目が吊り上がり、ユーリは青く変色した。
 ハインリヒは捨てられた子犬のような目でユーリを見つめる。
心底困っているのが見て取れた。
 確かに、彼には荷が重いかもしれない。手強すぎる。ハインリヒと姉のやり取りを思い出して、ユーリは妙な既視感を感じた。
 その様子を見ていたアンジェリカはさらに気分を害した様子で、身を翻すと自分の席に戻り、残しておいた食事を一気に口に詰め込み出した。
「あ、俺のご飯……」
 好物のソーセージ、白桃、チェリーがどんどんとその小さな唇に消えていくのを見て、ユーリは切なくなる。
「ごちそうさま」
 アンジェリカは、磨かれたような皿を残して、ユーリとハインリヒを睨みながら食卓を離れていった。
「せっかくいい感じだったのに……。なかなか前途多難ですね」
 ユーリの後ろで、ハインリヒが呆然とした様子で呟いていた。

 *

 その日、結局ユーリとアンジェリカが口をきくことは無かった。
 そしてユーリは一日中ベアトリクスと付き合うことになった。
 ハインリヒがユーリの断りの言葉を必死で伝えても、ベアトリクスは全く受け入れず、ユーリの冷たい視線をたじたじになりながら必死で堪える。
ハインリヒはあの手の女性にはどうしても弱いのだ。
 結局ユーリの通訳をしているはずなのに、彼女が言葉を受け入れないものだから、しまいにはハインリヒも疲れて、ただ普通にベアトリクスと会話するようになってしまっていた。
 ――あーあ。本当に前途多難だ。
 ハインリヒは、ベッドで白いお腹を見せて眠るユーリを見ながらため息をつく。
 ユーリも今日一日のことが結構堪えたらしく、小さな寝顔には悲壮感が漂っている。

 それにしても――。
 ハインリヒは昨日の夜のことを思い出す。
 正直に言って本当に驚いた。
 急に人の気配を感じて目を開けると、隣にユーリが人間の姿で眠っていたのだ。
 ハインリヒはひどく動揺してベッドから転げ落ちた。
 そして飛び起きるとベッドの上のユーリを穴が開くくらいに見つめた。
 ――もしかして、時間差でベアトリクス様のキスの効果が現れた!?
 感激のあまり揺すり起こそうと、ユーリの肩に手をかけたとたん、ハインリヒの手は空を切った。ユーリは蛙の姿に戻ってしまっていた。
 一時的なものなのかと、がっかりしながら再び布団に潜り込もうとして、はたと気がつく。
 ――もし、また人間の姿に戻られたら?
 ハインリヒは思いついてぞっとする。
 さすがに人間の姿をしたユーリと一緒の寝台で眠るのは、問題がありすぎた。
 ユーリはこの少しの期間にかなり背が伸びていて、ハインリヒと並ぶくらいに成長していた。それに、顔つきも少し幼さが抜けた気がした。
 たった一月弱でこれほど? と驚くくらいの成長だった。
 そのため二人で並んで眠るにはいくら広い寝台といえども少々狭かった。そして問題はそこではない。
 ベッドの上のユーリは裸だった。
 狭いという以上に、さすがに裸の男と同じ寝台で眠るというのは、避けたかった。
 万が一誰かに見られたら、妙な噂が立つのは間違いなかった。
 ユーリの名誉もだけれど、自分の名誉もしっかりと守りたい。そのため、とりあえず、ハインリヒはソファに避難して昨夜は過ごしたのだけれど――
 ユーリは朝になると、何事もなかったかのように、また蛙の姿ですやすやと眠っていた。

 ――アンジェリカ様が見たというのは、あれかぁ。
 ハインリヒは柔らかいソファに沈み込むと、ため息をつく。
 王女の部屋に突如現れた黒髪の少年は――ほぼ確実にユーリだろうと思った。
 確かにハインリヒとユーリはその顔立ちこそ違うけれど、髪の色、癖の付き方などはとても良く似ている。
 自分で目を閉じている顔は見ることは出来ないから分からない。
でもあの特徴的な青い瞳が見えなければ、ひょっとしたら間違ってしまうのかもしれない。夜であればなおさらだ。
 誤解さえ解ければ、相思相愛なのかとハインリヒはかなり期待してしまう。
 しかし、いったいどうやってその誤解を解けば良いというのだろう。
 ハインリヒは今朝、ユーリにもそのことを伝えられなかったのだ。
 アンジェリカに黒髪の少年の正体を伝えられるとは思えなかった。

 彼女が自分で気づく必要がある。……となると、ハインリヒの部屋でユーリが過ごしていることはあまり良い傾向ではない気がする。
 昨日彼が考えた作戦も、一緒に過ごさなければ実行不可能だ。
 ともかく、一日中ベアトリクスとユーリがべったりなのは、計画の実行に大きな支障がある。
 ――ベアトリクス様をなんとかこちらに引き付けておく必要があるのかもしれないな。
 ハインリヒはあることを思いつき、そっと部屋を抜け出した。