3 カエルの刺身

 背中がじりじりと焼ける。
(ああ、俺、ここで干涸びて死んでしまうのか。蛙の干物って美味いのかな……)
 そんな事をふと考えたとき、背中を焼く日差しが何かに遮られた。視界が暗くなる。
「お、こりゃあ、立派な蛙だ。いい拾い物した!」
 突然体をひょいと持ち上げられ、ユーリはびっくりして目を開ける。
 目の前には赤い鼻をした丸々太った中年男。
 白い服を着て、肩からエプロンをかけている。
(まさかだけど………)
 彼の嫌な予感は的中した。


 数刻後、彼はたらいの中で洗われていた。
「うーん、揚げ物にするか、焼き物にするか……」
 中年男は、ぶつぶつと独り言を言いながら、包丁を研いでいた。
 同じたらいの中には、一匹メスの蛙が優雅に泳いでいる。
「なあ、泳いでる場合じゃないだろ」
 話しかけても返事は無い。
 通じないのか、気にしないのかも分からない。とりあえず、彼女はなんともこれから起こることを予想できずにいるようだ。のほほんとした表情が、ユーリには逆に怖くてたまらなかった。
 ユーリは、この姿になって初めて、自分が“食用”であることを意識していた。
(そ、そうだよな、生きてるものを食うってことはそういうことだよなっ)
 つまり、他のものの命を取って、自分のものにする。
 いつも何気なく自分がしている行為が、とてつもなく恐ろしいものに感じ、ユーリは戦慄した。
「やっぱり、活き造りにしよう」
 料理人はにわかにそう言うと、たらいの中のユーリとメス蛙に酒を嗅がせた。
 強い刺激に意識がふわりと宙に浮く。
(ああ、俺の人生って………)
 ユーリの世界は一気に暗転した。

 *

 ふと気が付いたときに、ユーリの目に最初に目に入ったのは、豪華なシャンデリアだった。
 それは、カストックの広間にあるものと形がよく似ていて、ユーリは安心した。
 ――ああ、あれは全部嫌な夢だったんだ……。
 大きく息をつき、そうしてふと隣を見ると、……蛙が一匹、きれいに捌かれていた。
 ぎゃああああ!!
 ユーリは再び意識を失いかけたけれど、ここで気を失っては命に関わると、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
 夢じゃなかった!! こ、この蛙はっ!
 それは、たらいで優雅に泳いでいたあのメスの蛙だった。そしてユーリは飾りのように、その側に添えられている。
「お口に合いましたでしょうか? 東洋では有名な食べ方だそうです。刺身というらしいですが、なかなかいけるでしょう?」
 料理人が、誇らしげに説明している。
「うむ。少々臭みがあるかと思ったが、酒で洗ってあるからか、あまり気にならないな」
 立派な口ひげを生やした中年の男が、それに答える。
「そうでございましょう。お姫様方はいかがでしょうか?」
 料理人が笑顔を向けたそこには、美女が一人と美少女が三人、一様に満足そうに頷いている。そのとき目の端に金色の髪の毛が映り、ユーリははっとした。あのすみれ色の瞳は。
 ――あぁ、あの子!!
 ユーリが驚いて声を上げようとした次の瞬間、悪魔の声が耳に届く。
「それでは、もう一匹捌きましょうか」
 料理人は、ユーリを手で掴み、包丁を手に取った。
 刃先がシャンデリアの光に照らされて鈍く光る。
「や、め、ろ―――――!!」
 思わずユーリは目を閉じ、叫んでいた。

「………………?」
 だが覚悟していた衝撃は落ちて来なかった。
 ユーリは恐る恐る目を開けて、部屋の中の反応が見事に二分されているのを見た。
 中年の紳士とすみれ色の瞳の少女が、驚いた顔をして立ち上がっているかと思うと、隣に座っていた美少女二人と美女一人は平然とおしゃべりを続けている。
 見上げれば、料理人もあいかわらず目をらんらんと輝かせ、包丁をユーリに向けている。
「……口をきいたぞ。その蛙」
「は?」
 中年紳士の呆然とした言葉で、料理人の気が逸れた。
 ユーリは、一瞬緩んだ料理人の手を脱け出すと、目に入った少女に向かって跳躍した。そして少女の目の前に着地すると、叫ぶ。
「そこの女の子!!」
 ユーリは必死だった。なにしろ命がかかっている。
「約束だろう!!!! 俺をペットにしてくれるって!!」
「あ! ……あのときの!」
 少女は明らかに動揺して、ちらりと中年紳士の様子をのぞき見る。
「アンジェリカ。この蛙は『約束』と言っているけれど?」
 アンジェリカと呼ばれた少女は、みるみるうちに蒼くなり震えだした。
「お、お父様、だって、これ、蛙ですのよ? 蛙との約束なんて守る必要感じないもの」
「約束は約束だろう? この間、お前は、私との約束を破った時に、なんと言ったかな? 『二度と約束は破りません』と言わなかったか?」
「た、確かに申しましたけれど、それは、人間との約束のお話で……」
 アンジェリカを鋭く見つめたまま、中年紳士は、言った。
「……お前は、私が怒った理由が全く分かっていないようだ。『約束』というものはそういうものではないだろう? 
約束をするということは、相手だけでなく、自分にもそれを課するということだ。相手が違っても、それは変わらないんだよ。私は、お前が自分の心をきちんと律することが出来るようになって欲しいんだ。……分かるかい?」
 アンジェリカは、しゅんとした様子で、うなずく。
 それを見て、中年紳士は、ユーリに向き直った。
「娘が失礼をしたようで申し訳ない。十六になるというのに、まだまだ子供で困っているのだよ。申し遅れたが、私はこのリュンベルクの王だ。娘はアンジェリカ。……それで、あなたは、どんな約束を?」
 ――あなた?
 ユーリは驚いて目を見開く。
 リュンベルク王は、出来た人間だった。ユーリの姿を見ても、まったく馬鹿にした様子が無く、丁寧な態度を崩さない。
 その器の大きさに、彼は王とどう接してよいか分からなくなった。
 ――あれ? 俺、いつもどんな風に話をしてたっけ? ルーツィエは年長者と話す時はどうしろって言ってた?
「あ、あの。お嬢さんの鞠を拾ったお礼に、お、俺、いや僕を養ってもらう約束を――」
 しどろもどろでユーリはようやくそう言うと、変な汗(のようなもの)を体中から出した。
 汗(?)は妙に酒臭かった。
 まだ、洗われた時のものが残っているのかもしれない。
 王は頷くと、アンジェリカを見つめ、念を押す。
「……アンジェリカ。分かったね。約束を一言もたがえず守ること」
 アンジェリカは一瞬ユーリに反抗的な目を向けたけれど、
 結局はおとなしく首を縦に振ったのだった。