16 蛙の替え玉

 翌朝、アンジェリカはまぶたを少々腫らした顔で、食堂へと向かっていた。
 自己嫌悪で昨晩はほとんど眠れなかったのだ。
 食堂で一人で拗ねていた態度は、まるで子供みたいだった。きっとユーリもハインリヒも呆れているだろう。
 でもはっきりしないユーリにもハインリヒにも腹が立って仕方が無かった。そして、そんな自分が子供っぽく感じられ、さらに苛立ちが募るのだ。
 それにしても、とアンジェリカは考える。
 ベアトリクスのあの強かさは、もう少し見習うべきなのかもしれない。
 過去の経験から、ハインリヒがあんな風に断れなくなる気持ちも分からなくはないのだ。
 他にも見習うべきところは多い。彼女はどこかに出かけるわけでもないのに、いつも美しく着飾っており、その抜群に目を引く肢体が余計際立つような服を選んで着こなしていた。
 アンジェリカと言えば、ほとんど頓着せずに、侍女の用意した服をそのまま着るだけだ。服の色にさえ注文をつけたことが無かった。
 ――お姉さまと並んだ時に相手にされないのも無理が無いのかもしれない……。
 持って生まれた美貌だけではない。着こなしから身のこなし方、人との接し方すべてにおいて負けている。初めてアンジェリカはそう意識した。
 ――でも、気づいただけ良くなったはず。今日こそは、きちんと大人の対応をしてみせるわ。
 アンジェリカはこっそりと誓うのだった。


 食堂に着くと、すでにベアトリクスの皿の前にユーリがちょこんと座っている。隣の席には通訳のためなのか、ハインリヒがにこやかに話に応じていた。
 アンジェリカは先ほど誓ったことを一瞬で忘れそうになる。
 ――いけないわ。ここですねてしまっては。昨日の二の舞。お姉様の思うつぼよ!
 アンジェリカはぐっと拳を握りしめると、目を閉じて深呼吸をする。
 そしてそちらを見ない振りをして自分の席へと向かった。

 席にたどり着いて、椅子を引いて腰掛けようとした時、
「おいっ、気をつけろよっ!!」
 嗄れた小さな声が耳に届き、アンジェリカは周囲を見回した。
 ――ユーリの声?
 でもユーリの訳が無い。もしそうだとしたら、姉の前にいる、あれは一体なんなのか。
 気のせいかとアンジェリカは椅子に腰掛けた。
「うわっ……ぐげっ」
 今度ははっきりと、つぶれたような声がした。
 腰のあたりにぐにゃりと妙な感触を感じ、慌ててアンジェリカは腰を浮かした。
 そして椅子の背もたれの隙間に、見覚えのある一匹の蛙が挟まっているのを見つけて仰天する。
白いお腹が隙間に入りきれずにはみ出していた。
「ユ」
「しーーっ!!」
 半分泣きそうな顔で、椅子に挟まったままのユーリが叫ぶ。
「ど、どうして」
 アンジェリカはユーリを背もたれから引っこ抜くと、ベアトリクスを気にしながら、椅子に座って膝の上に彼をそっと置く。
「はーー死ぬかと思った……」
 ユーリがホッとした声を上げたかと思うと、恨めしそうにアンジェリカを睨む。
「背もたれに隙間が無かったら、潰れて死んでたぞ」
「だ、だって、いると思わないじゃない。ユーリがここにいるんなら……あれって何よっ」
 アンジェリカは小声で叫ぶと、目でベアトリクスの前の蛙を指す。
「俺の替え玉」
 当たり前のように言うユーリに、アンジェリカはぽかんと口を開ける。
 ――替え玉……って、何かの冗談? そういうのって重要人物に使う物でしょう?
 呆れるアンジェリカを気にすることもなく、顔をくしゃくしゃにしてユーリが呟く。
「俺、あの姉さん苦手」
「え? なんで?」
 アンジェリカは驚く。姉に対するそんな言葉、初めて聞いたのだ。
「あのひと、俺の姉さんにそっくりなんだ」
 ――はあ?
「あなた、お姉さんなんかいるの……? しかもベアトリクス姉さんに似た?」
 ――いったいどんな蛙なのかしら。目が大きいとか? 瞳の色が茶色だとか? 肌の艶が良いとか?
 アンジェリカはベアトリクスをじっと見つめる。
 姉に似た蛙を想像しようとしたけれど、結局まったく想像がつかなかった。
 アンジェリカは諦めて、気になっていたことを再び尋ねる。
「……あれって何?」
「俺が、あのお姉さん苦手そうにしてたら、ハインリヒがあいつを連れて来たんだ。ちょっと前から仲良くしてて、人に飼われることに慣れてるらしい」
「ユーリの親戚かなにか? すごく良く似てるけど」
 ――ひょっとしたら弟とかそういうのかも。
 アンジェリカが何気なく問うと、ユーリはひどく不快そうに顔をしかめた。
「お前、俺に喧嘩売ってんのか」
 ユーリはそう言うと黙り込む。
 アンジェリカはなぜユーリが怒るのか分からずに、不愉快になった。
 特に変なことを言った覚えがないのに怒られるのは理不尽だ。
 しかし、ここで怒っては『大人の女性』にはほど遠い。アンジェリカはぐっと堪えた。
 少しの気まずい沈黙のあと、ユーリはアンジェリカを見上げて言う。
「とにかく、さ。しばらくあいつが『ユーリ』ってことで、頼む。俺、まだ死にたくないんだ」
 あまりにも情けないその声に、アンジェリカは少しほだされる。
「それは……いいけれど」
 ――でも
 目線をあげると、蛙を挟んで談笑するベアトリクスとハインリヒが見えて、アンジェリカは複雑だった。
 ――ユーリは戻って来たけれど、ハインリヒ殿があのままでは意味が無いんじゃないかしら……。
 悩みはいっそう深くなった気がしていた。


 *


 甘い香りがユーリの鼻をくすぐった。
 アンジェリカの膝の上からテーブルの上を見上げると、専用の小さな金皿の上に、瑞々しいフルーツがどんどんと乗せられていく。
 ユーリは、久々に好物にありついてほくほくしていた。好きなものが食べられるというのはやはり嬉しい。
 アンジェリカが口に運んでくれる白桃に思い切りかぶりつくと、口の中でそれがトロリと溶けて、その香りが鼻から抜けていく。至福の時だった。
 ふとアンジェリカを見ると、彼女は上の空で食事を続けており、時折ため息をついていた。
 すみれ色の瞳にはやるせなさそうな影が浮かんでいて、見ているとユーリは急に落ち着かない気持ちになった。
 せっかくの好物の味も半減してしまいそうなくらいに。
 原因は分かっている。
 ユーリは少し伸び上がって、テーブル越しにその原因に目をやる。
 ハインリヒが生き生きとベアトリクスと談笑していた。
 それはアンジェリカと話しているときには見せない表情だった。ユーリには覚えがある。ユーリの姉と話している時と同じ、心から楽しんでる表情だ。
 おそらくユーリがいなくなって自由に話せるのも大きいのだろう。
「ユーリのため」とハインリヒは言っていたけれど、本当のところはどうだか分からない。
 ――あいつ、なんだかんだ言って、ああいう女に弱いんだよな、ホント。
 本人は否定するけれど、確実に女王様タイプの女性と馬が合っている。
 もともと自分を抑えるタイプだ。強引な女性のほうが気が楽なのだろう。
 逆にアンジェリカのような、リードしてもらうのを待っているような女性だと、途方にくれてしまうらしい。ハインリヒがユーリに遠慮しているのかとも思っていたけれど、どうやらそういう訳でもなさそうだった。
 アンジェリカとハインリヒの二人だけで会話が続いているのを、ユーリは見たことはなかった。
 もし間にユーリがいなければ、お互いに息苦しいのではないだろうか? そうユーリは考える。
 ――ハインリヒの言うように、あきらめるのは早いかもしれないかな。
 ユーリは微かな希望が胸の中に湧いてくるのを感じていた。

 ハインリヒは、「なるべくアンジェリカ様のお話を聞いてあげてください」と言っていた。
 正直に言うと嫌だった。どうせハインリヒのことで相談を受けるに決まっているのだ。
 目の前で他の男のことを熱心に語られても、不愉快どころか、胸が苦しくてたまらない。すぐにめげてしまいそうだった。
 しかし、そうやって話を聞いてるうちに、アンジェリカはきっとユーリに心を開いてくれるとハインリヒは言うのだ。
 ユーリが知る限り、ハインリヒには恋愛経験などないはずなのに、彼は妙に熱心にそう勧めた。
 こっそり恋愛指南書でも読んでいるのかもしれない。
 ――とにかくやってみるしかないよな。これからの人生が丸ごと掛かっているんだからな。

 欲しいものがあるならば、それなりの対価を支払わなければならないことを、このひと月でユーリはしっかりと学習していた。
 食べ物についても然り、寝る場所についても然り。
 すべては当たり前に与えられているわけではないのだ。
 ――なんだか、俺ってずいぶん大人になったんじゃないか?
 ユーリは自分でも不思議に思っていた。
 もし蛙の姿になることが無ければ、いろいろと深く考えもせずに、体だけが大人になっていったのだろう。
 蛙の姿になったことは、全く意味の無いことではなかったのかもしれない。
 ――晴れて人間に戻ることができて、カストックに帰れたら、……その時はルーツィエに感謝しなきゃな。
 ユーリは自然とそう思えるようになっていた。