メイサは後ろを振り返り、大理石で作られた階段の上を見やった。
目線を上げると王妃の部屋の扉が見える。
そして目線を腕の中に落とすと、押しつけられたたくさんの本。
先ほどのやり取りを思い出すと溜息が溢れた。
『イオシフのところに王子が生まれたの。あなたたちももっとがんばらないと!』
それはルティの従兄の元に新たな王位継承者が生まれたという報告だ。
廃位された
王位継承の試しは一斉に行われる。となると早く生まれて地盤を固めた者が有利になるのは当然だった。
ルティが王位継承権を得られたのは誰もが狙わなかった裏技とも言える方法――失敗したが、
『まだか』
という最初は遠慮がちだった声も、結婚して一年が過ぎると、顔を合わせる者が悉く口にし出した。
そしてだんだんその事を口にするのを躊躇いはじめ、二年が過ぎようとした今は、誰もが言及を避けてしまうようになった。
それほどに深刻な問題に発展している事に気づきはじめたのだ。
今も変わらずに口うるさくせっつくのはシャウラだけだ。遠慮して口を噤む者よりもずっと切望して、そして心配しているにもかかわらず、それを欠片も見せずに明るく、しつこく――?普通?に急かしてくる。
あれこれ口を出して来るのは、彼女なりの励ましなのだとメイサはありがたく思っている。
しかし、考えたくなくても考えてしまうのは、自分と彼の身に流れるシトゥラの血の事だった。
近親婚を繰り返したシトゥラでは年々子供が減っている。血の濃い自分のせいなのではないかと疑いは日に日に強くなる。
口にすると本当になりそうで言葉にはしないけれど、メイサはずっと身を蝕むような不安に苛まれていた。
アウストラリスの初秋は一年で一番過ごしやすい。
肌を覆っていた汗もすぐに渇くし、程よい冷気が体温も攫う。明け方は多少冷え込むが、夜の快適さは群を抜いていた。
昔はそれでも迫り来る冬の厳しさを感じて気持ちが重くなりかけていたが、今では冬の冷気も辛くない。夫の高い体温が包み込んでくれるからだ。
そんな事を考えるメイサの頬はいつの間にか濡れていた。涼やかな渇いた風が、彼女を慰めるように優しく撫でては、伝う涙を攫う。
「ねぇ、ルティ」
声が含む湿度も風が攫ってくれればいいと願いながら、メイサは隣で子供のような寝顔を見せる夫に話しかける。
瞼が閉じられ、眼光の鋭さが消えた分、あどけなく見える。自分の髪と彼の癖のある髪が枕の上で絡まっているのを見ると、幼い頃、遊び疲れて一緒に寝てしまったときの事を思い出して、懐かしく愛おしさが込み上げた。
彼はメイサが今夜から相手が出来ないと言うと、残念そうにふて寝をしてしまった。
彼の表情に、これから一週間ほどの禁欲生活への落胆しか滲んでいない事がメイサの救いだった。
だからこそ――今度もし駄目だったら、と考えていたことがあった。
「もうそろそろ、私も、あなたも、我が儘言えないわよね? だって、あなたはもうすぐアウストラリスの王になるのだもの」
ラナの事ですっかり覇気を失ってしまったラサラス王。そんな彼を支えようと奮闘するシャウラ王妃。息子として支えるために、ルティは自らが彼らの重責を担うつもりだった。
そして準備は整いつつある。だからこそメイサは彼の重荷にはなりたくない。
ルティは変わらずすぅすぅと寝息を立てている。しかし、聞いていなくてもいいと思った。メイサは今自分自身に言い聞かせているのだから。
『気にするな』
ずっとルティのそんな言葉がメイサを励まし続けて来た。
メイサが何も言わないのに、彼女の憂いを読み取って、お前さえ居ればいいと言って笑った。
だけど、メイサはそうは思わない。その一点はどうしても譲りたくなかった。
メイサに王宮内の権限はさほどない。だが、望めば力を貸してくれる人間は居る。そしてメイサの望みを叶えたい人間は、――星の数ほど居るかもしれない。
考えたとたんどろりとした嫉妬が沸き上がり、メイサは思わず強い痛みを訴える胸を押さえた。
「私も、シャウラ様みたいに強くなりたいのに」
そう呟くとメイサはルティの頬に口付ける。
そのまま枕に頭を預けたメイサは、ルティの寝息がいつしか潜められている事に気が付かなかった。