20 一抹の不安

 その日は、とても寒かった。

 昨日、ひどい嵐が過ぎ去り、リュンベルクの美しい森も一気に衣替えを済ませていた。そして、嵐は冬の空気を少しだけ運んで来たようだった。
 ユーリは体が硬直し、動きが鈍くなるのを感じていた。
 ハインリヒがユーリのために夜なべをして、暖かい上着を作ってくれたのだが、これが、なんと派手な赤色なのだった。全身が茶色がかった緑色のユーリが着ると、毒々しく、ひどい色合いで、着れたものではないと思った。しかし、寒さには敵わない。口さえまともに動かせず、文句の一つもいえないのだから。
 ――蛙の体も楽じゃないよなぁ。
 ユーリは今更のように思う。
 彼にも自分の体が変化していることは理解できていた。
 ひどく眠いし、いつもの倍ほど食欲がある。蛙が冬眠することは知っていたけれど、いざ自分がそうなってみると、不思議な気分だった。冬に向けて体が準備しているのが分かるのだ。
 そして、この二月ほどで、すっかり心がくたびれていることにもユーリは気づいていた。
 報われない想いに見えない将来。
 ハインリヒに励まされて頑張ってはいるけれど、もうそろそろ限界だった。

 このところ毎日、眠りに落ちる瞬間、考えてしまう。
 ――このまま春まで深く深く眠ってしまって、次に目が覚めた頃には、何か変わっているといいのに。
 これが逃げだということは、十分に分かる。しかし、一緒に過ごせば過ごすほど、想いは強くなる。ユーリはアンジェリカの心が手に入らないことが、辛くて仕方が無いのだった。
 今までに手に入らないものなど無かった。
 王子という肩書き、優れた容姿。
 それを失った今、ユーリに残されているのは、心だけ。
 いくら自分を励ましてみても、こんなちっぽけな心で、全てを手に入れるなんて、無謀としか思えないのだ。

「ユーリ様。さあ、行きましょう」
 ハインリヒがユーリを懐に入れ、蛙を肩に乗せると、いつものように部屋を出る。
 蛙もユーリとお揃いの赤い上着を着せられている。そのせいか動きは鈍くない。
 ハインリヒもこのところ疲れが出ているのか、顔色が優れない。
 夜中まで何か考え込んでいるようで、ユーリがうつらうつらしている時に、ブツブツと独り言を言っていることも多い。彼も国を離れて心労が溜まっているのかもしれなかった。
 自分が元の姿に戻れなかったら……ハインリヒはいったいどうなってしまうのだろう。ルーツィエの呪いがユーリの身に残ってしまった責任を問われてしまうのだろうか。
 この兄のような優しい男が、罰を受けてしまうのは嫌だった。そんなことをしてもユーリの体が元に戻るわけではないのだから。
 その想いだけが、ユーリが諦めてしまいそうになるのを抑えていたのだった。
「では、また夕方に迎えに来ますからね」
 ハインリヒはそう言うと、懐からこっそりとユーリを取り出して、アンジェリカの部屋の前に置く。そして、扉を叩くと、アンジェリカが顔を見せた。
「おはようございます。今日もよろしくお願いいたしますね」
 やはり少し赤くなって口ごもるアンジェリカに、ハインリヒは少しだけ微笑んで、そのまま先にあるベアトリクスの部屋へと足を進めていった。

 ユーリは日課のようになった光景を、出来るだけ目に入れないように、窓から外を見ていた。
 ――これはいったい何の修行だよ。
 別のことで気を散らそうと、ユーリは考えを巡らせた。そして、ハインリヒの背中を見ながらふと思いついた。
 ――そういえば……ベアトリクスには、まだばれてないんだよな? ある意味すごいよな。
 替え玉を使い出してかなりの時間が流れているというのに、ベアトリクスは未だそれに気がついていないらしい。ハインリヒもかなり気を使っているのかもしれない。
 しかし、最近の自分の体調の変化や替え玉の様子を考えると、そろそろこの手も使えなくなるのではないか、ユーリはそんな風に心配になる。
 とにかく眠いのだ。寝てしまえば、会話も続かないだろう。
「まあ、ハインリヒならうまくやるか」
 ユーリは一人呟きながら、アンジェリカに連れられて部屋の扉をくぐる。
 一抹の不安を抱えながらも、結局はハインリヒを信用することにしたのだった。


 *


 ――ああ、今日もお話しできなかったわ。
 アンジェリカはハインリヒの背中を見送ると、部屋に入って大きなため息をついた。
 彼は、毎日ユーリをアンジェリカに預けに来て、その足でベアトリクスの部屋へと向かう。
 ユーリの身の安全のためらしいのだけれど、それが言い訳に聞こえるくらいには、ハインリヒが楽しそうにしているのをアンジェリカは知っていた。
 しかし、アンジェリカの方も、ハインリヒと毎朝顔を合わせても、どんな話をしていいやらと頭を悩ませてしまうのだ。
 アンジェリカは、思い描いていた夢の中の少年と、ハインリヒとのずれが次第に大きくなっていくのを感じていた。
 話すことができたら、もっと心が躍り、楽しいに違いないと思いこんでいた。
 だが、実際は、ユーリと話をしている方がずいぶんと楽しいし、気も楽だ。
 ユーリの前だとまったく気負わなくても良いし、何だって話せる。
 アンジェリカの言葉でユーリが怒ったりしたとしても、また、その逆だとしても、すぐに仲直りが出来る自信があった。
 ――ハインリヒ殿とも、このくらい楽に話せたらいいのに……。
 アンジェリカはいつもそう思う。
 ハインリヒがベアトリクスと話しているのを見ると、そこにはまったく気負いがなく、ひどく似合いに見える。このごろは、自分でもあきらめがついたのか、前ほど胸は痛まなくなり、嫉妬というよりは、ただ彼らの仲睦まじさを羨ましく感じるだけだった。
「せっかく送り迎えしてもらってるんだからさ、少しは話でもしたら?」
 床の上にいたユーリが、アンジェリカを見上げて呆れたように言う。
「だって、何を話していいか分からないのだもの」
 アンジェリカは口を尖らせる。
「何でもいいだろ、天気の話でも、この間読んでた絵本の話でも」
「いやよ、子供っぽいって思われちゃうじゃない」
 アンジェリカは綺麗な挿絵の入ったおとぎ話を読むのが、未だに大好きだ。
 そういう本は、読んでいて心が暖かくなるような気がするのだ。小さい頃に貰って、ぼろぼろになるまで何回も読んだ。寝る前にそれらを開いて、美しい世界に入り込むのが彼女の楽しみだった。
「……俺の前では嬉しそうに話すくせに」
「ユーリの前で格好つけても仕方ないでしょう」
 頬を膨らませると、アンジェリカはユーリを持ち上げてテーブルの上に乗せる。
「それにしても。なあに、その格好」
「……」
 ユーリは一気に不機嫌になり、目の間に深いしわを寄せる。
「緑に赤って……ユール用のオブジェみたい」
「なんだって?」
冬至祭ユールよ。あ、蛙はさすがに祝わないのね。城の樹木をきれいに飾り付けて、たくさんの火を焚いて、太陽の再生をお祝いするの」
 アンジェリカは色とりどりの飾りのつけられたツリーの隣に、ユーリがぽつんと佇んでいる光景を思い浮かべて、思わず吹き出した。
「もっと渋い色の方が似合いそう」
 ――ユールにはまだ早いもの。……そういえば、いい色合いのハンカチがあったかも
 アンジェリカは鏡の前のもの入れを探して、深緑色のハンカチを取り出した。
「私がこれで作ってあげる」
 ユーリは驚いたように目を開く。
「どういう風の吹き回しだ?」
「こっちのほうがおしゃれだし。ペットは可愛い方がいいでしょう?」
 何気なく言うと、ユーリは少し目を細めて口をへの字に曲げる。悲しそうな顔だった。
 ――まただわ。
 ユーリのその表情を見ると、アンジェリカはなぜだか胸が苦しくなる。
 でも、なぜユーリがそんな顔をするのか、アンジェリカにはいくら考えてもどうしても分からないのだ。
 ユーリはその指を口に突っ込み、少し深刻そうに考え込むと、ふとこちらを見つめて口を開く。
「アンジェリカ。俺さ……」
 アンジェリカはその雰囲気になんとなくどきりとして、次の言葉をじっと待った。
 なんだかとても重要なことを言われるような気がしたのだ。

 ――しかし。
「……ゲコ……」
 聞こえてきた『蛙の鳴き声』に首を傾げる。
 しかしユーリの顔は真剣そのもの。格差がひど過ぎて、アンジェリカは思わず吹き出した。
「あの? ユーリ? どうかした?」
 尋ねると、ユーリは目を見開いて、口をぱくぱくさせている。
「……ひょっとして……聞こえなかったとか!?」
「今のは聞こえたけれど。なあに? ふざけてるの?」
 アンジェリカはくすくすと笑うと、ユーリにハンカチを被せる。
 ――うん、いい色合い。これならきっと可愛い上着が出来るわ。
「じゃあ、ちょっと待ってて。これで作ってみるから」
 アンジェリカはそう言うと、ハインリヒが作った上着を元に、型を取る。
 鼻歌を歌いながらいい気分で作業を進めるアンジェリカの隣で、ユーリは呆然と身を固まらせていた。

 *

『ユーリ様を愛しているもの、それか、子供のような心を持つもの。
どちらかに当てはまる方が、あなたの声を聞くことが出来るそうです』

 少し前に聞いたハインリヒの言葉が、ユーリの頭の中を駆け巡っていた。
 ハインリヒは前者だろうが、王については、どうだろう。
 博愛主義者の彼だ。何に対しても愛情を持っている気もした。
 ――じゃあ――アンジェリカは……?
 明らかに後者だった。

『アンジェリカ、俺さ。……お前のこと、好きなんだよ』

 真剣に言った言葉は、伝わらなかった。
 嫌な予感は前からあったのだ。
 アンジェリカは変わった。
 今だってこうしてユーリのために上着を縫ってくれている。以前からは考えられない行動だった。
 少しずつだけれど、確実に大人の階段を上っていく彼女が、子供のような心を失っていくのも時間の問題なのかもしれない。
 ユーリは焦る。
 もし言葉が全然伝わらなくなれば、確実に元の姿に戻れなくなるだろう。
 だが、それ以上に、ユーリはアンジェリカと会話が出来なくなること自体、耐えられない気がしていた。それでは、本当にペットになってしまう。
 ――言葉が通じるうちに何とかしないと。
 目の前で慣れない手つきで針を動かすアンジェリカの白い手を見ながら、ユーリは真剣に頭を働かせ始める。

 *

 白い手がユーリの視界をフワフワと動く。
目で追っているうちに、次第にうつらうつらとして来たユーリは、風で窓が揺れる音でびくりと体を跳ねさせた。
 辺りを見回すと、目の前が薄暗い。
 西側の窓から窓枠に区切られた橙色の細長い光が、床の上の絨毯を鮮やかに染めていた。
 いつの間にか日が暮れているようだ。
「あー、また寝ちゃったのか」
 体を持ち上げると、深緑色の上着がテーブルの上に落ち、ぱさりと音をたてる。
 見下ろすと縫い目がガタガタだった。
 所々、まつり忘れで、ほつれた糸がはみ出ていた。
 ハインリヒの作った赤い上着の方が、色のことを考えたとしても数倍見栄えがいい。
 ――へったくそだな。
 そう心の中で悪態をつきながらも、ユーリは心が暖かくなるのを感じていた。夕方のひやりとした空気も気にならないほど、体もポカポカと暖かい。
 アンジェリカがユーリのために作ってくれた上着。
 ユーリは何とも言えない気分になり、思わずそれに頬ずりした。
 横を見ると、アンジェリカもいつの間にかテーブルに俯せて居眠りをしている。
 長い睫毛の影が、夕日に照らされてそのバラ色の頬に伸びている。長い金色の髪の毛が、一筋、唇の上に乗っていた。
 ユーリは髪の毛を払おうと、手を伸ばしかけたけれど、結局その小さな手をぎゅっと握り、動くのを我慢した。
 今動けば、“この間”みたいになることが、自分でも分かっていたのだ。
 早く目を逸らさなければとユーリは自分に言い聞かせたけれど、その余りにも美しく、胸が痛いその光景からどうしても目が離せなかった。
 固まるユーリの耳に、扉が叩かれる音が届き、体が鞠のように飛び跳ねる。
「ユーリ様、お迎えに――」
 ハインリヒが扉から顔をのぞかせていた。
「あれ?」
 飛び上がったユーリは、例のごとく着地に失敗して、床の上でひしゃげていた。
 ――見られてないよな?
 後ろめたさと焦りで顔が急に熱くなるのを感じる。
 何もしていないけれど、何かしそうだったのを悟られるのが恥ずかしかった。
 だがハインリヒは、ユーリの様子には気をとめず、眠っているアンジェリカに気がつくと、急にその顔を引き締めた。
 扉を静かに閉めると、ユーリめがけて血相を変えて近づいてきた。
 兵が役目を預かり、任地に赴く時に見せるような、何か、覚悟を決めたような顔だった。
「な、なんだ? どうした?」
 あまりの剣幕に焦るユーリをぐいと持ち上げると、ハインリヒは幼い顔に似合わない不敵な笑みを浮かべる。
「今です! ユーリ様!!」
「は? 何が?」
「アンジェリカ様! 申し訳ありません!!」
 体がすごい勢いでハインリヒの手から離れるのを感じ、ユーリはぎゅっと目をつぶる。
 直後、柔らかいものが口に触れるのを感じた。
 おそるおそる目を開くユーリの目の前には、今までに経験したことのないくらい近くに、アンジェリカのすみれ色の瞳があった。