その日の晩はいくらメイサが耳を澄ませても昨日までのような物音は聞こえて来なかった。
寝台の隣の窓から外を見つめながらほっとしていると、ルティがメイサの隣に潜り込みながらぼそりと呟いた。
「ヨルゴスには苦情を言っておいた」
「そう。静かなのはそれでかしら?」
「さあな。寝室を引っ越したのかもしれないし。あの場所がまずいってヨルゴスならすぐに分かる」
場所? とメイサは考えてはっとした。
「ねぇ、あちらのが聞こえるってことは、こっちの音も聞こえてるのかしら?」
中庭に接しているという意味ではこの部屋も同じである。
僅かに焦ると、ルティは楽しげに唇を綻ばせる。
「構造上、考えにくいが」
「構造上?」
「ああ。あちらは寝室の周りに筒がある状態に似ている。中庭で声が増幅して上まで届く。逆に俺の部屋は塔には囲まれていない」
なるほど、とメイサは塔の向こう側に見える星を眺めてほっとしかけて、気づく。
「それじゃあ、もしかしたらシェリアが今日も酷い目に遭っているかもしれないってこと?」
思わず寝台を抜け出そうとすると、ルティは面倒くさそうに顔をしかめ、メイサを寝台に押し付けた。
「心配し過ぎだ。別にあいつも憎いからやってるわけじゃない」
可愛いから――と言いかけて、ルティはそこはどうしても腑に落ちないが、と苦い顔をした。
「でも」
「余所の事にもう口出しするな。そういうのを“おせっかい”というんだ。こればかりは二人で折り合いを付けるしかないんだ」
もっともな意見にメイサは肩を落とす。彼は冷たいようで、本質を見ているのだ。口出ししたせいで拗れてしまったことを考えると、反論出来ない。
「分かったわ。シェリアから何か言って来るまでもう口出ししない。でも――ヨルゴス殿下にそれとなく伝えてくれない? シェリアが戸惑ってるって」
「既に忠告はしておいた。――それより」
ルティはじっとメイサを見下ろす。
「お前は人の事ばかり心配しているが、自分の心配はいいのか?」
はて、何の事だろう?とメイサは首をかしげる。
「俺がお前に飽きるとか、若くなくなるとか言っていただろう?」
「はぁ? 何、それ。どこで聞いたのよ?」
(誰よ、盗み聞きしたのは!)
女官の顔を一人ずつ思い浮かべるが、メイサの女官はシャウラが用意した堅物ばかり。噂好きがいたとは思えずにメイサは戸惑う。
「違うわよ。私が言ったのは、」
思わず否定しかけて、メイサは失言に気が付く。ルティがしてやったりという顔をしていたからだ。つまり、彼が盗み聞きをした張本人(もしくは黒幕)だ。
「言ったのは?」
「…………ええと、そのうち、その、減るんじゃないかしらとか。例えば、一週間に一回とか。あ、そうだ、それから――」
そういうことならと思わず理想を述べる。ついでに子供の事を言おうとしたが、ルティは信じられないというように眉を上げて話を遮った。
「月に四回? 何十年先の話を言ってる?」
にやりと笑われて、メイサは目を丸くした。
(何“十”年って言った!? 今)
思わず耳を疑っていると、ルティはメイサの上にのしかかった。赤い前髪が額にかかり、大地の色の瞳にじっと見つめられる。
「女ってのは謎だな。夜のうちはあれだけよさそうにしてるくせに、朝が来たらなんでか文句ばかり言ってる。お前にしても、あの女にしても同じだろ」
彼の言葉にメイサは顔を赤くする。
「よ、よさそうになんかしてないわよ!」
「そうか?」
「――――っ」
ふいに触れられて、メイサは体を反らせる。小さく声が上がったのを彼は見逃さずに首筋に顔を埋める。
「ちょっと、話の途中よ」
夜着の裾は既に腰付近までずり上がっていた。手癖の悪さは年期が入っている。
「何の話だった?」
忙しく動き始める指に一気に息が上がる。
「だから――」
説得力のない上ずった声が出て、メイサは悔しがる。
「嫌なら嫌と言えよ。お前を泣かせたくない」
首筋にかかった声が僅かに震えているのが分かって、メイサは彼の頭をそっと撫でた。
(ああ、また話を聞いてもらえなかった)
直前になって言っても駄目だという事は分かっているのだが――というより、その頃には何も考えられなくなっているのだが――、彼は話のきっかけさえ与えないのだ。抜け目ない彼の事だから意図的に話し合いを避けているのだろう。
(例の作戦を実行するしかないのかしら)
火酒を大量に用意して。それから二日酔い用に薬も取り寄せないと――。そうだ。鬱金はまだ栽培しているはず。
(ああ、それなら、殿下のところを訪ねる理由にもなるわよね?)
一石二鳥の案にくすりと微笑むと、ルティが頬にキスを落とした。
「……準備を整えるまでもう少し待ってくれ」
(なんのこと?)
問い返したつもりだが、言葉になっただろうか。
睡魔に逆らえず、メイサは答えを聞く前に深い眠りに落ちていた。
*
メイサが欲しがっているものはルティも知っていた。
だが、今はそれを得るべき時期ではない。新婚気分を味わいたいという個人的な感情だけでなく、彼女のために準備すべきものがたくさんあったからだ。
母の企みも知っているが、彼女には焦り過ぎて見えていないものがある気がしてならない。
まず、子が産まれれば乳母が必要だ。産まれるのが王子にしろ王女にしろ、信用に足る人物に任せたかった。
一人適任はいるが、残念ながら彼女は未婚だ。結婚を諦めている節もある。となると、乳母の役割の一つである、乳を与える事は難しい。
「……あれに期待するのは間違っているかもな」
ルティは相手になれそうな候補を一人思い浮かべ、ひとりごちる。
だが、メイサの寝顔を見ていると苦笑いもついてきた。
(俺の考えを知ったら、『私にはおせっかいだと言っておいて』と怒るか? それとも一緒になって世話を焼くか?)
メイサは彼女の幸せを誰よりも願っているのだ。
(――俺より張り切るだろうな)
そう予想したルティは黙っておこうと綻びかけた唇を引き締める。これ以上他人に彼女との時間を奪われてたまるものか。
微笑んだまま眠るメイサに口付けると、腕の中に囲う。
髪からは穏やかな香り。肌には心地よい温かさと柔らかさ。目を閉じる前にもう一度と味わうと、ルティは至福の眠りに身を投じた。
〈了〉