4 少女とカエルの奇妙な同居生活

 そうして、アンジェリカと蛙の奇妙な同居生活が始まることとなった。
 アンジェリカは父に言われた通りに、忠実に約束を守ろうとした。
 アンジェリカにとっては、ただの蛙だ。
 慣れてしまえば大したことでは無いように思えた。
 ――ああ、でもやっぱり……食欲は落ちちゃうわね……。
 アンジェリカは目の前の蛙を見つめながらため息をつく。あのあと、蛙はそのままアンジェリカの隣に居着いてしまっていた。
 金の皿の前にちゃっかり陣取って、アンジェリカの食事を虎視眈々と狙っている。さっき蛙は、彼女の好物であるフルーツのゼリーに、直接その手を伸ばそうとしたのだ。アンジェリカはとっさにナイフで威嚇した。
「私が食べないものだけ食べればいいわ」
 アンジェリカは小さな声で冷たく言い放ち、蛙はナイフの切っ先に脅されて渋々頷いた。
 彼女は蛙の態度に満足して、剥いでおいた鶏の皮と、嫌いなチーズがかけられたサラダを皿の端に置く。
 実はアンジェリカは好き嫌いが多いのだ。その後も父の目を盗んでこっそりと嫌いなものを残すと、蛙は文句も言わずガツガツと残り物を食べてくれる。食事を終えた頃には、意外にこれは便利だと、アンジェリカは感じ始めていた。


 夕刻になり、湯殿が準備された。
 入浴はアンジェリカの好きなことの一つだった。
 彼女は鼻歌まじりに立ち上がると、蛙を一瞥した。
 ――そうだったわ。コレを連れて行かなければいけないのね。
「お風呂よ」
 蛙がなぜかびくりと身体を硬直させる。
「た、たのむ。風呂だけは……勘弁してくれ!!」
 突然、蛙は必死になって頭を下げる。
 その姿に、アンジェリカの憂鬱が一気に吹き飛んだ。悲鳴を上げる蛙をハンカチで覆うと、たちまち包み込んで彼の自由を奪う。そうして、ゆっくりと意地悪く微笑んだ。
「だめよ、あんたが言い出したんでしょう! 変な約束させる方が悪いのよ」
 アンジェリカは蛙が騒ぐ訳を理解していなかったし、あまりに嫌がるので、逆に嫌がらせをしたい気分になっていたのだ。
 ――こいつのせいで、お父様に怒られちゃったんだから、ちょっとくらい仕返ししてやらないと気が済まないわ。
 父親のリュンベルク王は、アンジェリカがもっとも大事にしていたものだった。幼い頃からそれは変わらない。父親のような男性に嫁ぎたいと真剣に願っていた。
 その父親に叱られたことで、彼女は蛙に逆恨みをしていたのだった。


 数刻後。蛙は見事に茹だっていた。

 蛙はアンジェリカの侍女が湯をかけるなり、「お れ を 殺 す 気 か !!」と大げさに叫んで、侍女の手元から逃げ出すと、傍にあった水桶に飛び込んだのだ。おかげで一緒の湯を使う事が無く、アンジェリカは蛙の出汁だしの出た湯を使わずに済んだわ、とご機嫌だった。
 ――仕方ないわよね、本人が嫌がってるのだし。
 しかし――。アンジェリカは茹だった蛙を見つめて首を傾げる。
 ――湯につかってない割に、……しっかりとのぼせているわ。なんでかしら?
 アンジェリカは不思議に思ったけれど、結局はあまり深く考えず、ベッドに潜り込んだ。
 いつの間にか蛙は、彼女の寝台の端にそっと縮まって眠っていた。
 そうして、最初の夜は何事も無く更けていったかに見えた。


 アンジェリカはその夜、ふと何かの気配に目を覚ました。
 ふわり、と柑橘系のさわやかな香りが鼻に届く。
 暖かな気配に視線を動かし、直後、彼女は目を見開いた。
「だ、れ、これ……?」
 アンジェリカの隣には、とんでもない美少年が横たわっていたのだ。

 *

 翌朝、アンジェリカはその長い髪を侍女に梳かしてもらいながら、考え込んでいた。
 ――なんだったのかしら、昨日のあれは。
 アンジェリカは、寝惚けた頭でぼんやりと記憶を辿る。
 本当に綺麗な男の子だった。
 リュンベルクでは見たことの無いような漆黒の艶やかな髪、同色の整った眉に長い睫毛。通った鼻筋に、あどけなさの残る柔らかそうな頬。
 アンジェリカは最初女の子かと思ったのだ。
 しかし――なんと、彼は裸だった。
 慌ててシーツを掛けたので、よくは見えなかったけれど、その胸には少しの膨らみも無かった。
 アンジェリカは激しく音を立てる胸を押さえながら、彼の顔をまじまじと観察し、胸にたまった重苦しいものを吐き出そうと、ため息をついた。
 そのうち、どうしても瞳を見てみたくなり、彼を起こそうと肩に触れたとたん、彼の姿は霧のように消えてしまったのだった。
 あまりのことに、アンジェリカは、全部夢だったのだと思い込み、そのまま横になると何事もなかったかのように眠りについたのだった。
 しかし、起きて改めて思い出してみると、あまりにも現実味がありすぎる。枕に付いた匂いを嗅いでみても、微かにオレンジみたいな香りがするような気がして、アンジェリカは余計に混乱した。
 彼女のまぶたの裏には、もう、しっかりと彼の容貌が焼き付いていた。いくら振り払ってもそれが消えることはない。
 ――へんよ、私ったら。
 彼女はひどく戸惑っていた。こんな気持ちになったことが今までに一度もなかったのだ。
 どうして良いか分からずに、彼女は浮かない顔をしたまま、朝食の席へと向かおうとした。
「オイ、俺を忘れるなよ」
 ガラガラした声が部屋に響き、アンジェリカははっとした。
 ――あ、忘れていたわ。
 蛙が、アンジェリカをそのギョロリとした目で見上げていた。
 口をへの字に曲げ、少々恨めしそうにしているようにも見えた。おそらく……気のせいだけれど。
 アンジェリカは、やはりハンカチで蛙を掴むと、蛙が動けないように包み込む。
 どうしてもぶつぶつヌメヌメした肌に、直接触ることはためらわれる。多分これだけはいくら慣れても無理だと、そう思うのだ。
「なあ、その汚いものを触るようなのって、いい加減止めないか? ひどいだろ、傷つくんだよ」
「だって、気持ち悪いんだもの」
 蛙はハンカチの中で黙り込む。
 ――傷ついたのかしら? 蛙が? ……まさかね。
 アンジェリカは蛙の悲しげな様子にも、さして何も思うことなく、食事へと向かった。


 食卓にはすでに皆そろっている。
 父の方針で、食事は家族全員そろってから、と決まっていた。
 誰が欠けても食事が始まらない。
 少し遅れてしまったアンジェリカは、姉二人に冷たく睨まれる。
 鋭い視線に縮まりながらアンジェリカが席に着くと、食前の祈りが始まった。
「父なる神よ、この食事を祝福してください。身体のかてが心のかてになりますように。今日、食べ物に事欠く人にも必要な助けを与えてください」
 アンジェリカが普段通りに淡々と手を組んで祈ると、目の前の蛙が、神妙な様子でその先の丸まった手を組み合わせている。
 その様子があまりに滑稽なので、アンジェリカは思わず吹き出し、慌ててごまかすように咳払いをした。
 ――いったいなんなのかしら、この蛙。お祈りしている蛙なんて、初めて見たわ。
 ふと隣を見ると、姉たちも一様に妙な顔をして蛙を眺めている。
 そんな中、父だけは、感心したように蛙を見つめていた。
「あなたは、なかなかに信心深いようだ。ああ、そういえばお名前を伺っていなかったな。お聞きしてもいいだろうか」
「……ユーリ……と言います」
 蛙は、なぜか一瞬苦しそうに口を歪め、もごもごと口をうごかした。
「ほう」
 父は、少し眉を上げて、何かを考えるような表情になった。
 一方アンジェリカは、再び吹き出すのを我慢できなかった。
 ――ユーリですって!? あの醜い姿でそんな優美な名があるなんて。似合ってない、似合ってないわよ!!
 そんなアンジェリカを、姉たちは不審そうに見る。
「一人で何をニヤニヤしているの」
 一番上の姉のイザベラが少しほつれた栗色の髪を耳にかけながら、不愉快そうに口を開く。その茶色の瞳が神経質そうに光るのを見て、アンジェリカは笑いを引っ込めた。
 二つ年上のこの姉は、とにかく自分に分からないことがあるのを嫌がる。アンジェリカのちょっとした言動にいちいち目くじらを立ててきて、まるで嫁いびりをする小姑のようだ。アンジェリカはいちいちお説教を聞くのが面倒なので、なるべく気に障らないようにと気を付けているのだった。
「だって、あの蛙……」
 言い訳をしようと、アンジェリカは口を開いたけれど、イザベラを誤摩化す事は出来なかった。彼女はアンジェリカを冷たい声で問いただす。
「そういえば、昨日の夜も変だと思ったけれど……お父様もあなたもあの蛙の言うことが分かるの?」
「え? イザベラお姉様には分からないの?」
 アンジェリカは驚いて目を丸くする。
「分かるわけ無いじゃないの。蛙の言葉なんて」
「アンジェリカは、昔から変なものが見えてたもの。妖精が見えるとか、手の上に小人が居るとか。……蛙の言葉が分かってもおかしくはないわ」
 下の姉のベアトリクスが馬鹿にしたように笑って割り込んで来た。
「ベアトリクスお姉様にも?」
「当たり前でしょ」
 ベアトリクスはその金色の真っ直ぐな髪を揺らしながらくすくすと笑う。母譲りの茶色の瞳が明るく輝く。その笑顔はそこだけポンと花が咲いたかのように華やかで魅力的だった。
 この笑顔に内面が伴えば、どれほどいいか――とアンジェリカはこっそりため息をつく。
 このひと際美しい姉は、昔からアンジェリカにひどい対抗意識を燃やしている。イザベラともアンジェリカとも歳が一つしか違わないため、幼い頃父母に甘える時間が一番少なかった。その上、アンジェリカの姉としての自覚を促されるので、末っ子で何かと可愛がられるアンジェリカが鼻につくらしい。
 こうやって何かあるごとにアンジェリカを貶めて楽しんでいるのだ。それはもう趣味の領域。
 しかし、今、胸に湧いて来る優越感で、アンジェリカのその不快さは吹き飛ばされる。
 ――そうなんだ、蛙の声は、私とお父様にしか聴こえないんだわ。
 アンジェリカが余韻に浸っていると、蛙がふいに口を挟み、思考を邪魔した。
「なあ、その肉食べないのか?」
 なんだか胸がいっぱいになっていて、食べる気がしない。アンジェリカはぼうっとしながら、肉をユーリの方へと押しやった。
「いいのよ、太るから。あなたにあげるわ」
「もったいないだろ。そっちの野菜も残してるし」
 蛙が咎めるように言うのが、アンジェリカの癇に障る。
 ――何? 蛙のくせに私に意見しようって言うの?
「いちいちうるさいわね! 蛙なんかに指図されないわ!」
 思わずカッして言うと、蛙はムッとしたように黙り込んで、彼女が残した食べ物を黙々と平らげていった。