食事が済むと、ユーリはアンジェリカに連れられて、久々に彼女の部屋に戻った。
早々に侍女を下げさせたので久々に二人きりだった。
「ねえ」
アンジェリカは思い切ったようにユーリを振り返る。
来たか、とユーリは覚悟した。だが、顔を上げて息が止まる。
「お、おまえ」
「なあに?」
下から見上げてるときはまったく気がつかなかったのだけれど、アンジェリカは化粧をしていた。
小さな唇がつやつやと桜桃のように赤く光っている。
唇の形がはっきりと浮かび上がり、一瞬でユーリの目に焼きついた。
「化粧してるのか……?」
「え? ああ。そうなの。似合う?」
にっこりと笑いかけられて、ユーリは頭が茹だるのがわかった。
よくよく見ると、服もいつもと様子が違う。
襟ぐりの開きがいつもより大きい。いつもは見えない彼女の華奢な鎖骨と白い胸元が見えて、頭に上った血が湧いた。
「いったい何のまねだよ、その格好」
「え? ああ、ちょっとね。イザベラお姉さまに言われたの。もうちょっと身だしなみに気をつけなさいって」
「身だしなみ……っていうか……」
似合っていないわけではない。しかし、ユーリはひどく気に入らなかった。
「それってさあ、ベアトリクスの真似だろ? いくら似せてもお前じゃ敵わないって……」
それよりもと、ユーリは続けようとしたけれど、アンジェリカの表情が凍りついているのに気がついて、言葉が喉に詰まった。
今のは言ってはいけない一言だったらしい。
どう言いつくろうかとあたふたとしているうちに、アンジェリカの目にみるみるうちに涙が盛り上がる。
「あ、いや、そのっ」
ユーリは小さな手を必死で左右に振って、足りない言葉を補おうとする。
「……似合わないんなら、ただそう言えばいいのにっ」
叫ぶと、アンジェリカはぽろぽろとすみれ色の涙を目から溢れさせた。
それははっとするくらいきれいで、ユーリはそんな場合ではないと分かっているのに見とれてしまう。
呆然とするユーリの目の前で、アンジェリカはハンカチでごしごしと顔をぬぐって化粧を落とすと、破り捨てるような勢いでドレスを脱ぎだした。
「おいっ!!!!」
ユーリは卒倒する。
――勘弁してくれ!
ひどく悪いことをしている気分になって、ユーリはくるりと後ろを向くと、彼女から目を逸らした。
湯浴みの時にもそうだったけれど、今回は泣いている分だけ余計に目に毒だった。
アンジェリカは一気にドレスを脱ぎ捨てると、下着姿のままベットに飛び込んだ。
枕に顔を伏せて肩を震わせている。
微かな嗚咽がユーリの耳に届き、彼はこれ以上無いくらいに動揺する。
――ど、どうすれば……。
ユーリは必死で小さな脳みそを働かせる。
――とりあえず、アレはだめだ。話もできない!
なるだけアンジェリカの姿を目に入れないようにベッドに近づくと、口にシーツをくわえて必死でそれを引っ張る。そしてアンジェリカの体を覆った。全部覆い終わる頃には、ユーリは精根尽きてそのままアンジェリカの隣に倒れ込んだ。
――泣かせてしまった。
今までに味わったことの無いような罪悪感。
それと、胸の中を暴れる痛いくらいの想いに、ユーリは戸惑っていた。
――この手が、もっと大きかったなら。
ユーリはいつの間にか握りしめていた手をそっと開くと、その可愛らしいともいえる丸みを帯びたつやつやとした手を眺める。
今のユーリの指では、アンジェリカの涙さえ拭うことが出来なかった。
そもそもユーリが顔などに触れようなら、アンジェリカはきっと拒絶反応を起こすに決まっている。
逃げ出すことも出来ず、慰めることも出来ない状態で、ユーリはただただじっとしているしかなかった。
*
アンジェリカはひたすら泣きじゃくった。
こんなに泣いたのは子供のとき以来かもしれない。
ユーリの言葉に傷つくとは自分でも思っていなかった。
蛙のユーリの言うことなんて、さらりと聞き流せばいいのだ。
――蛙に人間のことなんて分かるわけが無いんだから。
必死で思おうとしても、どうしても出来ない。
泣くだけ泣いて、顔の形にくっきり染みがついてしまった枕から顔を上げると、そこにはまだユーリが心細そうにしゃがみ込んでいた。
「なによ。何でまだいるの」
アンジェリカは目の前の蛙を、泣きはらした目で睨みつける。
ユーリは一瞬怯んだけれど、覚悟を決めたように真剣な表情でアンジェリカを見つめた。黄金の目はいつもよりも強い光を放っている。
「……ごめん」
いつもの生意気さなどかけらも無いような声色で、ユーリは謝った。
「俺、そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
――ゆ、ユーリが謝ってるわ……!
アンジェリカはユーリの態度に仰天しながらも、涙声で問う。
「……じゃあ、どういうつもりで言ったっていうの。お姉様と比べるなんて……」
アンジェリカは昨日の一件が堪えて、自分なりに色々考えたのだ。
今日のことも、姉のように着飾ってみれば少しは魅力的に見えるかもしれない、そう思って勇気をふり絞ってやったことだった。
気恥ずかしさを堪えて侍女に頼み、ベアトリクスが着ているような服を選んでもらい、ほとんどした事がなかった化粧も施してもらった。
そうして仕上がった鏡の中の自分は、今までの子供っぽい自分と違って、大人っぽく、綺麗に見えた。
侍女だって褒めてくれたのだ。
だから、ハインリヒやユーリだって少しは褒めてくれるのではないか、少しは興味を持ってくれるのではないか、そう思って僅かな期待を抱きながら朝食の席に向かったのに。
しかしふたを開けてみると、ハインリヒは相変わらずベアトリクスに釘付けで、アンジェリカの変化に気づきさえしないし、ユーリについても先ほどやっと気がついたくらいで。
それだけならまだしも、姉と比べて劣るとはっきりと言われた。
アンジェリカの小さなプライドはずたずただった。
「分かってるの。お姉様たちに敵わないことなんて。でもこのままじゃいけないって思ったの。なのに」
アンジェリカは呻くように言う。その声はあまりにも小さくて、すぐに部屋の空気に溶けていってしまう。
「俺さ、いつも通りでいいと思う」
迷うような気配の後、なぜかユーリは照れたようにもじもじとしながら言った。
「無理して姉さんの真似なんかしなくていい。お前にはお前のいいところがあるんだから。いつもの格好の方がお前に似合ってるし、……その……その方が俺は好きだ」
アンジェリカはユーリがあまりに真剣なので、面食らっていた。目の前の蛙は今、見たこともないような表情をしている。
ついまじまじと見つめてしまうと、ユーリは慌てたようにくるりと後ろを向いた。
まだら模様の背中がひどく強張っているように見えた。
「あなた、本当にユーリ? どこかで入れ替わって来たんじゃ…………あっ、やっぱりさっきお姉様の所にいたのが本物のユーリなのかしら」
アンジェリカが言うと、ユーリは一気に脱力してベッドの上にぽてっとうつぶせに倒れ込む。
その姿が滑稽で、アンジェリカは思わず吹き出した。
――お前にはお前のいいところがあるんだから――
心の中でユーリの声がよみがえる。
先ほどのどんよりした雨空のような気分が嘘の様に晴れ、不思議なほどにアンジェリカの心は軽くなっていた。
*
「ねえ。私のいいところって?」
アンジェリカはそう無邪気に聞いてくる。
――そこなのか、重要なのは。
ユーリはげんなりする。これだけ完全に流されると立場がない。
分かってはいた。アンジェリカの目に映る自分はただの蛙だということは。
先ほどの態度からもユーリを男としてみていない、それ以前に人間として見ていない事は明らかだった。
だけど、少しだけでもこっちを見て欲しかった。
淡い期待をこめて言った『その言葉』は、アンジェリカにまったく届くことはなく、地に落ちた。
きっとペットが飼い主に愛情をもつのと同じくらいにしか思っていないのだろう。完全に恋愛の対象外だ。
――当たり前か。
逆の立場だったら、と、ユーリは考える。
自分でも蛙相手に恋が出来るとは思えなかった。
――やっぱり無理だって……ハインリヒ。
ユーリは早くもあきらめの境地に立っていた。
気を取り直し、覚悟を決めて目線を上げると、アンジェリカが瞳をキラキラさせてこちらを見つめていて、どぎまぎする。
先ほどの打ちひしがれた様子の彼女はもう見たくなかったので、適当に答えるわけにはいかない。
「ええと……」
――アンジェリカのいいところ?
口を開こうとするけれど、思いついたものは恥ずかし過ぎて口に出せない。
単純なユーリの好みなのだ。
他の人間がいいと思うかなんて、そんなことはユーリには分からなかった。
ただ、その小さな唇には真っ赤な紅なんか似合わなかったし、線の細い華奢な体には、もっと可愛らしいデザインのドレスが似合う。
すみれの花のようなアンジェリカには、ベアトリクスのような派手で妖艶なものではなく、控えめで可憐なものが似合うのだ。
ただ、どう伝えても、アンジェリカは傷つきそうで、ユーリは怖かった。
「ええと……」
ひとまず外見の美点は置いておいて、今度は内面の良いところを探そうとするけれど、これまた難しかった。
――アンジェリカのいいところ……か
『時々』優しいところ。子供のように純粋でまっすぐなところ。
正直に言うと、欠点と思われるようなものが多かった。
欠点ならいくらでも出てくる気がしたけれど、美点はほとんど出て来ない。
そもそも美点と欠点というのは表裏の関係だ。アンジェリカのわがままなど、彼女の子供っぽい純粋なところの裏返しで、彼女が欠点を直した時には、対になる美点も薄らぐのだろう。
それはなんだか勿体ない気もした。
考えれば考えるほど目の前にはアンジェリカの欠点が山積みになり、ユーリは自分の気持ちが分からなくなった。
――俺、なんでこんな女、好きなんだろう……。
考え込むユーリの前で、アンジェリカは待ちくたびれて、不安そうな顔をする。
「……無いの?」
ぼそっと悲しげに呟くアンジェリカに、ユーリは反射的に叫ぶ。
「いやっ……えっと、そうだ! 俺と話が出来ること!」
「はぁ?」
アンジェリカは思いっきりがっかりした顔をする。
ユーリは無理矢理過ぎると自分でも思い、慌てて言葉を探す。
「だって俺の言葉がわかるって、この国ではお前と王様だけだろう? 俺さ、あの王様に最初に会って、なんて出来た人間なんだろうって思った。俺のこと、最初から大事にしてくれたからさ、びっくりして。お前にしても、最初は扱いは散々だったけど、このごろは違うだろ? ちゃんと俺のこと大事にしてくれてる。俺の見かけ、こんななのにさ。……俺、結構感動してるんだ」
ユーリは冷や汗を垂らしつつ、勢い良くまくしたてた。
「でも、お姉様もユーリのこと大事にしてるんじゃないの?」
幸いアンジェリカは、ユーリの発言の噛み合なさには気づかなかったらしい。
ほっとしつつも、ユーリはベアトリクスの態度について弁明する。
「あれは……ちょっと違う。あの姉さんは、『俺』ではないものに優しくしてるだけなんだ」
「『ユーリ』ではないもの?」
ユーリはいっそのこと説明したかったけれど、例によって伝わらないのは分かっていた。
アンジェリカはなんだか納得できていない様子で、ユーリはハラハラした。
完全に『ユーリ限定のいいところ』を言ってしまったのだ。それをごまかすように、いろいろと言葉を繕っただけで。
彼女は少し黙って、ユーリの言ったことをゆっくりと噛み砕いているようだった。
「……つまり、私はお父様と同じってこと?」
ややして、アンジェリカは首を傾げて言う。
――いくら何でも、それは厚かましすぎる解釈だって。
ユーリは前向きな解釈にホッとしながらも思う。
そして頭を掻きながら、ため息をつく。
「……あのくらいの人物になりたいのなら、お前、相当努力しないと駄目だと思うぞ」
父親を褒められたアンジェリカは頬を染めて嬉しそうにしている。彼女にとって自慢の父親なのだろう。
とりあえずごまかせたことに安心したユーリは、ふと不思議に思う。
――今までは気にしたことも無かったけど、俺と話が出来る、出来ないって……いったい何の違いなんだろう?
あとでハインリヒに聞いてみよう、ユーリはそう思った。