8 再会、そして衝撃の告白

 時は少し遡る。

 ハインリヒは、城に連行された後、すぐにリュンベルク王に目通りを許されていた。
 怯えたハインリヒが兵によくよく話を聞くと、王の方が彼を探していたようだった。
 目の前の立派な紳士は優しい瞳をしてハインリヒを出迎えた。
 先日の晩餐会ではユーリが不在だったため、遠くから見かけるだけだったけれど、あの時も彼が居るだけで周りの空気が和むのが見えていた。カストック王とは別の魅力に溢れていて、近くで見るとその穏やかな人格が外見に滲み出ているのがよく分かった。
「街の噂を聞いてね。もしかして、と思ったのだよ。カストックからわざわざ蛙を探しにいらしたとか」
「はい。実は……この蛙と同じような蛙を探しているのです」
 ハインリヒはそう言うと、肩の上に乗っていた蛙をテーブルの上に降ろす。
 蛙はおとなしく喉を膨らまして、低く鳴き始める。
「お見かけになったことは」 
 王は、蛙を一瞥したかと思うと、すぐに頷いた。
「我が娘、アンジェリカの友人だ」
「……ゆうじん?」
 耳を疑うハインリヒに、リュンベルク王は今までのいきさつを簡単に説明した。
「はあ……」
 なんとも……なんだかうらやましい話が混じっていたような。
 ハインリヒは頭を掻いてユーリの生活を思い浮かべる。
 可愛い王女さまと、同じ皿から食事をとり、一緒に風呂に入り、一緒の寝台で寝る……
 それだけ聞くと、夫婦生活よりももっと濃厚な気がした。新婚さんでもそこまでべったりではないだろう。
 もし自分だったら……とハインリヒが夢想していると、リュンベルク王がこほん、と咳払いをして尋ねる。
「それで、なぜ、蛙をお探しに?」
 ハインリヒは慌てて居住まいを正した。
「え、ええ。それについては、この書状を見て頂けると……あれ?」
 書状を手に取った時、妙な違和感を感じた。ハインリヒは不思議に思いながら、王にそれを差し出した。
 王がそれを開いた時に、違和感が何かようやく分かる。
「あ!」
 書状から、ユーリに関する記述、呪いに関する記述が、いっさい消えていた。
 ――な、なんという呪い………相当怒ってたんだな、ルーツィエ殿は。あぁ、こ、これは一体どう説明すればいいんだ!
 ハインリヒは、せっかくの切り札がただの紙くずになった事に焦り、冷や汗をかいた。
「あ、あの、王。申し訳ありません……なんと説明していいやら」
「これは、呪いかな。しかもかなり強力な」
「はい」
「もしかして、あの蛙は……カストックのフェルディナント王子では」
 ――大当たり!!
 ユーリの正式名は『ユーリウス・フェルディナント・カストック』。
 対外的にはフェルディナント王子と呼ばれていたが、カストックでは幼少よりユーリという愛称で呼ばれていた。リュンベルク王はどこかで呼び名を耳にしていたのかもしれない。
 ハインリヒは狂喜乱舞して頷こうとしたけれど、なぜか首が縦に振れない。
「あ、あの……」
 『そうです』とも『はい』とも肯定の言葉を吐くことも出来ず、ハインリヒは焦った。
 首を縦に振ろうとすると、首が引き攣れた。無理をすればもげそうだ。
 それでも頑張っていると、次第にハインリヒは息が詰まって真っ赤になって来た。
 脂汗が額からこめかみを伝って流れ落ちる。
「うぐぐぐ」
「も、もうよい。なんとなく分かった」
 リュンベルク王には、一応伝わったようだった。
 ハインリヒは肩で息をする。
「ずいぶん手の込んだ呪いのようだ。人の口からは教えられないようになっている。状況から推測するしか方法はないようだ」
「そ、そのようです……」
 ようやくハインリヒの首を縛っていた力が弱まり、口も思うように動くようになる。
「それで、どうすれば、その呪いが解けるのだ?」
「それが……」
 ハインリヒは迷った。ここで話してしまう事がこの状況を良い方向に変えるのかどうか、ハインリヒには分からなかったのだ。けれど、結局は王の協力無しには乗り越えられないものも多そうだった。現に彼らは既に王の厚意に甘えて城に居候させてもらっている。
 ――やっぱり協力をお願いしよう。
  意を決すると、ハインリヒは王にその方法を教えたのだった。


 そんなやり取りがあったあと、ハインリヒは朝食の席でアンジェリカ王女と対面した。
 そして、可憐で優しげな外見を一目見て舞い上がった後、内面のそのあまりの違いにひどくがっかりした。
 ――女の子って……見かけ通りではないんだな。
 あれでは、ユーリの相手はとても無理だろう。ともに子供だと目も当てられない。ハインリヒは二人が並んだ様子を想像してため息をついた。

 窓の外を見れば、美しい裏庭でいくつもの泉が夏の日の光に輝いていた。
 ――さてと。とりあえずユーリ様を探さねば。ああ……あの中のどこかにいらっしゃればいいけれど。
 ハインリヒは気持ちを切り替えると、ユーリ捜索を開始したのだった。

 *


 ユーリは、泉のふちでかがみ込み、水面に浮かぶ自分の顔をじっと見つめていた。水の中からぎょろりとした丸い黄金の目が二つ、こちらを睨んでいる。
 何度ため息をついても憂鬱が晴れる事は無い。彼は昨日の一件から、激しく精神の均衡を崩していた。
「あーあ」
 何度その姿を眺めてみても、今まで見ていた姿とのあまりの違いに、ガックリ落ち込んでしまう。
 あの艶やかな黒い髪は、あの青い瞳はいったいどこにいったのだろう。
 もし元の姿なら、こんな風に悩むこともなかったのかもしれない。昨日のことだって、こんなひどい罪悪感を感じることもなかったのかもしれなかった。そもそも、あんな状況になることもきっとなかったのだ。

 ――こんな生活、もう耐えられない。頭がおかしくなりそうだ。でも、俺、……一生このままなのかもしれない。
 ユーリは恐ろしさに身震いする。父や母、姉、ハインリヒの顔が瞼の裏に浮かび上がり、涙を堪えて大きく深呼吸をした。
 どんなことをしても、国に帰りたかった。
 だから必死で周りの人間に話しかけた。しかし、どんなに必死で訴えようとも、ユーリが自分の身の上に関することをいくら話しても、誰にも伝わらない。
 彼の声は、どうやら蛙の鳴き声にしか聞こえていないようだった。
 実は、アンジェリカにも何度かカストックに戻して欲しいと言ってみたのだ。
 しかし、全く伝わらなかった。
 普通の会話なら出来るというのに、ユーリの身元を表す情報になるとなにか不思議な力に遮られてしまうのだ。唯一伝えられたのは『ユーリ』という名前だけ。その名前が、この国で知られているとは思えなかった。
 呪いのあまりのたちの悪さに、ユーリは忘れていたルーツィエへの恨みを思い出す。

 とたん、

 ぐうぅぅぅ

 ユーリのお腹が気味の悪い音を立てる。
 ――腹減った。やっぱり、空腹にはどんな悩みも敵わないよな。
 ユーリはため息をつきながら、泉の淵から離れ、城へと移動を始めた。


 跳ねて跳ねて、扉まで辿り着こうとしたそのとき、扉が大きく開き、男の足が現れる。
 扉にぶつかりそうになったユーリは思わず悪態をつく。
「うわ、なんだよ! 突然出て来るなよな!」
 文句言ったって、どうせ聞こえないんだよな……そう思ったユーリの頭上から意外な声が降り掛かった。
「ユーリ様……?」
 聞き慣れたその懐かしい声。
 ――う、嘘だろ!?
「は、ハインリヒ!!」
 見上げると、幼さを少しだけ残した顔がユーリの目に映る。
 ユーリは、その姿をあらためると、大きく飛び上がった。
「な、なんでここに!」
「ああ、よかったぁ。もし城から出てたらどうしようかと思いました」
 ハインリヒはその顔に懐かしい笑顔と、涙を浮かべていた。
「ハインリヒ!!」
 ユーリは、ハインリヒに飛びつく。
 彼は手慣れた動作でユーリを受け止めると、その手の上に乗せ、ユーリを覗き込んだ。
「間違えてしまって……本当に申し訳ありませんでした」
 ユーリは、嬉しくて、ルーツィエの呪いも父のお仕置きもハインリヒの失態も、それからアンジェリカのひどいひどい仕打ちも何もかももうどうでも良くなっていた。
 助かった――そう思った。
 これで、国に帰って、悔しいけどルーツィエに謝って……。
 そうすれば元の生活に戻れるのだ。あの何の悩みも無い、平和な生活に。
「ハインリヒ、すぐに国に帰ろう! そして、ルーツィエに呪いを解いてもらうんだ」
 ユーリは意気込んで言う。
 しかしハインリヒは、それを聞くと一気に顔を曇らせた。
「ユーリ様……ルーツィエが……」
 ハインリヒの発した言葉は、途中からユーリの耳に入らなくなった。


「ルーツィエが……死んだ?」
 ――まさか、そんな。あんなに元気だったのに。殺しても死なないくらい憎らしかったのに。
「うそだ……」
 ハインリヒは残念そうに首を横に振る。
 ルーツィエに最後にかけた言葉を思い出し、ユーリは愕然とした。

『うるさいんだよ! この不細工!!』

 あとで謝れるから、言えた言葉だった。まさか、それが最後の言葉になるなんて……。
「俺……」
 胸が焼けるように痛いのに、涙も出ない。
 この姿では、泣けないのだ。とんでもなく薄情な人間に思えて、ユーリは自分を死ぬほど嫌いになった。
 ――俺は、……俺は!!
 ユーリはハインリヒの手から飛び降りると、泉の中に飛び来んだ。
『まあ、これを機に、せいぜい内面を磨かれるのですね』
 ルーツィエの最後の言葉を思い出す。
 あんな言葉が最後の言葉なんて。瞼の裏に最後に見たルーツィエの顔が浮かぶ。思い浮かべたその顔には、冷たい笑みが浮いていた。彼が一番嫌いな顔だった。彼女は、もっと、もっと優しい顔もたくさんしていたはずなのに。

 ――なんて、なんて、俺は……幼い……。大好きな師の最期をそんな風に終わらせてしまうなんて――。

 なんだかんだ言っても、ユーリは……ルーツィエが好きだったのだ。
 ルーツィエは厳しいけど、それだけじゃなかった。
 いいことをすれば手放しで褒めてくれた。それこそ両親よりも。大げさなくらいに。
 ユーリが国を継ぐことを心配して……いつか彼が苦労しなくてもすむように、心を鬼にして叱ってくれていた。
 自分の馬鹿さ加減に腹が立って仕方がない。自分の幼さが憎くてたまらない。
 あの時の言葉を撤回したかった。優しい言葉に置き換えたかった。
 しかしもう、――取り返しがつかなかった。


 ようやく泉から上がって来たユーリを待ち受けていたのは、彼をさらにどん底に突き落とすような、ハインリヒの厳しい言葉だった。
 ハインリヒは、神妙な顔をして、ユーリの前に跪いていた。

「ユーリ様。心中を察しますと、とても言いにくいのですが、あなたは国を継がねばならない身。元の姿に戻って頂かなければなりません。ルーツィエがいない今、呪いを解く方法はたった一つ」
 ユーリは、ごくりと喉を鳴らした。

「愛する女性からの、心からのキスです」

 ユーリはその言葉の意味が一瞬分からなかった。
 ――キスって……何だったっけ? キス? キスって……ええと、キスだって!?
 ようやく言葉とその行動が繋がる。様々な想いが沸き上がり、一瞬にしてユーリの頭は沸騰した。
 空腹も手伝ったのか、視界がどんどん狭まってくるのが分かる。世界が縮む。ユーリと同じ大きさに。
 ――ああ、ハインリヒ、お前いつから小人になったんだ……。
「あ! ユーリ様!?」
 ハインリヒの声を遠くに聞きながら、ユーリはとうとうその場に伸びてしまった。