その日は、久々に授業があっていた。
しばらく教師の体調不良のため、自習となっていたのだ。
秋口になると、天気の関係で節々が痛むらしい。教師も高齢だ。こういうことはよくあった。
アンジェリカは久々に見る髭の顔をみて、そういえば、と思い出す。
――ユーリの名前について調べてもらっていたのって、どうなったのかしら?
授業が終わり、教師がいつものようにイザベラに支えられながら部屋の外に出たところを、アンジェリカは呼び止める。
「先生」
教師はその目を細めてアンジェリカを見つめる。
そうして、ゆるゆると何かを思い出すような表情になった。
「ああ。……そうだったね。そういえば調べものを頼まれていたかね」
教師は、ごそごそと鞄の中を探ると、一枚の紙を取り出す。
「これこれ」
アンジェリカは紙を受け取るなり、憂鬱な気分になる。
その紙にはずらりと人の名前が並んでいる。百名以上いるのではないだろうか。この中から、ユーリとハインリヒに関連する人物を割りださなければいけない。しかも、どう繋がりがあるのかさえさっぱり分からないというのに。
――これではあまり意味が無いかもしれないわね。
「ありがとうございました」
とりあえず、とアンジェリカが礼を言うと、教師はにっこりと笑った。
「勉強熱心なのはいいことですよ」
柔らかく言われて、アンジェリカは急に後ろめたい気分になる。
個人的な興味で、この老人に手間をかけさせてしまったのだ。
教師が、このずらりと並んだ人名を紙に書き込んでいるところを想像すると、申し訳なかった。細い腕をみる。弱々しげな目の光を見る。きっとこの細かい文字を書き込むのは大変な苦労だったろう。
本がかび臭いくらい一体なんだというのだろう。何も考えずに軽い気持ちで頼んでしまった自分が恥ずかしくなった。
あのときイザベラがアンジェリカを睨んでいたのは、そんな理由だったのかもしれない、ふとアンジェリカは思い当たった。
――今度は自分で調べないといけないわ
アンジェリカは教師の笑顔を見ながら決心する。
「なあに? それ」
教師を見送るアンジェリカの後ろから、イザベラが紙を覗き込む。
「ああ、ユーリという名前について調べてもらったの」
「ユーリ?」
アンジェリカはこれまでいろんな人間にしてきたように、イザベラにも説明した。
ふと、もう名前についてなど、ほとんど興味を失っていることに気がつく。
ユーリはユーリなのだ。それ以外の何者でもない。
ユーリを出汁にハインリヒと話をしようなどという浅ましい考えは、いつの間にか消えていた。
ユーリはこのごろアンジェリカの話をよく聞いてくれる。普通の他愛ない話からハインリヒの話まで、前みたいに途中で逃げることもなく、最後までじっくりと。
ただ……ハインリヒのことで相談をすると、ユーリはなぜかとても悲しそうにするのだ。
アンジェリカは、いつしかユーリの様子を窺うことを覚えた。
蛙にも心があるのだ。父が前にアンジェリカに言ったことが、今更だけれど理解できていた。
――物事を見かけだけで判断してはいけない。第一もうお前たちは友達なのだろう? それならきちんと敬意を払いなさい。――
ユーリの見かけはたしかに蛙だけれど、中身はまるで人間のようだった。
アンジェリカの言葉に普通に傷ついたりするのだ。
ユーリはアンジェリカのことを認めてくれる数少ない相手だ。もう以前のようにいなくなっても良いなどとは思えなかった。だから、アンジェリカは今までとは違い、『普通に』ユーリに気を使っている。
「随分たくさんいるのね」
イザベラの言葉で、ぼんやりしていたアンジェリカは我に返った。
「そうなの。でも、もうあまり必要じゃなくなってしまったから、先生にご苦労をお掛けして、申し訳ないことをしてしまったわ」
イザベラはアンジェリカの言葉に少し微笑んだ。滅多に見ることのない姉の柔らかい笑みに一瞬見とれた。
「――あら」
イザベラは再び紙をじっと見つめていたけれど、急に声を上げる。
「ここだけ、文字が消えてるわね」
見ると、確かに不自然な空欄が一カ所ある。ぎっしり詰まった文字の中程なので、まるで虫が食ったようだった。
「私が知ってる中であきらかに足りない人物がいるのだけど……ここかしら」
イザベラは神経質そうに眉を寄せると、そうぶつぶつと呟く。
「……ベアトリクスの狙いは、それね。なるほど。それならば、必死なはずだわ」
「お姉さま?」
「アンジェリカも鈍いわね。いつものことでしょう? ベアトリクスが狙うものは、あなたにとっても大事なもののことが多いって。今回は勉強嫌いが祟ったわね」
どうやら姉には何もかも分かったようなのだけれど、アンジェリカはさっぱり訳が分からない。
イザベラは呆れたようにため息をつき、
「あなたにとってそれが大切かどうかは別として……それでも、大切なものって、意外に目に映らないものなの。
無くしてからでは遅いのよ? 応援してあげたいけれど、こればっかりは口出しするとこじれる可能性があるから、やめておくわね。――十分お気をつけなさいな」
嘘みたいに熱心に言い聞かせると、アンジェリカにくるりと背を向けた。
――大切なものは目に見えない?
アンジェリカが、その言葉を心の中で繰り返しているうちに、姉の姿は廊下の角へと消えていった。
*
――なんだか眠いなあ……。
ユーリはベッドの上でうつらうつらとしていた。
外を見ると、つい最近までの綺麗な空色が嘘のように、どんよりとした雲が一面に広がっている。
カストックの秋もそうだけれど、このリュンベルクでも秋の天気は変わりやすいらしい。嵐も頻繁にやってくる。
空を見ると憂鬱な気分が余計にひどくなった。
秋が深まるのを感じ、寂しさがユーリの胸の中を駆け抜ける。
あれから毎日アンジェリカといろいろな話をしている。彼女は、自分を磨きたいと意気込んでいて、ユーリに助言を求めるようになった。
どうやら、この間彼女を認めたことで、変な信頼を寄せられてしまったようだった。そのこと自体は、今までからすると考えられないことで、ものすごく嬉しい。しかし、彼女が努力しているその原因は、やはり変わらずハインリヒにあるのだ。
それが分かる度に、ユーリはむなしさを感じずにはいられなかった。
アンジェリカがいくら大人びて行こうとも、それはユーリのためではなく、ハインリヒのため。
このままだと、いつか、ハインリヒがアンジェリカのことを好きになってしまうかもしれない。ユーリは、自分が彼らの恋を手助けしているだけのような気がして、不安で堪らないのだった。
部屋の扉が開き、ハインリヒが顔を見せる。
風の通り道が出来て、窓の隙間から冷たい秋風が入る。ユーリは体が硬直するのを感じた。命が縮まる冷たさだった。
ハインリヒはなぜか浮かない顔をしていた。
「どうした?」
ユーリは尋ねる。
「いえ……」
歯切れ悪く答えると、ハインリヒはソファにどっしりと座り込む。そしてユーリをちらりと見ると長いため息をついた。
「ユーリ様。あの……その後、アンジェリカ様とはどうです?」
ハインリヒはうつろな目をユーリに向ける。
「お前が、それを俺に聞くのかよ」
ユーリは不愉快になる。
ただでさえあの熱烈な視線をさらりと躱しているハインリヒに、いつもユーリは腹を立てているのだ。……もちろん、受け止めてもらっても困るのだけれど。
ハインリヒがユーリをアンジェリカの部屋に送ってくる、そのひとときのこと。いつも見ていられなくて、その場から逃げたくなる。しかし結局は二人きりにさせることが心配で、いつも我慢しているのだった。
交わす言葉はほとんどない。ただ、アンジェリカは瞳に熱を込めてじっとハインリヒを見上げるのだ。
ハインリヒは気づかないのか、気づかないふりなのか、ただにっこりと笑って、ユーリを託して去っていく。そうして、アンジェリカは、寂しげにため息をつく。
――なんで、あの視線の先にいるのが俺じゃないんだろう。もし俺だったら、あんな顔、絶対させないのに。
ユーリはどうしようもなくもどかしかった。
「なんの進展も無いですか? ほんの少しでも?」
ハインリヒはしつこく聞いてくる。
ユーリは彼に噛み付きたくなる。歯がないからきっとちっとも痛くないだろうけれど。
「うるさい」
ユーリはそう言うと、傍らにあった毛布の隙間に潜り込んだ。
暖かな毛布を被ると、一気に体の重みが増した。それが眠気だとうっすらと気がついたのは、瞼が閉じた後だった。
ユーリはひどく疲れていた。
――このまま眠ってしまって、目が覚めないのもいいかもしれないな。
そう思った一瞬後には、彼は深い眠りについていた。
*
「ユーリ様?」
ハインリヒはベッドのユーリを覗き込んで驚いた。
まだ昼間だというのに、ユーリは深く眠り込んでいた。
ふとテーブルの上の替え玉蛙を見ると、そちらもうつらうつらしてテーブルの上に俯せている。
――もしかして
ハインリヒは足元から這い上がる冷気を急に感じた。
ふと『そのこと』に気がつき、寒気が背筋を駆け上がった。
「……冬眠していらっしゃる?」
いくら元が人間であっても、習性は蛙なのだ。
秋が来て、冬がくれば、蛙は冬眠してしまう。リュンベルクの遅い春が訪れるまで土の中で長い眠りに落ちてしまうのだ。
ユーリも例外ではないのかもしれない。
「嘘だろう……!?」
ハインリヒは焦った。王との約束の期限はひと月後。相談しなければならないことは大量にあった。
とっさにユーリを起こそうと毛布を剥いで、ハインリヒはぎょっとする。
いつの間にか、ユーリは人の姿に戻ってすやすやと眠っていた。
――また、大きくなられた?
ハインリヒは二度驚く。
先日見かけたときより、さらに背が伸びた気がした。頬の辺りに残っていた幼さもまた薄くなった気がする。その寝姿はもう、とても少女には見えない。
ハインリヒの胸を嫌な予感が駆け抜ける。
――まさか、まさかだけど、時の進み方も違うなんてことないだろうな?
万が一そうだとすると、一大事だった。
蛙の寿命など、詳しくは知らないけれど、人間よりかなり短いに決まっているのだ。
同じ時間を過ごしていたとしても、成長の速度、つまり老いる速度も早いのかもしれなかった。
となると、一刻も早く元の姿を取り戻さなければ、とんでもないことになる。
「あぁ、もう!!」
――なんで次から次へと!!
ハインリヒは頭を抱え込んだ。
そのまま床にかがみ込むと、彼は黒髪をかきむしりながら唸り続ける。
しかし、やがて彼は漆黒の瞳に力を込めて顔を上げた。
ともかく、ユーリが元の姿を取り戻さなければならないということに変わりはない。期限が少し短くなった、それだけのことなのだ。
「ユーリ様。何が何でも、全てを手に入れてみせましょう。……私の命にかけても」
ハインリヒは拳を握りしめ、ユーリの寝顔を見ながら呟く。
そうすることで、弱気になりそうな自分を叱咤していたのだった。
*
ハインリヒは作戦を詰めようと、ソファに座って考え込んだ。
目の前の蛙は結局眠ってしまったので、ハインリヒはその背にそっとハンカチを掛ける。少しだけ強張っていた背が緩むのが分かった。
――まずはやってみないと分からないものな……。
事故であれなんであれ、ユーリが好きな女の子とキスをすることで元に戻れる可能性はないのか。
ハインリヒはその可能性に賭けてみることにしようと思っていた。
「アンジェリカ様は、怒るだろうなぁ」
ハインリヒはソファに深く沈み込みながらボソリと呟く。
アンジェリカの純朴そうな姿を思い浮かべる。
彼女の場合、ベアトリクスと違って経験もなさそうだし、たとえ事故であったとしても、簡単に割り切ることは出来ないだろう。
ハインリヒ自身については、ある程度覚悟は固まっているのだけれど、問題は下手するとユーリに害意が向くことだった。人間ならば平手の一つや二つ、痛いだけで済むけれど、蛙の姿だと命に関わる。
ハインリヒはつぶれたユーリを想像して、青くなった。
ユーリには関係ないところで、彼が責任を負わなくてもすむように注意して実行する必要があった。
――でも、そうなると、どうすればいい?
ハインリヒはベッドでスヤスヤ眠るユーリを横目に、夜までじっくり考えた末、ようやく一つの作戦を完成させたのだった。