ジョイア皇帝との会談のためにジョイアを訪れたアウストラリス王太子に女官として付き添った――という名目の婚前旅行も折り返し地点に入っていた。
メイサとルティがジョイア宮に滞在し始めた五日目のこと。
事前には何も知らされず、突然「用意は出来ているな?」と部屋に顔をのぞかせたルティに、メイサは仰天した。
彼の『一歩も外に出るな』という言いつけ通りに、メイサはここ数日をスピカの部屋で穏やかに過ごしていたのだ。本当は城の中をふらふらと散歩したり、庭を散策したかったけれど、横暴な主人に迷惑だからという理由で厳重に室内に押し込められた。だけど、その分スピカとたくさん話も出来たし、未来の甥っ子ともたくさん遊ぶ事が出来た。今日だってその甥っ子ルキアとの遊びの計画で予定は埋まっている。
予定を狂わされたメイサはルティを睨んだ。
「でも、私、ルキア様と遊ぶつもりだったのに」
「俺よりもルキアを優先するのか?」
そう言ってむくれるルティに苦笑いしながらなだめにかかる。
「あなたの相手は行きがけに散々したでしょう? ここ、そんなに長い滞在じゃないんだもの。たくさん遊んで覚えてもらいたいのよ」
「どうせ次に会ったときには忘れてる。無駄だ」
「そんな事分からないじゃない」
「ごちゃごちゃ言わずに、さっさと来い。視察に行くぞ、城下町だ」
「え?」
メイサは飛び上がる。
「視察って予定では明日からじゃないの?」
「公式視察は明日からだが、今日はまず城下町だ」
会談が終わればルティは視察に出かける予定だった。二日ほどの皇都の視察が終われば、北部の都市へ回る。その足で北の国境をムフリッドへ抜けて帰国する。これにはメイサも見聞を広げるために付いていく予定だった。でも今日は日程調整の予備日のはず。だから、今日は宮でゆっくり出来る最後の日だと、張り切っていたのだ。
それに、夜には宴がある。毎日甲斐甲斐しくジョイア宮中近衛隊員からのお誘いの文が来て、断りを入れるたびに心苦しいと思っていた。だから最後の日くらいは参加したかったのに。
メイサがそんな事を考えていると、ルティがにやりと笑った。
「心配するな。お前が参加しようとしている宴には断りを入れておいた」
「え、うそ――ひどい」
まずなんで知っているのとメイサは動揺する。以前反対されたことを教訓に内密に計画していたというのに、どこから漏れたというのだろう。
ルティは呆れたようにため息をつくと、メイサの手首をつかむ。大きな手で力強く引き寄せられ、よろけると大きな胸の中に抱きとめられる。スピカがニコニコしながらこちらを見ているのに気づいたメイサは、思わず頬を赤らめ、少しでもルティと距離を取ろうとした。しかし腕の力は緩むどころか、強まった。ここ数日触れ合っていなかったことを主張するかのよう。このまま馬車に乗れば、即押し倒されるのではないかと思えるくらいに。
部屋を出る前にと、薄いショールの上から厚手のショールをかけられて、深く帽子をかぶせられる。
「いってらっしゃい。せっかくだからいっぱい楽しんできてね」
スピカの声を背に、城門まで歩く。そこから一人乗りの輿に乗せられて、麓まで下りた。
山の頂上にあるジョイア宮ならではの行程だ。輿で多少乗り物酔いを起こしかけたメイサだったけれど、馬車に乗り替えたとたん、口づけで忘れさせられる。五日ぶりのキスはやはり乗り物酔いの特効薬だった。
彼は唇を滑らせながらメイサの肩にかけられたショールを取り去ると、むき出しになった胸元に口づけた。痛いくらいの熱を感じ、メイサは思わず眉を寄せる。
(ああ、せっかくショールが要らなくなってきたっていうのに……)
今日の栗色のドレスは初めて袖を通したが、ほかの服よりも胸の開きが大きく、意外にあっさりと胸がこぼれてしまう。もちろん意図しなければそうならないが、今目の前にいる男は狙って選んだのではないかと思えた。
メイサは胸を見下ろして、案の定付けられた痣にがっかりする。以前のような力任せの紫色ではないけれど、真っ赤な痣。ルティは人に襟ぐりの開いたドレスばかりを贈ったくせに、人前ではショールなしでは着れないようにしてしまった。あちこちにわざとのように付けられた赤い痕のせいだ。鏡で確認せずともメイサが見下ろせば気づくところに付いている。これが消えるまではせっかくのドレスも本来の美しさを隠すしかなかった。とてもじゃないが、恥ずかしくて無理だった。
(肌を出すような意匠なのに)
行きがけの馬車でどういうつもりなのか問うたけれど、いつも通り答えは返らなかった。仕方なくメイサはショールを巻いて痕を隠していたけれど、あれでは人前で服を脱げない。脱げば彼の唇がどこにあったのかがあからさまに知らされる。痕は全身に付いているはずで、それを見つかったときの事を考えると顔が火を噴きそうだ。部屋での着替えにも気を使わざるを得なかったし、せっかく付けてくれるといわれた侍女の介添えを断ったのは主にそういった理由だった。
しかし勧められて入ったジョイアの風呂には思いも寄らない効果があった。毎日浸かったのがよかったのか、痣の消え方が思ったよりも早かった。だから今夜にはショールを外せると楽しみにしていたのだ。
(せっかく自分で贈った物なのに――どういうつもりなのかさっぱり分からない)
「何を考えてる?」
うわの空だと気づいたのか、ルティが肌から唇を浮かせむっとした声で問うた。不機嫌な声につられて、メイサは遠慮なく文句を言い返す。
「……ドレスの事よ。ショール、外したかったのに。せっかく素敵なのに誰にも見せられないのってもったいないもの」
「俺が見てるから何の問題もないだろう」
「あなたの前だとドレスの意味ないのに? やっぱりあなたって横暴だわ」
「今更何を言ってる?」
反論しようとすると口が塞がれた。あっという間に唇を割られて舌まで捕らえられ、言葉を封じられる。ジョイアに入ってからは馬車が普通のものに変わったので、最後まで至る事はなかった。けれど今の彼の性急さを考えると今日は何となく危ない。なんと言っても、五日も間が開いたのだから。
アウストラリスの馬車の中、それからオルバースからの船の上、もちろん宿でも。数えては無いけれど(いや、最初は数えていたけれどあまりの多さに途中で失念したのだ)、日数の三倍は抱かれたと思える。正直言うと、体力の限界を感じる。筋肉の塊みたいなルティと一緒にされては敵わない。もともとどこかの夫婦みたいに
(今日は仕方ないかしら)
メイサは覚悟する。休息も充分頂いた。これが彼の妻の役割の一つなのだ。
でも、一度で足りないのはどうすれば良いのだろう。もしかしたら、数をこなさなければ自分では満足出来ないのだろうかと申し訳ない気持ちになる。現状では、不足を補おうと思ってメイサが何かしようとすると彼は怒ってしまうので、彼に身を任せてじっとしているしかない。でも自分ばかりが幸せな気分になるのは、なんだか申し訳ない。立場を考えると王子に奉仕するのは自分であるような気がするのだ。少なくともシトゥラでは男を喜ばせろと学んだ。やはりもっと彼のために勉強すべきかと考えるけれど、練習には相手がいる。彼相手に練習――それは果たして許されるのだろうか。
そんな事を悶々と考えているうちに、馬車は城下町の大きな屋敷の前にたどり着く。
馭者が到着を告げ、メイサは服の乱れを慌てて直そうとして、痣がいつの間にか三つにも増えている事に愕然とした。しかも全部が全部、ドレスで隠せない位置。
「あぁ! うそ! また増えてる!」
ルティは名残惜しそうにメイサから体を離すと、悲しそうに愚痴を言うメイサにショールを巻き付けて外へと連れ出した。