「あーあ」
アンジェリカは大きくため息をつく。ひどく物足りない気分。原因は分かっていた。昨日、あの夢を見なかったのだ。
夜中に目を覚ましたのだけれど、いつものようには少年が横に居なくて、アンジェリカは思わず部屋の中を探してしまった。
――やっぱり、夢だったのよね……。
アンジェリカは、なんだかひどくがっかりしてしまった。
最初こそびっくりして戸惑いもしていたけれど、さすがに続くと次第に慣れ、そのうち彼を見るのがひっそりとした楽しみになっていたのだ。
その甘い感情は、どうやら父に抱く想いとは別の新しい感情みたいだった。まだ淡い憧れのようなものではあったけれど、アンジェリカはそれがひょっとして「恋」なのではないかと、なんだかくすぐったく感じていた。
――いつか、彼と話がしてみたいって思っていたのに……、蛙に話してしまったのがいけなかったのかしら。
後悔するけれど、あの時のアンジェリカは、誰かに聞いてもらわないと、胸がもやもやしてどうしようもなかったのだ。
そんな風に思い出して、ふと蛙の事が気にかかった。
そういえば今朝は蛙の姿が見えない。
――どこに行ったのかしら。ひょっとしてあのまま出て行ったとか?
なんだか少しだけ寂しい。
最初は気持ち悪いだけのペットだったけれど、近頃はその外見も見慣れて、なんだか愛嬌が出て来たような気がするのだ。
少しずつ表情も読めるようになり、会話をしても楽しめるようになって来た。
なにしろ、父と自分以外に話が出来ないのだ。ああいう打ち明け話をするにはぴったりの相手だった。
王女という身の上では、軽々しく友達も作れない。
もっぱら話し相手は姉たちや侍女。そして、皆がアンジェリカより年上で、彼女を子供扱いするので、こういう話題を誰かと話したことなど一度もなかった。まあ、まず想いを寄せる相手も居なかったのだけれど。
話している間、ウキウキして、とても楽しかった。気軽に何でも話せる相手、それを手に入れたと思った。それなのに……
――何が気に食わなかったのかしら。
アンジェリカはなぜ蛙が飛び出して行ったのか、どうしても腑に落ちなかった。
蛙にはつまらない話題だったのかもしれない。
第一蛙は人と同じように恋をするのだろうか。アンジェリカのように、相手の事を思って眠れなかったり、ドキドキしたり……。ふてぶてしいあの顔からはなかなか想像出来なかった。
「あーあ」
アンジェリカは、再びため息をつきながら、食事に向かう。
「おや。アンジェリカ、おはよう」
大好きなその声に顔を上げると、父が目の前にいた。
「おはようございます、お父様」
アンジェリカはにっこり笑って父に挨拶をする。そして、父の後ろにいる人物を見て目を見張った。
――黒髪、の少年……?
アンジェリカが石像のように固まっていると、父穏やかな笑みを浮かべ、後ろの人物を紹介した。
「カストックからいらした、ハインリヒ殿だ。こちらの手違いでね、失礼な扱いをしてしまって。お詫びに、しばらく滞在していただく事になったのだよ」
「先日は、お招きに預かりまして、ありがとうございました。所用でおもてなしの席には出席できませんでしたので……お初にお目にかかると思います。――ハインリヒと申します。よろしくお願いいたします」
ハインリヒは丁寧に挨拶をすると、膝を折り、アンジェリカの手を取って、その甲にキスをした。
アンジェリカの視線はハインリヒに張り付いて離れない。
――ち、ちがうわよね? 髪が黒いだけで。この方はこの方で素敵だけれど、もっと凄まじく美しかったような気もするし………ああ、でも全く違うかと言われると……分からない……。
ハインリヒの髪は、夢の中の少年と同じ黒髪だ。黒髪は……このリュンベルク国では珍しい。
――何かの偶然?
アンジェリカは混乱して、目が回りそうになっていた。
朝食の席についたアンジェリカは、一緒に食事をとっているハインリヒをこっそり盗み見る。
彼は父と何か深刻な顔で話し込んでいた。テーブルの端と端に座っているため、所々会話が立ち消え、アンジェリカの耳には意味のある言葉として届かない。
ハインリヒの漆黒の髪が額に一房落ちて、その黒い瞳の色を濃く見せている。
歳はアンジェリカと同じ十六歳と聞いたけれど、大きな瞳のせいで幼く感じた。
最初は違うような気がしていた。しかし、見れば見るほど、夢の中の少年と重なってくる。
夢の中の少年の瞳を見ることが出来れば、本人かどうか確認できるのにと、アンジェリカはもどかしくて堪らない。
――また夢を見ることがあれば、瞳を見ることが出来ないか確かめてみよう……。
アンジェリカはそんな思いで頭と胸がいっぱいで、全く食事をする気にならなかった。
食事が終わり、姉や母が席を立ったのに引き続いて、少々名残惜しく思いながらアンジェリカが立ち上がろうとした時、父がアンジェリカに尋ねた。
「ところで、アンジェリカ。ユーリ殿はどこに行かれたのだ?」
「え? ……ああ。昨日の夜から見かけていないの。突然飛び出していってしまって」
テーブルにはアンジェリカの食べ残しがそのまま置いてある。野菜くずやパンの欠片、魚の皮の残った皿をちらりと見て、アンジェリカは急に気になりだした。
このごろはこういう光景も見ることはなかったのに。
――さすがにお腹が空いてるんじゃないかしら……。
蛙のへの字になった、のっぺり大きな口をふと思い浮かべると、ひどくがっかりした声が上がり、アンジェリカははっとした。
「あぁ、飛び出してしまったのですか……」
顔を上げると、ハインリヒが渋い顔をして呟いていた。
「この方はね、ユーリ殿を探しに来られたそうだ」
父が説明する。
「蛙を? なぜ?」
アンジェリカは、まさかあの蛙が隣国から探しに来られるようなモノだとは思いもしていなかったので、驚いた。
――もしかして、貴重な蛙なのかもしれないわ。なんたって話が出来るのですもの。
アンジェリカがぼんやりそんなことを考えていると、父が厳しい顔でたしなめた。なぜか隣のハインリヒを少し気にしているようだった。
「お前はまだ『蛙』などと。名があるのだ、失礼だろう」
「だって、蛙は蛙じゃないの。それ以外のナニモノでもないわ」
アンジェリカが頬を膨らませると、父の顔が怒りで赤らむ。
「ユーリ殿は……っ……うむむぐ」
父は変に口ごもると、困ったように頭を掻き、ハインリヒを見つめて申し訳なさそうな顔をする。
ハインリヒも何か言いたげな顔をした。
「やはり王もだめなのですね。ルーツィエ殿も、ここまで徹底した呪いをかけずとも良いものを……」
「とにかく、アンジェリカ。次からは『ユーリ殿』とお呼びしなさい」
「なぜです!? ユーリ殿、ですって?」
――冗談じゃないわ! 蛙に向かって、「ユーリ殿」なんて。
第一、あの蛙にそんな綺麗な名前が似合う分けがない。呼ぶ度に笑いが出そうだ。
いくら父の言いつけでも、理不尽なものには素直に頷けなかった。
しかしアンジェリカの反抗的な目を受けても、王は態度を変えなかった。
「アンジェリカ。物事を見かけだけで判断してはいけない。第一もうお前たちは友達なのだろう? それならば、きちんと敬意を払いなさい。王である私だって出来ていることだ。お前が変なプライドを一方的に振りかざすのは見ていてみっともない」
そう言われると、アンジェリカは反論できなかった。
誰にでも分け隔てなく丁寧な父の態度は素晴らしい。アンジェリカはそれをとても尊敬していたのだ。
アンジェリカは、ふくれたまま、それでも最後には殊勝に頷いた。
「ところで」
アンジェリカは気を取り直す。そして先ほど中断していて気になっていた話題に戻した。
「ハインリヒ殿は、なぜ『ユーリ殿』をお探しになっていらっしゃるの?」
せっかくの機会だ。もっと彼と話をしてみたかった。
蛙のことはちょうど良い話題だった。
ハインリヒはその眉を少し下げて、困った顔をする。幼い顔が余計に幼く見え、夢の中の少年と被り、アンジェリカは再びどきりとする。
「王女様……その理由をお話ししたいのですが、なぜか出来ないのです。お話ししようとすると、口が自然に閉ざされてしまって。我が国の魔女が『ある呪い』を『ある方』にかけたのですが、それにまつわることに関しては、どうも人の口からは事情を説明できないようになっているようで……」
アンジェリカの様子には全く気がつかないようで、まどろっこしくハインリヒが説明をする。
彼女の頭の中には疑問が蝶のように飛んでいた。
「ある方? 呪い?」
「私もね、教えてあげたいのだが……うむむ……やはりどうも口が動かない」
父も困った顔をしてアンジェリカを見つめる。話す度に苦痛からか顔が赤らんでいく様に見えた。
「お父様は、事情を知ってらっしゃるの? なぜ?」
「私は、その“名前”を知っていただけだ。そして、いろいろな材料から考えたら、それしか答えがなかったのだ」
アンジェリカは、もう少し突っ込んで聞きたい気もしていたけれど、話をする父があまりに苦しそうなので、それ以上聞くのを躊躇った。
――ユーリという名前について調べる必要がありそうね。
あとで自分で調べよう、アンジェリカはこっそりと思った。