22 真っ赤なカエルと真っ赤な少女

 いつものように扉が叩かれた。アンジェリカは音のする方を見やる。
 返事をすると、静かに扉が開かれて、そこからハインリヒが顔をのぞかせた。
「お、おはようございます。昨日は、本当に申し訳ありませんでした」
 なんだか目が赤い。それに目の周りも少し腫れぼったかった。まるで一晩泣いたようなそんな様子だった。
 アンジェリカは昨日のユーリの様子を思い出して驚く。
 ――ユーリったら。そこまで怒ることないのに……。
 柔らかい感触に目を開けると、目の前にユーリがいた。それだけのことだったのだ。
 どうやら、顔に当たったのはユーリだったようだけど、そのこと自体には、そんなに衝撃を受けたわけでもなかった。
 大体、ユーリに触れることはもう慣れていたのだ。昔だったらすぐにでも湯殿に駆け込んだだろうけれど、今となっては、そんな必要はまったく感じなかった。
 しかし――
『顔でも洗って、うがいしてこいよ』
 あのユーリの卑屈な態度が、アンジェリカの気に障った。
 でもそれは、アンジェリカが今までやってきた仕打ちを考えると、当然なのかもしれなかった。
 ハンカチ越しにしか触れなかったり、もし触れようなら、手を拭ったり。
 そのことでユーリが深く傷を負っていると、アンジェリカは今更ながら気がついたのだった。
 ――もう平気なのよ。だってユーリは大事な友達なんですもの。
 自分の今の気持ちを伝えて、謝らなければならない。
 でも、自分の失敗を認めるのは、やはりとても勇気がいるのだ。
 アンジェリカは、なかなか一歩踏み出す事が出来ずにいた。
 ユーリは昨日アンジェリカが作った上着を律儀に着て現れた。
 アンジェリカは裁縫は苦手だ。決して上手に縫えていないし、既に所々ほつれて、自分だったら恥ずかしくて着れない代物だった。なのに、ユーリは誇らしげとも取れるような表情で堂々と上着を着こなしていた。
 アンジェリカは、ユーリの気持ちが嬉しくて、少し胸が痛かった。

 ふと目線を上げると、いつの間にかハインリヒは部屋を去っていた。
ユーリの姿を観察しているうちに、居なくなったらしい。
 だが、ハインリヒとの会話が無い事に胸が痛むことがなく、アンジェリカは不思議だった。
 ――あれは恋じゃなかったのかもね。
 そう思って、少し寂しかったけれど、これ以上ハインリヒ相手の恋愛相談をしてユーリを悲しませることがないということには、心のどこかでホッとしていた。
 ――きっと、勘違いだったんだわ。また、私にあった人が現れれば、その時は本物の恋をしたい。今度は、そうね。何でも気軽に話せる人がいいわ。そうじゃないと、息が詰まって身が持たないし。まあ……できれば、外見も素敵だといいけれど。
 アンジェリカは、久々に夢の中のあの少年を思い浮かべて、ぼんやりする。しばらく見ていないけれど、なんとなく面影だけは思い出せた。きっと再び目にすれば鮮やかに記憶がよみがえるのだろう。
 ――あの男の子と、楽しくお話しできたら、最高なのに。でも、いつまでも夢を見ていても仕方が無いわよね……。
 アンジェリカは頭を振って、その空想を追い払って床を見る。と、ユーリがなんだかもじもじしてアンジェリカを見上げている。
 明らかに様子がおかしかった。
「どうしたの? お腹でも壊したの?」
 顔もなんだか赤みが混じっている気がした。このごろ冷えるから、もしかしたら風邪でも引いたのかもしれない。アンジェリカは急に心配になった。
 蛙と言えば、冬になったら冬眠する。
 いくらアンジェリカが勉強嫌いだとしても知っていた。
 ――もうすぐユーリも冬眠しちゃうのかしら。
 思ったとたん、心の中を風がすっと駆け抜けた感じがした。
 アンジェリカは、リュンベルクの長く厳しい冬と、ユーリの居ない日々を想像する。このところの充実した日々は、全部ユーリがいたからあり得た日々であって、もし居なかったら、アンジェリカは何も考えずに無為に日々を過ごして、つまらないと嘆いていたに違いなかった。
 そんな空しい日々がまたやってくると思うと、アンジェリカは寂しくて仕方が無くなった。
 ユーリはそんなアンジェリカの気持ちに気づかないまま、テーブルの上によじ上る。
 そして神妙な顔をしたまま、切り出した。
「あのさ。俺、お前に……話があるんだ」
 アンジェリカは頷くと、目線を合わせるように、テーブルの側にかがみ込む。
「なあに?」
 近くで見ると、やはり顔が赤いようだ。妙に肌の艶もいい。
「なんだか、やっぱり変よ?」
「ええと、あんまり気負わずに聞いて欲しいんだけどさ。俺、」
 ユーリはそこまで言うと、躊躇うように下を向く。
 アンジェリカはじっと待つ。ユーリが話を聞いてくれと頼むなんて、珍しいのだ。ここは今までのお返しに、しっかり聞くのが大人の対応だと思った。
 しかし、やがて聞こえて来たのは、蛙の鳴き声。
「ゲコ……? ってなに」
 聞こえたままに繰り返すと、ユーリは目をまん丸に見開いた。
「き、聞こえない?」
「今のは聞こえたけれど」
 ユーリは動揺している。
「もしかして、選んだ言葉が駄目なのかな」
 ユーリは考え込むと、ブツブツとなにか口の中で繰り返す。
 そうしてユーリは、幾度となく何か伝えようと口を開くけれど、何度繰り返されても、アンジェリカの耳には蛙の鳴き声しか届かなかった。
「……いったいなんなのよ」
 さすがにアンジェリカもイライラして来た。屈んでいるせいで、腰もなんだか痛くなって来たし、大人の対応もこれ以上は難しい。
「ふざけているのなら、もういいわ」
 そう言うと、テーブルに手をついて、腰を伸ばそうとする。
 アンジェリカが聞く気を無くしたのに気がついて、ユーリは動転したようだ。ついにやけくそのようにかすれた声で叫び出した。

「ああ、もう! どうしたら伝わるんだよ!! ――俺は! お前とキスがしたいんだ!!!!」

 今のははっきりと聞こえた。アンジェリカは固まった。
「なんですって」
「あ、あれ?」
「キス? なに言ってるの。ユーリったら」
 ユーリは今までに無いくらい赤くなった。とても蛙とは思えない色だ。
 ――赤い蛙って希少価値が高いわよね、きっと。売ったらいくらになるかしら。
 アンジェリカは頭の隅でそんなことを考える。
 言われたことを飲み込めず、普通に頭が働かないのだった。
 しかし、だんだん頭が働いてくるに従い、『キス』という言葉で思い出されることがあった。
「ユーリったら、お姉様にもそんなこと言ったくせに」
 心の奥に秘めていた言葉が口からこぼれ、アンジェリカははっとする。
「なんで知って……」
 ユーリも愕然とした表情でアンジェリカを見つめていた。
「と、とにかく! そんなこと出来ないわ! ユーリはお友達なんですもの。そういうのって好きな人とするものでしょう?」
 アンジェリカは盗み聞きしていたことがばれるのを恐れて、一気に言うと、ユーリに背を向けた。
 保とうとしていた大人の余裕など、いつしかどこかに吹き飛んでいた。
 ばくばくと胸の音だけが、アンジェリカの耳を支配していた。そこに小さな、しかしはっきりとした声が染み入った。

「俺は……お前が好きだ」

 アンジェリカは壁にかかる鏡を見つめた。そこには驚くほど真っ赤な顔をした少女が映っている。それが自分だと気がつくのに、ひどく時間がかかった。
 ――ああ、ユーリの伝えたかったことって……。
 急に、このごろのユーリの態度が腑に落ちる。
 ――よりによって人生で初めて受ける告白が、蛙からなんて。
 アンジェリカは今までに異性に想いを告げられたことが無かった。人間の男相手でも経験の無いアンジェリカは、蛙の告白に、ますますどう答えて良いか分からない。
 ――種族の違い? ああ、でもそんな風に断れば、ユーリは傷ついてしまうし……。
 アンジェリカは、今のユーリの言葉を無かったことにしてしまいたかった。今まで通り、友人として仲良く楽しくやっていきたいのだ。
 だから、突然の告白が恨めしくてたまらない。
「アンジェリカ」
 アンジェリカはいつの間にか腰が抜けて、テーブルに寄りかかるようにしゃがみ込んでいた。
 少しかすれた声に反射的に振り向くと、すぐ側に迫った真剣な瞳とぶつかる。
 身動きが取れなくなって固まるアンジェリカの頬に、ユーリが丸みを帯びた手をそっと伸ばした。