「乳母?」
メイサは目をしばたたかせる。
「そのために、この一週間、昼間はずっとお見合いをしていまして……」
ルイザは恨みがましい目つきでルティを見ていた。
「当然相手がいるだろうが、相手役にしようと思っていたヤツを見ていたら急に不安を覚えてな。だがこの一週間、ルイザはこいつを待っていたみたいだから……まぁ、しょうがない」
「愛の勝利ですよね!」
暢気にそう言うセバスティアンをルティはじろりと睨む。彼は怒られたときのように首を竦める。怒られすぎて癖になっているようだった。
「まさかヴェネディクトでも駄目だとは思わなかったが。俺の知る限りでは一番有能な臣下だったのに」
やれやれとルティはため息をつく。
「高評価、ありがとうございます。ですが、敵いませんでしたね」
後ろから付いて来ていたヴェネディクトはルイザに尻尾を振るライバルを見て苦笑いをしている。
ヨルゴスの塔の前に辿り着くと、彼はメイサに向き合って懇願した。
「どうか、メイサ様、もう王太子殿下と喧嘩をなさらぬよう、お願いいたします。身が持ちません」
意味を図りかねてメイサが首を傾げると、
「
「アリバイ?」
そう問うメイサの隣で、ルティが居心地悪そうに顔をしかめている。ヴェネディクトは構わず続ける。
「持て余されているものを発散される場所が欲しいという理由もございましたでしょうけれど。仲直りをされた後でメイサ様が誤解なさって傷つかれないようにという意味もございますよ。お優しい方です。うちの主も少しは見習われればよろしいのに」
あの方は優しさの方向を間違っておられるから……とぶつぶつと愚痴るとヴェネディクトは塔の奥――ヨルゴスの元へと帰っていく。
小さくなる背中を見つめながら、
「……アリバイって本当なの?」
メイサがルティを見上げると、彼は「だから出来すぎる男は傍に置きたくないんだ」とムッとしていた。
「俺が他の女と寝たら、お前は傷つくだろう? というか、傷つけ。傷つかないとか――許せない。俺はお前が誰かと寝たと考えただけで狂いそうになるのに、不公平だろう」
「ヤキモチ、やいて欲しいの?」
メイサがきょとんとすると、
「当たり前だ。浮気を『我慢できる』とか言われて嬉しい男がいるか。浮気したら『殺す』くらいで丁度いいのに。お前はその部分に関しては
あいつは本気で殺りかねないが。とルティはうんざりとしている。
メイサは、互いに一生一人だけと誓い合っている隣国の皇太子夫妻を思い浮かべる。本当は彼らが羨ましかった。同じ事を願ってはいけないと思っていたけれど、自分も願って良いのだろうか。ルティも願っているのだろうか。――それはどれだけ幸せなことだろうか。
ルティの塔の前に差し掛かったところで、ルイザが苦笑いをしながら「今日はこの辺でお暇してよろしいでしょうか。お邪魔でしょうし」と申し出る。隣でセバスティアンが顔を輝かせているが、ルイザは即座に「期待しても何もないわよ」と切り捨てている。
ルティがしゅんと項垂れるセバスティアンを一瞥し、「こいつを頼む」とルイザに言うのを見て、メイサも立場の逆転にさすがに苦笑いをした。
二人きりになり、回廊を奥に進んでいると、ひんやりとした夜風が足元を流れた。びしょぬれのルティを気遣って腕に触れる。季節外れの行水が彼の体温を奪っていない事にほっと安心する。手を引こうとしたが、彼はもどかしげにメイサの腰に手を回した。
メイサは彼の胸に頭を預ける。たった一週間離れただけなのに、彼の肌に触れたくて仕方がなかった。
二度とあんな想いはしたくない。そう思ったとたん、ぽつり、言葉が零れる。
「私、この一週間たくさん泣いたわ」
ルティは苦しげに息を吐く。
「……俺が無理矢理やったからか」
「ちがうの。あなたに嫌われたと思ったから。あなたの一番近くにいる事が出来なくなるって考えたら、すごく辛かった。子供を産めなくても、その場所だけは譲りたくなくて、だから、妃にはなれないルイザにお願いしようと思ったの。ずるいわよね。でもずるをしたから、全部駄目になってしまって。なんて馬鹿なんだろうって……」
「メイサ、お前――」
「傍にいたいのよ。どんなに傷ついても、辛くても。それが私にとっては何よりも大事なことなの」
そう言ったとたん、ルティはメイサをいきなり肩に担ぎ上げた。
「な、なにするの!?」
「部屋が遠い。ちんたら歩いてられない」
そう言って走り出した彼は、塔の最上階まで全速力で駆け抜けた。
季節がいくつも巡り、アウストラリスに夏が訪れる頃。
窓際に置かれたゆりかごを四歳になろうとしている銀髪の王子――ヨルゴスの息子アリスティティスと、六歳になる赤髪の皇子――ジョイア皇太子シリウスの息子ルキアが囲んでいる。
愛おしそうにゆりかごの中を覗くと、アリスティティスがにこにこと無邪気に笑った。
「かわいいね。このこ、エアルとリトスみたいにびじんさん、なるね。アリスのおよめさんになってほしいな」
ルキアも負けずと言った。
「ずるいよ。ぼくもおよめさんにもらいたい。ははうえさまがおっぱいおおきいから、このこもきっとそうだよ。ちちうえがいってたもん」
ぴきり、と二つの殺人的な視線により部屋の空気が凍り、慌てたようにシリウスが立ち上がってルキアの口を塞ぐ。
「ルキア! 僕はそんなこと言ってないから! ホントに言ってないから!」
「え、でもちちうえ。エアルとリトスがさっきそういってたよ」
もがもがと幼い口からだだ漏れる言葉に、どうやら
ルキアの注意がゆりかごに戻ったとたん、後ろからルティが二人の男児の襟首をつまみあげて扉から外へと放り出した。
「このくそがきにえろがき、寄るな。見るな。触ったら殺す」
幼児たちは、大の男の冷たい視線と冷たい声にもめげず、ちょろちょろと逃げ回った後、花の蜜を求めるように舞い戻ってくる。きっとルティに遊んでもらっているつもりなのだろうが、からかわれていようにしか見えないとメイサはため息をついた。
当事者の時にはわからなかったが、周りから見てみると、彼の虫除けはものすごく分かり易い。ルティの娘への過剰な愛情を目の当たりにする度に、過去自分へ注がれていた愛情を確認するという……驚きの連続である。
「今から虫除けかい。メイサの虫除けだけでも大変なのに……そのうち心労で死ぬんじゃないかな」
ヨルゴスが面白そうにそれを眺めている。
「先が思いやられるわね、あれじゃ」
隣のシェリアがやれやれとため息をつくと、寝台の上で横になっているメイサに笑いかけた。
メイサはすぐ傍のゆりかごですやすやと眠っている赤子を見つめる。赤い髪の娘はどことなくルティに似ていて、愛おしくて、幸せでたまらなかった。
【完】