私室に入り、周囲の人間を下げさせるまで、ルティはひたすら寡黙だった。
メイサは屋敷に戻ってから初めて知ったのだけれど、一応アウストラリスから連れてきた兵が遠巻きに護衛をしていたらしい。その上、ジョイアの人間も護衛に当たってくれていたようだった。招き入れた王太子に何かあってはまずい。いくらルティが腕が立つとはいえ、万が一ということもある。当然の配慮かもしれない。
メイサ達が屋敷に戻った後、顔を見せたその中にはジョイア宮中近衛隊長レグルスの顔もあった。自国の皇太子および皇太子妃の護衛でを外れルティに付いているのは、その皇太子夫妻に命じられたからだろう。
厳つい顔――彼はいつもそうだとスピカに聞いてはいたけれど――でじっと見つめられて、メイサは体を固くする。迷惑をかけた自覚はあったから、責めているのだろうと怯えた。
人払いに応じたレグルスは、他の使用人の後に続き、黙礼して去ろうとして、扉の前で躊躇ったように足を止めた。
そして、部屋に三人残ったところでそっと口を開いた。
「――これは護衛する者としてのお願いなのですが」
低く太い、人の心に踏み込むような声はその厳つい顔によく似合っている。はじめて聞いたのは、メイサがシトゥラを飛び出すことになったあの夜だ。
「なんだ? レグルス」
ルティは眉を上げる。
「メイサ様に、ご自分が他人――特に男にどのように見られているかを教えていただけると、もっと隙のない護衛が行えます」
「……」
ルティが言葉に詰まり、メイサは首を傾げた。
「え? 私が何ですって?」
レグルスはメイサの問いに困ったように首を振って、ルティに向き直った。厳つい顔の眉毛が下がって、印象が優しく変わる。
「おそらく殿下はほかの男が彼女にそう言うのは許せないのでしょう? まず、彼女は殿下以外の人間がいくら褒めようともお世辞にしか取られないのではないでしょうか? 殿下がおっしゃるしかないのです。どうか、メイサ様のためにもよろしくお願いします」
「私のため?」
メイサの問いにはやはり答えずに俯いたレグルスは、なぜか笑いをこらえるような顔をしている。一方ルティは顎に手を当ててむっつりと考え込んでいた。
その夜、メイサはルティの隣の部屋を宛てがわれた。沐浴か食事かと問われて、ルティが食事と言ったので、すぐに夕食が用意されることとなった。とりあえず着替えのために一度ルティの部屋を出て、埃を被った服を脱ぎ、朝着ていたドレスに着替えた。侍女が手伝いを申し出たけれど断って、例によって薄いショールを巻いた。
食堂ではなく、ルティの私室で二人で食事となる。メイサは側付きの女官という立場なので、晩餐に招かれることはない。ジョイア宮では、スピカがメイサの立場を慮って部屋で食事をとってくれたのだ。今日はルティもその手を使うつもりらしい。
せっかくなので、メイサは給仕を任せてもらうことにして、二人きりの食事を楽しむことにした。幸い、アウストラリス王宮での雑用経験のおかげで給仕くらいはお手の物だ。
と――そう思っていたけれど、ジョイアではアウストラリスと食事の形態が違うことまでは頭に入っていなくて、メイサは戸惑う。
「あら……?」
ワゴンの上には五品ほどの同じ料理が二皿ずつ置かれている。一つ空なのは深皿。不思議に思いながらよく見ると、小さな鍋が端に置かれている。その下には簡易炉が据えられ、赤い火がちらちらと揺れていた。鍋のふたを開けると、肉がソースで煮込んであった。
(これは注ぎ分ければいいんだろうけど……)
細かく切られた野菜、焼き魚、煮込んだ肉、パンに果物、それから焼き菓子の入った箱。順番がよくわからない。
ルティがまごついているメイサに気がついて、手順を教えてくれた。
「皿が空になるのを待って、給仕が前菜副菜主菜の順に出すのが、ジョイア式らしい。ああ、右から取れば大丈夫だから」
メイサは頷いて、ルティの分の前菜をテーブルに並べた。そして彼の皿が空くのを待とうとすると、ルティが少し苛立たしげに口を開く。
「お前の分は?」
「後で取るわ」
「お前も一緒に食べるんだが」
「でも、それじゃあ、お皿が空くとき、すぐに用意できないじゃない」
「お前は使用人じゃないだろう。二人しか居ないんだ。細かいことは気にするな。俺は自分の事くらい自分で出来る」
彼が立ち上がろうとするので、メイサは手と言葉で制した。
「私はあなたの女官よ。――婚約発表までは」
きっぱり言うと、ルティは黙る。ルティのためにはそこは譲れないのだ。名目というのは厳粛に守らねば、いつか足下を掬われる。ただでさえ今回の会談は、日程をこじつけるという無理をしているのだ。彼はこれ以上付け入る隙を見せてはいけない。
そう自らの心に刻み込みながら、メイサは黙々と給仕を続け、ルティも仕方なさそうにそれに付き合う。
給仕の合間に食べたジョイアの食事はひたすらに美味だった。普段それほど食べないメイサだったけれども、ほぼ完食する事となった。
最後の焼き菓子を食べる頃、ふとのどの渇きを感じ、冷えた水を飲み干した。そして、茶を入れようとして……テーブルの上にあったもう一つの空のグラスに目をやった。
(あ、お酒のこと忘れてた!)
普段食事のときに酒を飲まないので、失念していた。
食事はほぼ終わろうとしていて、今更かもしれないと思いつつ、メイサは立ち上がる。
「ごめんなさい、お酒、忘れてた。今更だけど……要るわよね?」
「ああ」
ルティは頷いた。
ワゴンを見ると下の段に氷と酒瓶が置いてある。酒は数種類あり、度の低い醸造酒から度の高い蒸留酒まで様々だった。
(深酒させないほうがいいわよね)
皇子シリウスの話だと、ここ数日彼は火酒に溺れるようにして寝入っていたらしい。体が心配だったので自ら調合した薬を渡していたけれど、果たして飲んでくれただろうか。
そんなことを考えながら酒瓶からグラスに火酒を注ぐ。ルティはこういった強く辛い酒しか飲まないことは、彼の部屋から出される空瓶でよく知っていた。だから、気持ち少なめに。
しかしルティはなぜか立ち上がって、ワゴンに向かう。
そして一番度の弱い葡萄酒の瓶を手に取って、テーブルに戻った。
「あら、そういうのも飲むの? ごめんなさい、聞けば良かったわね」
いい傾向だと思いつつも、メイサが首を傾げると、ルティは「お前の分だ」とメイサのグラスにそれを注いだ。メイサのグラスが瞬く間に深い赤に染まり、鼻に濃厚な果実の香りが届いた。
「あ、自分でやるわよ!」
「いいから。このくらいさせろ。ほら、飲め。乾杯をしよう」
「でも」
ぐずぐずとグラスを取ろうとしないメイサに、ルティは苛立たしげに髪をかきあげた。
「――メイサ」
強い調子で彼が名を呼び、メイサははっとする。
「さっきレグルスに言われたろう」
「あ、ええ……と、隙のない護衛がなんとか」
ぼそぼそと呟くメイサをルティは遮る。
「お前には、自覚がない。お前は王太子妃になる女だ。そしていずれ王妃になる。つまり妃になったら、周囲からも俺と対等に扱われる。母上を見ていれば分かるはずだ」
「わ、分かってる……わよ?」
シャウラと同じ? 言われてはじめて気が付いた。おこがましくて思い当たりもしなかったのだ。しかしこんな風に語調強く責められると、何となく素直に認められない。
「じゃあ、今日なんで俺から離れた? もし何かあったらどうするつもりだった?」
黙り込んだルティが今まで何を心の中で温めていたのか――いや押さえ込んでいたのか。メイサはようやく気が付いた。
しかし叱られる理由には納得いかない。
「でも、私に何かあっても大したことないもの。今は単なる女官だし……まず、私を狙おうとする人なんて、そういないわよ?」
「アルゴルにさらわれておいてまだ分かってなかったのか……」
真面目に答えたメイサの言葉にルティは頭を抱えた。
「俺の女ってだけで、お前には相当な価値があるだろう? アウストラリスの王太子の妃候補なんだから。それは分かるか?」
「え……ええ」
“俺の女”という響きがこそばゆく、メイサが顔を赤らめる。ルティは本気で訳が分からないという顔をした。
「じゃあ、なんで分からない? お前が狙われるってこと」
メイサは天井を見ながら考え、そうして答えた。
「……私が妃になるような女に見えないから……なのかも」
ルティの愛情を疑ってる訳ではない。だけど、メイサは彼の隣に自分がふさわしいかと考えたとき、周りにはそう見えないだろうなと思うのだ。もちろん努力してふさわしくありたいと願っている。だけど、彼の周りの人間は、彼に恋する女達は特に、『なんであんな女があんないい男の隣にいるの』と考えると思うのだ。今日彼に声をかけて来た娘達みたいに。
メイサはそう訴える。
「――今日だって、本当はこのドレスを着て行けていたら……そしたらもう少し堂々と隣で並んでられたのに」
彼の隣に並ぶに相応しく見えれば……無茶だってしないに決まっている。
思わず昼間のことを思い出して涙腺が緩みそうになる。彼の苦手な泣き顔を晒したくはなくて、メイサはそれっきり口を閉じた。
ルティはしばし呆然とメイサを見つめた後、天井を大きく仰いで盛大にため息をついた。
「そういえばルイザだったか、お前が自分を虫ほどにしか思ってないとか……妙なことを言っていたのは。まさかそこまでひどいとは思ってなかったが……。お前、そういうことをよそで言うなよ? 誤解されて変な恨みを買うに決まってる。これ以上敵を作ってどうする」
ルティは一人納得したあと、物騒なことを言う。そして続けた。
「普通、鏡を見れば一目瞭然なのにな、――ってここにはないんだったか……。くそっ、じゃあ、どう言えば分かる?」
「え? 何を?」
「お前が…………」
ルティはそこでぐっと言葉に詰まる。
「私が?」
尋ねても答えは返らない。しばらく待ってみたものの、ルティは難しい顔をして沈黙するばかり。焦れたメイサはこういった場合、過去に彼がどんな風に言ったかを思い出して、促すように口に出す。
「……私が、馬鹿ってこと?」
自分で言ってたら世話がないわ……そんなことを思ってため息も次いで出た。
ルティの眉が跳ね上がる。しかし、彼は眉の辺りの怒りをすぐに消した。疲れた様子だった。
「…………お前が馬鹿なことはよくわかってる。今更言うことでもない――俺が言いたいのは」
「言いたいのは?」
ふと見るとルティの耳が赤かった。
あれれ?と思いながら繰り返して尋ねると、耳の赤みがさっと顔全体に回った。思わずぎょっと目を剥いたとき、その深く刻まれた口が開く。
「お前が、キレイだってこと、だ」
「…………は? え、ええと」
キレイという言葉がひどく固く響いたので、メイサは別の言葉に取り違えかけた。だけど、いくら探してもほかの意味に取れなくて、メイサは目を丸くしながらも、じわじわとルティと同じ色に顔を染めた。
そういえば、以前、ベッドの中でそんなことを言われた。だけど、真面目な口調と言うより、軽口を叩いたような様子だったし、むしろ義務かと思った。なぜなら――シトゥラの書によるとたいていの男はたとえ体の下に居るのがどんな女であろうとも、そういった世辞を言うものらしいし。真に受けて、のぼせないようにと書かれていたのを思い出して自戒していたのだ。
いや、のぼせても全く問題はないのだろうけれど、やはり、世辞を真に受けていると思われれば恥ずかしくはある。
何と言っても彼はあのシャウラを母に持ち、そしてあのスピカを妹に持つのだ。目の肥え方が異常なのだから。美辞麗句をまともに捉えられるわけがない。
「何度でも言わないと駄目か? もう一回言えば分かるか? それとも詩人のような言葉じゃないと信じられないか?」
ルティはなんだか自棄になっているようにも見えた。でも、いつの間にか首まで赤いけれど、目を逸らさずにいる。どうやら真剣に言っているらしい。
「あ、あなた、だって、それ、お世辞かと思って……。それか誰にでも言ってるのかと……それに、男は誰でもそう言うものだし」
メイサがまごまごというと、ルティは傷ついたような顔でうなだれる。
「俺の過去については、言い訳するつもりもないが――誰にでもっていうのは違う。そういう誤解はまっぴらだ」
最後はやけくそのように言い放つ。そして彼はそのままメイサから顔を背けると、壁に向かっておそるおそるのように問うた。
「つまり……お前はそういった台詞を聞き慣れてるのか? だから俺の言葉が心に響かないのか?」
メイサは記憶を探るけれど、彼女に美しいなどと言った男はヨルゴスくらいだ。しかもあれは話の流れを考えても冗談でしかない。誰が男――あの皇子シリウスの次に綺麗と言われて真に受けるだろうか。第一比べる対象があれだと、次にと言われても開きが大きすぎて全く実感が湧かない。
思い出して多少げんなりしながらも、メイサはぽつりとこぼした。
「聞き慣れるも何も……初めてまともに言われたもの」
メイサの答えにルティは振り向いた。怪訝そうな表情が浮かんでいる。
「でも……お前、散々男と寝たんだろう? お前を見て、誉めない男がいるとは思えない」
メイサは続行している誤解に目を丸くする。ジョイアへと旅立ったあの日のことが急に思い浮かんだ。結局聞かなかったくせに、どうやら彼は相当気にしていたのだ。
(ああ、そうか)
ゆっくりと彼の言葉を拾い集めると、なんだか想いの形が見えて来た。メイサは言い寄られるルティを誇らしく思うのと同じくらいに、寄って来る娘達に嫉妬した。信じているけれど、どこか不安になった。ルティも同じなのだ。だから、メイサをあんな風に隠すのだ。メイサが他の男に見られないように。――『俺だけを見てろ』と、メイサが他の男を見ないように。
そう気が付いたら、目の前のふてくされたルティの顔が泣き顔にも見えた。それが幼い頃の彼と重なって、愛おしさがこみ上げ――直後メイサはルティを胸の中に抱きしめていた。