23 小さな命

 ハインリヒは必死だった。
 彼は今まで生きてきて、これくらい必死になったことは無かった。
 すれ違う侍従たちが何事かと目を見開く中、彼はリュンベルク城の細い廊下を走っていた。


 話は、時を一刻ほど遡る。
 ハインリヒはユーリを送り届けた後、いつも通りにベアトリクスの部屋を訪ねた。
 しかし、ユーリの様子が気になって仕方が無い。
 今日くらいは、一緒にいるべきだったかもしれないと、部屋に着いた時から後悔しつづけていたのだ。
 ユーリはあの小さな体に、大きな勇気をのせて、果敢に難題に挑もうとしていた。
 ハインリヒはその姿に胸が熱くなったが、同時にひどい胸騒ぎが沸き起こって、どうしようもなく落ち着かない気持ちになったのだ。
 ――虫の知らせというやつだろうか?
 のらりくらりとベアトリクスの相手をしながら、ハインリヒはずっとユーリのことを考えていた。
「ねえ、ユーリ様。ユーリ様のお誕生日は収穫祭の辺りと伺っておりますけれど……お誕生日になにかプレゼントをしたいと思っていますの。欲しいものなどありませんかしら?」
 ベアトリクスが相変わらずの妖艶な仕草で、替え玉の蛙に向かって話しかけている。蛙はもちろん何の反応を示すことも無く、それどころか、なんだか眠そうだった。
 大きく口を開けあくびをする蛙につられそうになり、ハインリヒはあくびを噛みしめながら適当に答えた。
「ユーリ様は、手袋が欲しいとおっしゃっています」
 手袋と靴下は次に作ろうと思っているものだった。密かに赤い毛糸を用意してあった。
「あら、何色がお好みですの?」
「上着が赤いから、赤がいいそうです」
 赤はハインリヒの好きな色だった。
 今日、蛙に着せている上着もハインリヒの趣味だ。
 緑に赤とは、なかなか派手な配色だが、ハインリヒは気に入っていた。
 しかし、昨日、ユーリはアンジェリカが作ったというひどくガタガタの緑色の上着を着て戻って来た。
 ――あれじゃ、地味すぎるよなぁ。
 ハインリヒは不満に思う。
 せっかく作った上着が一日で着られなくなるというのは、なんだか切なかった。
 ――まあ、……仕方ないか、相手がアンジェリカ様なのだから。
 ユーリがアンジェリカ特製の上着を喜んで着ている微笑ましい様子を思い浮かべて、つい、にやりと頬が緩んだときだった。
「……ふうん、赤、ねぇ」
「はい、赤です」
「本当ですの? それ」
「ええ」
 ベアトリクスは珍しくしつこく聞いて来た。
 ふと目線をベアトリクスに向けると、彼女は、蛙ではなく、ハインリヒをじっと見つめていた。
 ――なんだろう?
 突如嫌な予感がハインリヒを襲った。
 そして、視線をテーブルの上の蛙に向けて仰天する。
 ――うわぁ! 寝てる!!
 テーブルの上の蛙は、いつの間にかハンカチの上で縮まって眠っていた。一生の不覚だった。
 一気に青ざめて、ハインリヒはおそるおそる再びベアトリクスを見る。
 そこには、先ほどの優しげな美女とは別人のような悪魔が立っていた。
「どういうことかしら、ハインリヒ殿。まさか……私を騙していたと言うのかしら?」
 背筋が凍った。声がいつもより半音ほど低い。凄まじい迫力だった。
 ハインリヒは立ち上がると後ずさろうとして、椅子の足に引っかかり、床に転がる。椅子が一緒に倒れてガタンと大きな音を立てた。
「なんだかおかしいとは思っていたのですけれど、まさか、わたくし相手にそんなことをする人間がいるとは思いませんでしたわ」
 床の上から見上げると、ベアトリクスがまるで巨人にも見えた。背中からなにか澱んだ、おどろおどろしいものが沸き上がっている。
 全身の毛がちりちりと逆立っていくような気がする。きっとそれは気のせいではない。
 ――こ、殺される!
 ハインリヒは生まれて初めて命の危険を感じた。それは、覚悟をしていたはずのその恐怖の何倍も強大だった。
 ――に、逃げよう! とにかく、この場は逃げないと!!



 後ろからベアトリクスが猛然と追ってくる。
 気迫なのか、そのたっぷりとした裾のドレスも何のその、ハインリヒが気を抜こうものならば、すぐに追いつかれそうだった。
 ――ユーリ様ぁ!! 助けて下さい!!
 ハインリヒは、とても頼りになるとは思えない、小さな自分の主人の元へ必死で駆けた。
 そうしてようやく目の端にアンジェリカの部屋が映り、ハインリヒが少しだけほっと気を抜いたその時、扉からアンジェリカが慌てた様子で飛び出して来た。
 その顔色が――尋常ではない。
 アンジェリカは、部屋を飛び出したとたん、廊下に敷かれた長い毛足の絨毯に足を取られてその場に倒れ込む。
「ど、どうなさったのです!?」
 ハインリヒは命の危機を一瞬忘れて、アンジェリカに駆け寄った。
 アンジェリカはハインリヒのその声に、顔を上げた。顔は真っ青で、すみれ色の目からは止めどなく涙が流れていた。

「――――ユーリが!! ……ユーリを助けて!!」


 *


「――こんなことになるなんて、思わなかったの」
 アンジェリカはベッドの上のユーリを見つめながら、嗚咽を漏らす。
 怖かっただけなのだ。
 突然目の前に迫ったユーリの瞳が、いつもとは違う色をたたえていて、アンジェリカは思わず彼を撥ね除けてしまった。
 ユーリはそのまま壁に打ち付けられた。
 そして、嫌な音を立てて床に落ち、……動かなくなった。
 慌てて飛び出したところに偶然居合わせたハインリヒとベアトリクスには、衝撃が大き過ぎてうまく説明できなかった。
 しかし彼らは床の上のユーリを見るなり、事態を察して医師を呼びに走ってくれたのだった。
 アンジェリカはその間、ひたすらユーリの小さな手を握って涙を流すだけだった。


 アンジェリカの部屋にはいつの間にか、父や姉たちも集まっていた。
 皆、まるで今から葬儀でも始まるような、悲しみに暮れた顔をしている。
 アンジェリカのせいなのに、誰の目も彼女を責めなかった。
 いっそのこと罵倒してくれればいいのにと思った。優しくされるのが辛くてたまらなかった。
 そんな中、父とハインリヒだけが、何かを懇願するかのようにアンジェリカを見つめていた。

 やがて、医師がやってきてユーリを診察する。
「おそらく骨が数カ所折れていて、内臓にも傷が出来ているようです……。申し訳ありません。この体ではもう手だてはございません。もともと小さな命です。尽きるのも早いのでしょう」
 冷たくそう告げられた。
 この間とはまったく事情が違うのに、相変わらず医者は淡々としている。
「――小さな命ですって。そんなひどいこと言わないで、医者なんだから何とかしてよ! お願いだから!」
 思わず医師に掴み掛かろうとして、アンジェリカは後ろからイザベラに止められる。
「落ち着きなさい。取り乱しても何も解決しないわ」
「だって――ユーリの命を、そんな風に言うなんて」
「あなただって、ユーリ殿がお友達でなければ、同じように思うでしょう? ただの蛙だと」
「ユーリは、ユーリは!! ――蛙なんかじゃない!!」
 アンジェリカは叫んだ。
 ――失いたくない。
 アンジェリカは、その時初めて、ユーリが自分にとってとても大事なのだとはっきりと自覚した。
「ユーリ、目を開けて!」
 アンジェリカの叫び声に反応するかのように、ユーリが小さな目を少しだけ開ける。
 呼吸がとても苦しそうで、か細い息は今にも止まりそうだった。
「……アンジェリ、カ……」
 かすれた弱々しい声でユーリはアンジェリカを呼んだ。そして懇願する。
「二人で……話がしたい」
 部屋にいた全員が一様に苦しそうに顔を歪めたけれど、結局はユーリの意思を尊重して外に出て行った。
 部屋の中にはアンジェリカとユーリだけが取り残される。
 ほかに人の気配が無くなったところで、ユーリはぽつりと呟いた。
「俺さ、……多分もうすぐ、死ぬよ」
 恐怖がアンジェリカを襲い、反射的にユーリを怒鳴りつけた。
「何言ってるのよ!!」
「自分の体の、事だ。分かるんだ」
「嫌よ、そんなの、絶対に!! 馬鹿なこと言わないで、いつもみたいに生意気に笑ってみせてよ!」
 涙声で叫ぶと、ユーリは微かにその顔に笑みを浮かべる。
「よかった。少しは、悲しんでもらえる、みたいだ」
「馬鹿な事言わないで!」
「俺……お前が、好きだった。だから、気持ちが、届かなくって、ほんとは、ずっと、辛かったんだ。これで、やっと、楽になれる」
 苦しげに、ユーリは囁いた。満足そうな笑みは、あまりに穏やかで、彼が死を受け入れようとしているのがアンジェリカにもわかった。
 ユーリを連れて行こうとする死神を追い返そうと、アンジェリカは足掻いた。
「やめて!! なによそれ! そんなこと言うだけ言って、いなくなるなんて、絶対許せない!」
「怒って、んのかよ……おまえらし、い……な」
 ユーリは咳き込みながら言う。
 咳き込む度に、ユーリの命が縮むように見え、アンジェリカは痛みに耐えきれずに呻く。
「おねがい……いやよ、ユーリ」
「…………」
 もうユーリは声を出せなかった。
 喘ぐような呼吸音だけが響いていく。
 諦めという重たい沈黙が部屋の中に充満し、部屋の中のすべてのものがその最期の時をただ待っているようだった。
 アンジェリカは、ユーリの命の灯火が消えて行こうとするのをなんとしても止めたかった。
 少しでも、ユーリが生きる気力を取り戻せるなら、何でも出来そうな気がした。
 そのとき、

『……俺は! お前とキスがしたいんだ!!!!』

 ふと、先ほどのユーリの声が耳に蘇り、アンジェリカは天啓を得たように感じた。
 彼女はもう、少しも躊躇わなかった。