6 きっかけはあの夜

 ハインリヒは翌日の早朝にリュンベルクへ向かって旅立った。
 王に親書を用意してもらい、胸元に大事に仕舞い込む。いざという時の切り札だ。
 リュンベルクは馬の足で五日ほど西に行った緑の美しい国だ。夏の強い日差しの中、その森は青々と生い茂り、地平線にこんもりと様々な形を象っている。小麦はその穂を風に揺らし、まるで緑色の海のようだった。
 ――こんなに早く再び訪ねることになるとは思わなかったな。
 国境を越え、美しい城が視界に入ると、彼はため息をついた。
 そして、ハインリヒは歓迎の晩餐会でちらりと見かけた姫君たちを思い出し、もう一つ深いため息をつく。
 ――あのような可憐で優しそうな姫君ならば、もしかしたら、ユーリ様の呪いを解いて下さるかもしれない
 ハインリヒは十六歳。女性の外見がそのまま内面と結びつくと固く信じているのだった。


 ハインリヒはまず、城下町で聞き込みを始めた。
 蛙の足だ、置いていったのがあの泉であれば、そんなに遠くへ移動は出来ないだろう。それにルーツィエの残した言葉を思い出すと、蛙の姿をしたユーリと話が出来る人間は、子供か、彼を愛している者ということになる。城には幼い子供は居ないはず。となると、もし有用な情報が得られるのならば、城下町だ。ハインリヒはそう目論んでいた。
 ハインリヒは子供に声をかけようとしたが、どの子供も、ハインリヒのただならぬ様子に近づいて来ない。
 しかも黒髪に黒い瞳の異国風の容貌が変な風に目立ってしまい、周りの大人も警戒をしているようだった。
 その上、彼は例の蛙を共として連れて来ていた。蛙の方もしっかりハインリヒに慣れて、逃げ出そうともせず、しっかりとその肩に乗ってくつろいでいた。
 こんな姿で、うかつに話しかけていては変質者だと勘違いされて捕まえられてしまう。
 しかたなくハインリヒは、町中の泉を渡り歩き、似た蛙を見つけては、話しかける。
「ユーリ様?」
 肩に大きな蛙を乗せ、街中の泉で蛙に話しかける異国の奇妙な少年。その姿は瞬く間に噂になった。
 ――ああ、背中が痛い。
 背中に刺さる野次馬の視線が増えるのが分かるけれど、やめるわけにいかない。
「おかあさん、あのおにいちゃん、蛙さんとお話ししてるよ? あたしも蛙さんとお話ししてみたい」
「しっ、見ちゃだめ! こっちにいらっしゃい!」
 そんな会話が背中に降り掛かる。
 ハインリヒは顔を赤くしながらも、やはり構わずに捜索を続けた。

 ――万が一、捕まって食べられていたりしたら――
 嫌な想像がハインリヒを追い立てる。首を振り不安を追い払いながら、ハインリヒは必死で蛙に話しかけ続けた。


 夕刻になり、蛙たちも住処に帰ってしまったのか、見当たらなくなって来た。見つけても見分けが付けにくく、ハインリヒがあきらめて宿を取ろうとしたところ、突然兵士に囲まれる。
「お前か、蛙を探していると言う不審な者は!」
 ハインリヒは驚いて言い訳をしようとする。
「――ち、違うんです!」
 そう言ったものの、何が違うのか自分でも説明できない。
 ――蛙じゃなくって、王子なんです!
 そう言おうとしても、なぜか口が固まって言葉が出て来なかった。
 そして、別の言い訳を考えつく前に、ハインリヒは兵士によって城まで連行されることとなったのだった。


 *


 奇妙な同居生活が始まって半月が過ぎ去り、ユーリは、このわがまま王女との生活に次第に慣れて来ていた。
 相変わらず、一緒の皿から食事をとり、一緒に風呂に入り、一緒の寝台で眠る。
 アンジェリカの方は、もうユーリのことをペットとして認識しているようで、当然と言えば当然だけれど、他に何も意識していない感じだった。
 しかし、ユーリの方は、そうはいかない。
 ――次第に彼女のことが異性として気になって来たのだった。
 ユーリは十三歳と、異性に興味を示し出すお年頃だ。しかも、相手はもともと、好みの外見をした少女である。朝から晩まで一緒にいるような生活をしていて、意識するなと言う方が無理だった。

 もちろんユーリだってアンジェリカがただのワガママ娘だったら、いくら外見が可愛かろうと気にかけない。
 実際、外見と内面のあまりの違いに、一度は淡い憧れのような気持ちは完全に冷めていた。
 しかし、ずっと一緒に過ごすうちに、ユーリは、彼女がわがままな顔以外に、他に魅力的な顔を沢山持っているという事に気付き始めたのだった。

 きっかけは、そう、あの夜のことだった。

 *

 就寝の時間になり、侍女も下がって、部屋の中には、もうユーリとアンジェリカの二人きりだった。窓の外には濃紺の闇が広がり、部屋の照明が窓ガラスに反射して煌煌と輝いていた。
「ねえ、あなた、気になる子とかいないの」
 突然アンジェリカはユーリに向かってそう尋ねた。
 いつものように、広い寝台の隅でうずくまって眠ろうとしていたユーリは突然の質問に顔を上げる。
「は?」
 ユーリはどういう意味か分からなかった。
 ――気になる子? それは人か、蛙か? 
 起き上がってアンジェリカの方を向くと、すみれ色の瞳とユーリの瞳がぶつかる。
 そして、彼女の瞳の持つ微妙な熱に絡めとられる。
 ユーリは一瞬で彼女に釘付けになっていた。
 ――一体なんなんだ。
 ユーリを見ているのではない。ユーリの後ろの誰かを見るような瞳だ。明らかに別の誰かを思い浮かべている。
「……あのね、このごろ……いつも不思議な夢を見るのよ」
 アンジェリカは少しだけ困ったようにため息をつくと、少しだけ顔を赤らめ、勝手に会話を始める。
「誰にも言えなくって」
「だから、どんな」
 アンジェリカのその恥ずかしそうな様子に、ユーリはなぜだか無性に苛ついた。
「笑わないでね。――男の子がね、隣に寝ている夢なの」
「……………欲求不満なんじゃ」
 苛ついていたせいか、思わず口から意地悪な言葉がこぼれ、アンジェリカに平手で背中を殴られる。
「うげ」
 彼女は軽く叩いたつもりかもしれないけれど、ユーリは内臓がつぶれるかと思った。
 涙目でアンジェリカを見上げると、彼女は「あ、ごめん」と軽い調子で謝った。
「だから、俺を殺す気か」
 相変わらず、彼女は蛙と人間の違いが分かっていない。力加減が全くなっていない。本当に……何度目だろう、この台詞は。
 ムカムカしつつユーリはアンジェリカを睨む。
 彼女は全く気にした様子を見せず、テーブルに置いてあったハンカチで念入りにユーリを叩いた手を拭いつつ、壁をじっと見つめる。
 もう慣れたけれど、本気で失礼極まりない。
 ユーリはため息をつくと、気を取り直して尋ねる。
「それで?」
「なんだか、気になって。だって、毎日なんだもの。最初は夢だと思ったんだけど、あまりに続くし。……でもこんなこと誰に相談しても、さっきのあなたみたいに言うでしょう? お姉様たちにバレたりしたら、なんて言われるか。……で、でもね」
 アンジェリカはさらに赤くなりながら蚊の鳴くような声で囁いた。
「すごく綺麗なの。びっくりするくらい」
 吐くため息が桃色に色づいて見えた。
 頬がバラ色に染まり、その目は少しだけ潤んできらきらと輝いている。
 ユーリはそれを見ていると、異常に胸がざわざわした。
 ――なんだ、こいつ。……メチャクチャ可愛いんだけど!
 しかし、すぐにユーリははっとする。そして、彼女が異常に可愛く見える原因が、どうやら夢の中の男にあると考えると、なんだかおかしくなりそうなくらいムカムカし出した。
 ――こういうやつって、好きな男の前だと、ぶりっ子するんだろうな。俺の前では、こんなわがまま娘のくせに。ああ、なんだが腹立つ。メチャクチャ腹立つ!!
 ユーリはお腹の中でぐるぐると嫌な感情が渦巻くのを感じ、しまいには吐き気までしてきた。悪いものを食べた時のように、胃袋が口から出てきそうだ。
 ――これ以上聞いてられない!
「あっそ。一人で勝手に惚けてろよ」
 ユーリはそう捨て台詞を吐くと、一目散に部屋から出て行った。
「あ、もう、ちょっと! 話くらいちゃんと聞いてよ!!」
 アンジェリカが後ろから叫ぶけれど、無視。無視。無視。
 ひたすら跳ねに跳ねて、新たに備え付けられたユーリ用の出入り口(ユーリが王に頼み込んで、泉に行けるようにしてもらったのだ)から外に出て、泉の中に飛び込んだ。
 泉の中でぷかぷか浮きながら、深く蒼い夜空を眺める。
 水面を浅く潜り、上を眺めると、そこには星空が映っている。ユーリはまるで星の中に浮いているようだった。
 冷たい水の中に身を浸し、心を星空に浮かべていると、火のような怒りが静まり、ようやくムカムカも治まって来た。

 そして、ようやく冷えたユーリの心に、その考えは、流れ星のように急に落ちて来た。

 ――俺は、何にこんなにムカついてるんだ?



 結局、ユーリは頭をしばらく冷やした後、部屋にこっそりと戻った。
 一応扉にはユーリが通れるくらいの小さな隙間が残されていた。アンジェリカはユーリが戻ってくるのを待ってくれていたのかもしれない。
 ぴょこぴょこと跳ねながら先ほどの事を思い浮かべるけれど、いくら考えても、ユーリはなぜ自分が腹を立てたのかよく分からない。
 そして、冷静になればなるほど、アンジェリカが一瞬可愛く見えたことの方が腹立たしくなって来る。

 ――ああ、俺の馬鹿。あんなヤツ、可愛いわけないだろ! 外見に騙されるなよっ! 俺の好みは、もっと、やさしくって、いつもニコニコしててっ……少なくとも、あんなわがままな冷たいヤツじゃない!

 アンジェリカに受けた様々な仕打ちを思い出しつつ、自分にそう言い聞かせるようにしながら、寝台に上がり込む。
 ユーリが開けっ放しにして来た扉の隙間から流れ込む微かな風に、ベッドの脇の燭台の火が揺らめいている。蝋燭が小さな音を立て、その長さを変えていく。
 そんな中、彼女は既に気持ち良さそうにすやすやと寝息を立てていた。
 ――くそ。いい気なもんだ。幸せそうな顔しやがって。
 ユーリは、枕元にしゃがみ込むと、目の前の少女の顔をふと眺める。
 ベッドの上にふんわりと波打つように広がる金色の長い髪、くるりとカーブを描いた長い睫毛、少しだけ色づいたやわらかそうな頬、果実のように瑞々しい滑らかな唇。
 ――これで、中身がまともならな、確かに可愛いんだけどな。
 そう思うユーリの前で、ふとアンジェリカが息を呑んだかと思うと、その唇を綻ばせて、可憐に微笑んだ。
 花が綻んだかのようなその表情に、ユーリはどきりとする。そしてなんだかいけない事をしているような気分になった。
 思わず息を止めてその様子を見守るけれど、その瞼がそれ以上動く事は無かった。
 どうやら、夢を見ているようだ。
 ――例のあの男の夢か。
 そう気が付いた瞬間、また腹の底から、黒々した嫌な感情が頭をもたげる。
 ――夢なんか、見なければいい。
 思わずアンジェリカを起こそうと、彼女に近づく。
 髪でも引っ張ってやろうと思ったのだ。
 しかし、彼女の顔が近くに迫ったとき、ユーリの目の前には、その瑞々しい唇があった。
 彼の背中を押すように風が吹き、蝋燭の火がふいに消え去る。
 ユーリの思考はそこで停止した。

 *

 ――俺は……いったい何をした?

 数刻後、ユーリは再び、泉の中に浮いていた。
 今度はとてもじゃないが、もう部屋に戻る気にはならなかった。