「ユーリ様。いい加減機嫌を直して下さいよ」
ハインリヒは、蛙と化したユーリに向かって一生懸命話しかけていた。
よっぽど蛙にされたことが悔しかったのか、主人はへそを曲げて、ずっと口をきいてくれないのだ。
常々、この主人は腹を立てると辺り構わず騒ぎ立てるか、またはむっつりと黙り込んで周囲を困らせる。
もう十三歳になるというのに、いつまでも幼子のような主人だった。
それでも幼い頃からずっと一緒で、ハインリヒはこの幼い主人を弟のように大事に思っていた。
――それにしても、今回の腹立ち方は異常だよなぁ。
ハインリヒは悩んだ。
ユーリは子供なだけに、感情が長続きしないはずなのだ。周りを無視し続けるにしろ、今までは一日が最高記録だった。
それが、もうカストックに帰って来てもう三日だ。
馬車ではルーツィエが一緒だったから気持ちが分からないでも無かったけれど、もう周りにはハインリヒしかいないのだ。そろそろ音を上げてもおかしくないはずなのに。
「ユーリ様。強情を張らずに、一緒にルーツィエに謝りにいきましょうよ」
王は、リュンベルクに居る間と言ったにも関わらず、ユーリがあまりにも強情を張るので、結局ユーリがルーツィエに謝るまでは元の姿に戻さなくて良いと宣言したのだ。
そのため、相変わらずユーリは蛙のままだった。
当のユーリは、心配するハインリヒをよそに涼しい顔をして、喉を膨らませている。
――なんだか、本物めいて来たな……。
ハインリヒは冷や汗をかく。
ユーリは蛙に変わってから、まともな食事をしなくなってしまった。
いくら好物のソーセージや、フルーツのサラダを出そうとも全く見向きもせず、あろうことか、床を這っていた虫をその長い舌で捉え、飲み込んだのだ。
あまりのことに、ハインリヒは我が目を疑った。見なかったことにしたかった。
ハインリヒは誰も見ていないことを慌てて確認すると、ユーリを掴んで、それ以上の失態を他の人に見せないよう、足早に食堂を去ったのだった。
それから、ハインリヒの仕事が一つ増えた。――ユーリの食事の用意である。
せめて虫だけは止めてもらおうと、色々なものを試した結果、小魚を食べてくれることが分かった。
しかし、調理したものは食べてもらえない。なので、ハインリヒは毎日、城の庭にある池で生きの良い小魚を掬ってきているのだった。
そんなこんなで、一週間。
いくら熱心に説得を続けても、ユーリは相変わらず知らん顔。
さすがのハインリヒもこれはおかしいと焦り始めていた。
――うーん、ちょっと怖いけれど、しょうがないよな……
ハインリヒは、大きくため息をつくと、ユーリを大事にハンカチに包んで、ルーツィエの居る部屋へと向かったのだった。
高い塔を見上げると、その先の空には重い雲がかかっていた。
湿気がひどく、長い袖に包まれた腕がひどく蒸した。
――今夜は嵐かな。
そんな事を思いながらハインリヒは塔の階段を上り始める。
ユーリは揺れを気にして彼のポケットから涼しい顔を覗かせた。
そしてきょろきょろと辺りを見回す。
ルーツィエのところに向かっているというのに、逃げも隠れもしないらしい。
そのふてぶてしさにハインリヒは呆れてしまう。
ハインリヒの息が次第にあがって来る。
立ち止まって膝に手をつくと、汗がこめかみから滴って、階段にぽつりと落ちた。
ルーツィエが歳の割に足腰が強いのは、この塔のお陰かもしれないとハインリヒは思った。
彼は普段鍛えているので、なんてことは無いはずだった。
しかし長い長い階段を登り終える頃には、息が上がり切って、汗びっしょりになっていた。
――こんなところによく住めるよなぁ。
彼は深呼吸をして息を整えると、古ぼけた扉を軽くノックする。
「どうぞ」
多少嗄れた声が扉の向こうから聴こえる。
ハインリヒはおそるおそるその扉を開いた。
部屋は薄暗かった。ハインリヒは目を凝らして部屋の主を捜す。見渡せば、本ばかり。古い本独特の黴臭い臭いが鼻に馴染むころ、やっと目が慣れてルーツィエの顔が見つかった。
「おや、ようやく謝る気になったのかしら」
ルーツィエはにたりと笑い、ハインリヒの手の上のユーリを見た。
「いえ、……それがそうではなくて。今日はユーリ殿下に関して、ちょっとご相談に」
ハインリヒは丁寧に腰を折る。
ルーツィエは少し微笑むと、ハインリヒに椅子を勧め、茶器を用意し始めた。
「あ、おかまいなく」
ハインリヒの言葉をさらりと流し、彼女は小さなランプに火をつけ、湯を沸かし始める。
もともと彼女は礼を尽くす者には礼を尽くす。
今回の件も、決して意地悪でやっていることではないのは誰の目にも明らかだった。
「ユーリ様、あれから全くお話をされなくなってしまって……」
ハインリヒは出された紅茶を少しすすると、切り出した。
「話をしない? あなた相手にも? それはちょっとおかしいわね。……子供のような純真な心を持った者、彼を愛している者には、声が聞こえるはずなのですが」
彼女は、机の引き出しから小さなメガネを取り出すと、それをかけてじっくりとユーリを観察した。
ユーリはテーブルの上で相変わらず涼しい顔をして、頬を膨らませ、喉を低く鳴らしていた。
「え! ……あの、この蛙……本当に殿下?」
いつの間にか、彼女はひどく真っ青になって体を震わせている。額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
「……どういうことですか」
「こっちがそれを聞きたいんだけど。これは、ただの蛙よ、殿下じゃないわ」
「ええ!?」
ハインリヒは椅子の上から飛び上がった。
――うそだろう! ……ってことは、あのとき私は間違えて……!?
泉でよく確認もせずに連れ帰ったのは……。
思い出してハインリヒは血の気が引いて行くのが分かった。
「うっ」
苦しそうな声に、ふとルーツィエを見ると、彼女は真っ青な顔のまま、胸を押さえて床に倒れ込もうとしていた。
慌ててハインリヒは彼女を受け止める。
「だ、大丈夫ですか!!」
「で、殿下……」
ルーツィエはそう低くつぶやくと、ハインリヒの腕の中でがっくりと体から力を抜いた。
ルーツィエはそのまま、寝込んでしまった。
もともと高齢だ。気持ちが折れてしまった彼女は、弱るのも早かった。見る見るうちに痩せ衰え、髪は白く抜け落ちて、一気に十も老け込んだかに思えた。
彼女の枕元で、王やハインリヒがいくら話しかけようとも、うわごとのようにユーリの名前を呼ぶばかり。
「ユーリ様を捜して……」
ルーツィエの命が尽きようとするのを感じ、ハインリヒは必死で尋ねる。
それだけは、どうしても聞いておかねばならなかった。
「呪いの解き方を……ルーツィエ殿!」
「……愛する女性からの……こころからのキスを……」
最後の気力を振り絞るようにそうつぶやくと、ルーツィエは静かにまぶたを閉じた。
――キス、キスだってぇ!!
ハインリヒは思わず蛙を見つめる。――ユーリでないと分かってもなんとなく手放せなくなってしまったのだ。
触るとなにか粘液が付くのではないかと思えるような、ぬめりとした肌が、燭台の炎に照らされて、妖しく光る。ぎょろりと飛び出た黄金の瞳の下、大きく線を引くその薄く広い唇がふと緩む。
蛙がそのまだら模様の浮いた顔を歪めて、にたりと笑った気がした。
――む、無理!!
ハインリヒは絶望して、ルーツィエの手にしがみついた。
――ルーツィエ殿!! ……逝かないでくれ!!
だが、ハインリヒの願いもむなしく、ルーツィエが目を覚ますことは二度と無かった。
夏の嵐が吹きすさぶ中、ルーツィエの葬儀が重たい雰囲気の中行われた。
彼女の死を悼むことはもちろんだが、同時に王太子であるユーリの行方が分からないという大問題が発生していたからだ。
ルーツィエの責任を問うような意見さえ飛び交う中、ハインリヒはひっそりと王に呼び出された。
「この度のこと、私にも責任がある。ルーツィエだけを責めようとは思わぬ。しかしユーリの行方を探し出すことは急務だ。事が事だけに、内密に、速やかに探し出す必要がある。ハインリヒ、おぬしやってくれるな?」
ハインリヒは強く頷く。
彼は今回のことにひどく責任を感じていた。
蛙を間違えて連れて帰ってしまったのはハインリヒなのだ。
あのとき、ユーリが泉に飛び込んだ後、数泊後、すぐに同じような模様の蛙が泉から浮かんで来た。ハインリヒはそれがユーリと思い込み、確認すること無く連れ帰ってしまったのだ。
なんという失態。
彼はその命で償っても足りないのではないかと考えていた。しかし、王はハインリヒに挽回の機会をくれると言う。
王の寛大さに感動しつつ、ハインリヒは部屋に戻ると旅支度を始めた。
まずは一刻でも早く探し出さないと。
王子として生まれ、恵まれた容姿を持ち、何不自由無く生きて来たはずのユーリ。それが今はどうだろう。その手に持っていたはずのものを全て奪われて、異国の地で一人、飢え、凍えているのかもしれないのだ。
そしてもし無事に見つけたとしても――
哀れな主人の境遇を思い、ハインリヒは胸を詰まらせる。
――あのユーリ様が、そう簡単に恋をするとは思えないし、したとしても相手が蛙相手に恋をするとは到底思えない……。
ハインリヒはユーリが元の姿に戻ることは無いのではと、絶望しかけていた。それでも、彼は、彼だけはユーリの最後の希望でありたいと願った。
――たとえ、たとえユーリ様がずっと蛙のお姿だとしても、私の忠誠心は変わりませんよ!
目に浮かんで来た涙を拭うと、彼はその黒い瞳を輝かせ、きっと顔を上げた。