『勘違いよ。私、あなた以外と寝た事ないもの。私の体はあなたしか知らない――なんなら、確かめてもいいわよ?』
目が見えなくなるほどの衝動が襲ったのは、耳元でからかうように囁かれたその言葉を聞いた直後だった。
「メイサ」
耳に口づけ、小さく囁くと瞼が持ち上がった。大きな茶色の瞳が部屋の燭台の僅かな光を反射する。
彼女が起き上がると、シーツが滑り落ちる。艶かしい裸体が晒される。彼女はそれを気にする事無く、ぐるりと部屋を見回し、見慣れない景色にここが宮ではない事を思い出した様子だ。
そして彼女の目はルティのところで動きを止めた。
「……ルティ?」
彼女は叫びすぎて掠れた甘い声でルティの名を呼んだ。
「起こして、悪かった」
メイサは彼の声を聞いて、完全に目が覚めたようだった。小さく悲鳴を上げて胸にシーツを抱く。
彼女の唇は声と同じように乾いてしまっていた。少々腫れているかもしれない。何度もした口づけのせいだとは知っていたけれど、まるで渇きが移ったかのよう。我慢出来ずに口づけた。
舌で刺激して潤うというものでもないことに気が付いたのは、散々唇を貪った後のこと。ルティは口づけを中断して尋ねた。
「水は?」
「……欲しいわ。喉からからだもの」
頷いて、傍に置いておいた水差しからグラスに水を注ぐ。メイサがグラスに手を伸ばすけれど、渡さずに自分の口に付けた。文句を言おうとしたメイサの唇に、濡れた唇を重ねる。文句と共に水を飲み干す彼女が愛おしい。いつもこうしていればいいのにと思わずにいられない。
彼が彼女より優位に立てるのはベッドの中だけだ。メイサはこの時だけは姉の位置から恋人の位置まで降りて来る。特に情事の後の彼女の素直さは、普段の彼女を知っていると嘘みたいだった。だからこそ、口もきけないほどに乱したくなるのかもしれない。
背に手が回ると、再び体が熱を持つ。どうしようもない。彼女に自分を刻み付けて、――壊してしまいたくなる。女を覚えたてのガキでもあるまいし。
十四のときの続きを今になってやってる気がしてならなかった。あの時に止まってしまった時間を埋めたくて仕方がない。離れていた分だけ、濃い時間を過ごしたい。どれだけ抱けば、この気持ちが薄れるのだろうと、自分でも呆れる。
再び理性を無くしそうになっている事に気が付いて、一度唇を浮かせた。ここで塞き止めておかないと、理性が戻った頃に日付が変わっているのは確実だった。
今日はとことん計画通りに進まなかった。いつの間にか屋敷も寝静まる時間だ。それでも、明日に持ち越すわけにいかない予定があったのだ。
「メイサ。渡したいものがある」
最初は街で彼女と一緒に選ぶ予定だった。物を贈ってもあまり喜ばれた覚えがないから、自分で選んでもらおうと思ったのだ。宝飾店にでも連れて行こうと歩いてる途中に、彼女の機嫌が悪くなってその計画は潰れた。
まあ、運良く彼女が欲しがったものが分かったから、侍従に頼んで取り寄せてもらっていたのだが。
それは、夕食の時に彼女が自ら見つける予定だった。けれど、結局いつもの喧嘩でそれも駄目になり、そうして……なんだか順番が色々と逆になってしまった。
(どうしてここまで思い通りにならないんだ)
嘆息しながらルティはテーブルから焼き菓子の箱を持ち上げた。一つ二つと色とりどりの紙に包まれた菓子を外に取り出すと、底に置いておいた物が顔を出す。菓子が無くなる頃に彼女が気づけばいいと思っていた。今か今かと待ち構えていたけれど、彼女がこれを自力で見つける事は結局なかった。
手の込んだ演出など、全部無駄だ。
乾杯も無し、祝いの言葉も、贈り物も無しで、二人とも既にベッドにいるのだから。
メイサは箱の底に沈んでいたものに目を丸くしていた。
その顔が可愛らしかったので、ルティはひとまず満足する。
「これ……あのときの?」
ルティは頷いてそれを取り出し、彼女にの首に腕を回した。金具を外して髪の毛を掻き分け首にかける。赤い宝玉で出来た首飾りは、彼女の肌の色にも、髪の色にもとても合っていた。
鏡がないため不安そうにする彼女にルティは教えた。
「よく似合ってる」
「こっちは? スピカに?」
メイサははにかみながらもう一つの首飾りを指差し、尋ねた。
「お前が二つ欲しいなら、二つともお前が着ければいい」
「じゃあ、これはスピカに。あなたからって言ったら、複雑かしら?」
「かもな」
緑の石で出来た首飾りは確かに妹によく似合うだろう。そして似合えば似合うほど、
メイサはしばらくうっとりと胸元で輝く宝石達を見下ろしていたが、突然のように首を傾げた。
「でもなんで買ってくれたの?」
「……やっぱり忘れてるんだな」
そうだとは思っていたけれど、呆れる。女というものはこういった催しが好きなはずなのに、おかしなものだ。
「お前、今日誕生日だろう? 二十三歳の」
「あ……」
メイサは口元に手を当てる。忘れていた自分に驚いたと言う表情だ。
「でも。私はあなたに何もあげてないし」
「膝掛けをもらった」
「……ああ、そういえば」
メイサはどうやらそれも忘れていたらしい。当日に受け取ったわけでもないし――ルティの誕生日は大抵新年の儀式に重なって慌ただしいためだが――、もともと誕生日を意識したものではなかったのかもしれない。
「でも、手作りだから殆どお金かかってないの。こんな高価なもの、もらえない。この間のドレスも貰ったばかりだし。自分で買うわ」
貧乏暮らしが長いせいだからだろうが、他の女にはない反応だ。思わず苦笑いする。
「そういうところが自覚がないって言われる原因なんだが。俺を誰だと思ってる?」
とたん、メイサは眉を跳ね上げた。
「王太子だからこそ、無駄遣いは駄目よ」
ある意味とても妃に相応しい発言をする彼女の口を慌てて塞ぐ。ただでさえ今日からまた一つ年下だ。これ以上話をするとまた
(……素直に喜べばいいのに。まさか説教されるとは)
先ほどの可愛らしい顔はどこへ行ったのやらと思いながら、唇を浮かして尋ねる。
「もしかして、気に入らなかったのか?」
すると、メイサはぎょっとした顔で首をぶんぶんと振った。
「この頃一度にたくさん貰いすぎて、勿体ないって思っただけよ。これね……欲しかったの。だから、すごく嬉しい。あ、これを着けたら少しは綺麗になれるかしら?」
彼女が右手で赤い髪を背に流すと、隠れていた白い肌が露になった。自分が今どんな恰好でいるかも忘れているのか、メイサは嬉しそうに胸元を見せてルティに感想を求め、能天気に微笑んだ。華奢な鎖骨の上で輝くのは赤い宝玉。だが、ルティの目にはその下の肌の方がよほど眩しい。
ルティは口元だけでなんとか微笑んで頷くと、胸を覆うシーツを今すぐ剥いでしまいたいという衝動をぐっと堪える。
メイサには相変わらず自分が美しいという自覚は無いらしい。だが、それは今後じっくり言い聞かせるしかなさそうだった。
(まぁ、国に帰って、鏡の前で教えてやるか)
彼女がどれだけ恥ずかしがるかを思い浮かべると、視察など放ってさっさとアウストラリスに帰りたくなる。
ルティは少し意識して息を吸うと、腹に力を入れた。次に用意した言葉には、少々気合いが要る。どうして真実を言うのには、こんなに力が要るのだろうか。気障な男の仮面を被ってやり過ごせばどれだけ楽かと思うけれど、それではきっと彼女には届かない。
「俺が、お前にそれを着けて欲しいと思ったんだ。お前が綺麗だと、俺は嬉しい」
急に赤くなって大人しくなった彼女の唇の上で、ルティは続けて囁いた。きっと今日最後の言葉になるだろう。極めて普通に聞こえるようにと願いながら。
「誕生日、おめでとう」
柄にもない言葉に自分の耳がまた赤くなるのが分かった。彼女に分からないようにと――燭台の火を慌てて吹き消した。
〈余暇の過ごし方 了〉