18 王の相談事

 ハインリヒは、ベアトリクスの元から自室に戻ろうと廊下を歩いていた。
 ふと窓から外を眺めると、つい最近まで緑色に輝いていた美しい森が黄色く色づこうとしている。日の光も刺すような強烈さが薄れ、暖かい色で景色を染めている。
 カストックの夏も短いけれど、リュンベルクもそう変わりがないらしい。
 ――もう秋かぁ。もうすぐ収穫祭、ユーリ様の十四歳のお誕生日も近いなぁ。
 ハインリヒは、ずいぶんとこのリュンベルクの空気に馴染んでしまったことを感じる。
 彼がこの国にユーリを迎えに来て、かれこれひと月が過ぎようとしていた。


 ベアトリクスはハインリヒの策が功を奏して、未だ、ただの蛙をユーリだと思い込み、ハインリヒを通訳として熱心に迫っていた。
 少々気の毒だけれど、もともと彼女もカストックの王子という肩書きが好きなだけで、ユーリそのものが好きなわけではない。意思疎通の出来ない相手との恋愛など元々無理だということは、いずれ彼女にも分かるだろう。

 ユーリはあれからずっと、アンジェリカの話相手を務めている。彼なりに懸命な努力をしているらしく、最初の頃のように話の途中で飛び出してくる、なんてことはほとんど無くなった。小さな王子は驚くほどに我慢強くなっていた。
 アンジェリカの方も、恋愛相談だけではなく、ユーリを友人として日々の他愛ない会話を楽しむようになっているようだった。何か二人の間に信頼関係のようなものが出来上がったように見える。
 どうも、あの『ユーリ様入れ替え大作戦』で二人きりになったときに、何かあったらしい。
 ユーリに尋ねても、苦い顔をして詳しいことは教えてくれなかったけれど。
 いい傾向だった。
 ハインリヒが参考にしている恋愛指南書はやはり間違っていなかった。もともとは自分のために手に入れたものだったのだが、こんな風に役に立つとは思いもしなかった。
 恋愛相談をしているうちに、その相談相手に恋をする。
 恋愛の形の一つだそうだ。
 ユーリはさすがに落ち着かないらしく、眠れないからと、夜にはハインリヒの部屋に戻ってくる。ユーリの気持ちも分かるけれど、いっそのこと夜も一緒に過ごした方が手っ取り早いのではないか、とハインリヒはこっそり思っていた。
 そうすれば、夢の中の少年がハインリヒでないことがアンジェリカにも分かるだろう。

「ああ、ハインリヒ殿」
 穏やかな声に振り向くと廊下の先からリュンベルク王が歩いて来ていた。さすがに王は多忙で、食事以外では滅多に一緒になることはない。
 しかもこのところ、ハインリヒは、食事中、ずっとベアトリクスにかかりきりなので、王とは挨拶くらいしか交わしていなかった。
 ハインリヒは少し微笑むと、丁寧に腰を折る。
「長い間お世話になって、本当にありがたく思っております」
「いや、いいのだ。それより、折り入って相談があるのだが……おや、そちらは……?」
 王はハインリヒの手の中の蛙を覗き込んで、眉を上げる。
 蛙はのろのろと王を見上げる。
 最近動きが鈍くなったように感じていた。
「ああ、これはただの蛙です」
 ハインリヒは簡単に事情を説明する。
「ああ、ベアトリクスは、あの子は昔から人のものがとても魅力的に見えるらしくてね。どん欲なのだよ。それもあの子のいいところなのだが。……いや、気がつかずに申し訳ない」
 頭を下げられ、ハインリヒは焦る。
「いえ、そんな! とんでもないです」
 思わぬ楽しい時間を過ごせているハインリヒは後ろめたい気持ちになる。気の合う美女との会話はやはり楽しいのだ。
 ユーリには悪いけれど、結果的には出汁にしてしまっている気がする。
 ベアトリクスにバレたときにどうなるのかは考えたくもないけれど……。
 一度失ったも同然の命だ。
 ユーリのためならそのくらいは耐え抜いてみせると、ハインリヒは覚悟していた。
「あの……それで相談というのは……?」
「いや、それがね」
 立ち話もなんだしと、王はハインリヒをお茶に誘った。


 王の部屋は王城の最上階にあり、部屋の南側一面が全て窓になっているとても明るい部屋だった。
 一部の窓が開けられて、そこからさわやかな秋風が部屋の中に流れ込んでくる。
 王はハインリヒに椅子を勧めると、自分もテーブルを挟んだ反対側の椅子に腰掛ける。
 柔らかいクッションに沈み込むようにハインリヒが腰掛けると、侍女が機をはかったように、丁寧に淹れた香り高い紅茶を目の前に置いていく。
 ハインリヒはテーブルの上にハンカチを広げると、その上に蛙をそっと乗せた。
 蛙はやはり緩慢な動作でその上にぺとりと寝そべり、ゆっくりと瞼を閉じる。
 王は何から切り出そうかと迷うそぶりをしたけれど、やがてゆっくりと口を開いた。
「実は……もうすぐアンジェリカの誕生日でね。あの子ももう十七だ。そろそろ本気で婿探しをしなければならない」
「はあ」
 ハインリヒはぼんやりと相づちを打つ。
 王がなぜユーリを伴わないハインリヒに話をしているのか、まだ彼には掴めなかった。
「カストックでも同様だと聞くが、この国でも十七にもなって婚約者が決まっていないというのはなかなかに恥ずかしいことでね。イザベラにせよ、ベアトリクスにせよ、一応それらしき相手というのは決まっている。……まあ、ベアトリクスについては……あの通りふらふらとすぐに相手を変えてしまうのだが。アンジェリカだけなのだよ、決まった相手がいないのは」
 王は紅茶を口にすると、テラスから広がるリュンベルクの美しい空に視線を泳がせ、息をついた。
「もちろんユーリ殿で不足は無いのだ……しかし」
 王はそこで口ごもり、テーブルの上の蛙をじっと見つめる。
 蛙は喉を膨らませながら気持ち良さそうに目を閉じていた。
 ハインリヒにも言いたいことはよく分かった。
「いくら何でもあの姿ではさすがにお披露目が出来なくてね、困っているのだよ」
 確かに、ユーリのあの姿をアンジェリカの相手としてお披露目しようものならば、国王としても一人の父親としても信用を失ってしまうだろう。
 もちろんそんな外向きの理由よりも大きいものがあることは明らかだった。
 娘一人一人をみていれば、王がどれだけ娘に愛情を注いでいるかすぐに分かる。それぞれの個性を生かし、伸び伸びと育てている。だから皆魅力的に輝いているのだ。王はきっと娘たちには例え小さな傷一つでもつけたくないと願っているに決まっていた。
 王は、真剣な瞳をハインリヒに向けると、言う。
「一度、試してみて欲しいのだ。ユーリ殿が元の姿に戻れないかどうか。時間もないし、この際手段は選んでいられないのでね」
「あ、あの、つまりそれは……」
 ふと、以前考えた無茶な作戦が頭をよぎる。
 王が自分だけに相談する意味が、ようやくハインリヒにも呑み込めて来た。
 目を見開き絶句するハインリヒに、王は申し訳なさげに頷いた。
「もし、駄目ならば、本当に申し訳ないが、この話は一度白紙に戻して欲しいのだよ。あんな娘でも可愛いし、私にも立場というものがある。……分かってくださるか?」
 ――もちろん、十分過ぎるくらい分かります。しかし……。
 ハインリヒはごくりと喉を鳴らし、恐る恐る聞いた。
「あ、あの……それで、期限はいかほど頂けるのでしょうか……?」
 王の口がゆっくりと動く。
 返ってきた答えに、ハインリヒは目の前が真っ暗になる気がしていた。
 先ほどまで美しい色をしていたはずの西の空には、どんよりとした灰色の雲が集まり出していた。秋の風は嵐を連れて来たようだった。少しずつ強まった風が、王宮の窓をかたかたと叩く。
 ハインリヒはため息をつきながら、王の部屋から戻っていた。
 世界中の不幸を背負ったような雰囲気が、じわりとにじみ出ている。
 肩の上の蛙は疲れたのか、うつらうつらと眠りについて、彼は、いい気なものだと虚ろな瞳でそれを見つめた。
 あまりに陰気な雰囲気に、侍女たちがハインリヒを遠巻きに避けて歩いて行く。
 ――ユーリ様。危機がやってきました……。
 アンジェリカの誕生日はあと一月後。
 順風満帆だと、時間さえかければと、悠長に構えていたハインリヒだったけれど、そうも言っていられなくなったのだ。