「あぁあぁああ!! 失敗したぁ!」
ハインリヒの手を離れたユーリは、ものすごい速度でアンジェリカの顔に激突した。
焦りすぎて、手が滑ってしまった。
ユーリの白いお腹がアンジェリカの口の辺りに触れるのを、ハインリヒは青ざめた顔で見つめていた。
――ああ、私としたことが!! なんという失態……! これ以上ない機会だったのに!
ハインリヒは冷静になれなかった自分をののしるが、時すでに遅し。
目の前では、アンジェリカとユーリが、何があったのか分からないというような呆然とした様子で向かい合い、見つめ合っていた。
そして、一瞬の沈黙の後、二人してハインリヒの方を振り向き、すごい形相で睨みつける。
「どういうことだ!?」
「どういうことです!?」
「え、えっと」
結果だけ見ると、女の子の顔に蛙を投げつけるということになってしまった。まるで子供のいたずらのようだ。言い訳のしようがない。
「ええと、え、ええと……転んだんです。それで、ユーリ様を離してしまいまして……た、大変失礼いたしました!!」
アンジェリカは、ハインリヒがユーリを押し付けようとするところは見ていないはずだった。
だが、ハインリヒが転んでいないことを知っているユーリは、胡散臭げに見つめてくる。
ハインリヒは冷や汗を流しつつユーリを無視して、アンジェリカの機嫌を取ろうと曖昧に微笑んだ。だが、そうは問屋が卸さない。
「……失敗って、なんですの?」
――うわぁ! 聞かれてた!
「い、いえ、転んでしまいましたので、その、そのことです」
ハインリヒはじりじりと扉の方へと後ずさりする。
「ば、罰ならば、私が受けますので!! なにとぞユーリ様だけは!」
「おまえ、態度がそう言っていないぞ!?」
ユーリが呆れてため息をついている。
ハインリヒははっとする。いつの間にか、扉の前まで後ずさっていて、ユーリを置いて外に出ようとしていた。
「ごめん、アンジェリカ。こいつには俺からよく言って聞かせるから。――気持ち悪かったろ。顔でも洗ってうがいして来いよ」
ユーリはそう言うと、少しだけ悲しそうに顔を歪めるアンジェリカを残して、部屋を出た。
ハインリヒは頭を深々と下げると、彼に続いた。
部屋に戻るなり、飛び上がったユーリは、ハインリヒの頬をぶった。
ぺとっという音がして、小さな手がハインリヒの頬に張り付く。まったく痛みは感じなかったが、ユーリは痛そうに手を振りながらハインリヒを睨みつける。全力で叩いたようだった。
「どういうつもりだよ」
「いえ……その」
「あんなことしても、無駄なんだ」
「しかし、やってみなければ……」
「無駄だってば」
なぜかユーリはかたくなにそう言った。
「……あいつの心がないキスじゃ、だめなんだよ」
「ユーリ様?」
ユーリは苦しそうに俯いている。
ハインリヒは、突如ひらめいた。
「まさか、ユーリ様。試されたことがあるとか……?」
ユーリはハインリヒの視線を避けるようにそっぽを向いたまま、体を少しだけ鮮やかな緑色に変える。その態度が、問いの答えになっていた。
――そうか。やっぱり駄目なのかぁ……。
ハインリヒは一気に落ち込んだ。
偶然の事故でも駄目、一方的なものでも駄目。アンジェリカが納得して、ユーリのキスに応じなければならないということか。
となると……道はなんと険しく厳しいのだろう。とてもじゃないが頂点は見えなかった。
――もう、諦めるしかないのかなぁ。
ハインリヒは思わず涙目になる。
しかし、自分が諦めたら、ユーリはこれから何を心の拠り所にすればいいのだ。
――私だけは何があっても、諦めるわけにはいかないんだ
ハインリヒは大きく息を吸うと、上を向き、目の端に溜まった涙を散らした。
やがてユーリはハインリヒの方を向き、全てを諦めたような声で話しかける。
「ハインリヒ、いいか? 二度とあんなことするなよ。見ただろ、アンジェリカの悲しそうな顔。あいつよっぽど嫌だったんだ。あんな顔、させるくらいなら……俺、一生」
ハインリヒはユーリの言葉を遮る。
「駄目です」
そして、ユーリを目の高さに持ち上げると、その黄金の目を覗き込んだ。
「諦めては駄目です。私がついています。どうか……」
最後は言葉にならなかった。
――いつの間に、この王子はこんなに成長したんだろう……。
ハインリヒはユーリを抱きしめると、小さな背中をそっとさすった。そして、心からの祈りを捧げた。
――どうか、神様。この健気な少年をお救いください――
*
「――ハインリヒ」
声が震えた。
ユーリは沸き上がる熱いものが、喉を焼くのを感じる。
そうだった。諦めてはいけなかった。
ハインリヒのためにも。
背中のハインリヒの大きな手が、ユーリの冷えかけた心と体を温めてくれる。
――俺は、もっと必死にならなければならないんだ。こいつのように。
ユーリは自分の臆病さを恥じる。
アンジェリカに拒絶されるのが怖くて、自分から行動できなかった。さっきだって、通じるまで何度でも言えば良かったのだ。
小さなプライドなんか、もう捨てなければいけなかった。
拒絶されても、受け入れてもらえるまで何度でも挑戦する、それだけの強い意志が今のユーリには求められているのだ。この大きな山を乗り越えないと、彼にはもう未来はなかった。
「ハインリヒ。俺、アンジェリカに言うよ。通じるまで何度でも」
「ユーリ様」
湿った声が部屋に落ちる。どうやらハインリヒはユーリの背中の上で、泣いているようだった。
「俺、頑張るから。何とかしてみせるから。心配するな」
「……うう、ユーリ様……」
――やれやれ。これじゃどっちが年上か分からないな。
ユーリは苦笑いする。
ふと、背中にじわりと暖かいものを感じ、ユーリは焦る。どうやら例の上着がハインリヒの涙で濡れているのだった。
「ああ!! 俺の上着!!」
「え、どうかされましたか?」
「あ、アンジェリカが俺のために作ってくれたのに……お前!」
ハインリヒが驚いたように顔を上げ、ユーリは、ぐしゃぐしゃの顔を目の当たりにする。
ユーリは思わず吹き出した。
目は真っ赤に充血し、鼻水も出ている。
頬は涙でツヤツヤと光り、赤くなってまるで子供のよう。
とても十六の男のする顔ではなかった。
笑っていると、少しだけ勇気が出る気がして、そのまましばらくユーリは笑い続けた。
やがて笑い疲れたユーリは、いつの間にか眠ってしまっていた。
翌日は、昨日の天気が嘘のような曇り空で、朝から湿気が酷かった。
水を吸った肌が、ユーリの決意を現すように艶やかに力強く光っている。
――今日こそは。
ユーリは消しても消しても浮かんでくる凄まじい不安と戦いながら、必死で自分を奮い立たせる。
大きく深呼吸をすると、昨日ハインリヒに洗わせておいた緑色の上着を羽織った。上着はまだ少しだけ湿っていた。体温が奪われて、ユーリは身震いする。
鏡の前には見慣れてしまった蛙が一匹。黄金の瞳を鋭く輝かせてユーリを睨んでいる。
ユーリは力強く手を握りしめると、自分に暗示をかけるように、鏡を覗き込んだ。
――いいか、何があっても諦めないんだぞ? どんな手段でもいいから、絶対に気持ちを伝えるんだ――
「さぁ、ユーリ様」
ハインリヒの差し出す手の上に飛び乗ると、ユーリは扉の先から覗く細長い廊下をじっと見つめた。