数日後。
メイサは中庭で遊ぶ親子の姿を塔の上からぼんやりと見下ろしていた。
ヨルゴスの実験小屋がある例の中庭には子供向けに作られた遊具などが置かれている。薬草が植えられている畑や、危険な小屋の周りには柵が設えられ、子供の侵入を阻んでいる。一年ほど前に加わった新しい家族のために随分手が入れられていた。
(今日は砂遊びをしているのね)
きゃっきゃと上がる愛らしい声の主はヨルゴスの息子だ。父親譲りの鋼色の髪、母親譲りの灰色の目をした可愛らしく利発そうな王子。その父母――特に愛おしそうに相手をする美しい銀髪の娘――シェリアを見ていると頬が緩んだ。
子を授かってからというもの、彼女からは周囲を突き刺し続けていた棘が取れてしまった気がする。特に『子供が僕の最大のライバルなんだ』とヨルゴスが嫉妬するくらいの息子への溺愛ぶりを見ていると、
そんな彼女とメイサとは、今は何でも打ち明けられる大事な家族であり親友だ。その絆を失いたくなくて、彼女が愛らしい子を授かったことを妬むまいと何度自分に言い聞かせた事か。
だが、今の状態が続けば、メイサは笑顔で中庭を覗くことができなくなりそうだった。
鬱々とし始めた空気を背後から吹いた強い風が払う。それと共に懐かしい声が流れ込み、メイサの顔を上向かせた。
「メイサ様! お久しぶりでございます!」
振り向くと思いも寄らない人物がメイサの部屋に現れていた。
「ルイザ!? いつ戻って来たの?」
「お聞きになっておりませんか? 殿下から書簡を頂きまして。受け取ってからすぐにムフリッドを発ったのです」
随分と日に焼けた。最初の印象はそれだった。青白かった肌は健康的に輝いている。どこか薄暗かった瞳も焼けた砂の色のように輝きを放ち、髪には太陽の光を取り込んだような艶があった。
「ええと……なんだか、逞しくなっていない?」
女性に告げるには相応しくないと思いつつもメイサは思わず口にしていた。
彼女につきまとっていた病的とも言えそうなシトゥラの陰が払拭されている。背筋をすっと伸ばして振る舞う彼女は以前と比べ物にならないくらいに美しく見えた。
「砂漠と工房の熱に鍛えられましたから!」
にっこり笑うと辺りに光が撒かれたように思える。それほど晴れ晴れした笑顔だった。
メイサにはその健康的な美しさが眩しかった。自分には無いものだから。そう考えたとき、
(ああ、そうだわ)
メイサの頭の中でカチリと音を立てて計画が完成した。
――ルティの子供を産んで欲しい。
メイサがその事を思いついたとき、まず悩んだのが相手の女性についてだった。
メイサには彼の一番の女性である“王太子妃”の座を譲る気がない。
もし他の身分ある娘に彼女の頼み事を託せば、きっとそんな我が儘は許されないだろう。子供と共に、彼の正妃の座も明け渡さねばならない。だが、身分の無い者であれば……?
そんなメイサのずるい計算を知れば、大抵の女性が腹を立てるに決まっていた。だがメイサがもし逆の立場であったら、きっと喜んで引き受けた。
同じように願いを聞いてくれそうなのは、無私になって、王家の事を――ルティの事を一番に考えられるシトゥラの娘である彼女くらいしか思いつかなかった。
(ルイザなら、きっと頷いてくれる)
彼女とルティとの関係を思い出す。それが過去の事ではなく、未来にもつながると思うと胸が引き裂かれそうだと思った。だが、それでもメイサは彼女ならばと思った。
重大な役目だ。心から信頼できる女性に。そして彼を心から愛してくれる女性に託したかった。
心を震わせるメイサの頭にふとある考えが降りて来た。
(そういえば、ルティが呼び寄せたって……もしかして)
彼も今のメイサと同じ事を考えたのだろうか。
もしそうであれば、決断は早いに越した事はない。
メイサの覚悟は瞬く間に固まる。勢いに乗せて口に出した。
「ルイザ。大事なお願いがあるの――」
***
「脈が無いってわけじゃあないと思うんですけどねぇ」
ルティの前には久々に見る元近従のセバスティアン。毎月
日に焼けて、柔らかそうだった頬が削げたたため、雰囲気が二十五という年相応に引き締まった。多少は外見から溢れ出る無能さが隠されたような気がしないでもないが、中身は同じようには矯正されないらしい。
予定外の事態にルティは舌打ちしたい気分だった。
二本の指を突き出すとルティはセバスティアンを睨みすえた。
「お前らがムフリッドに行ってから二年だ」
「ええ、長かったようであっという間ですねぇ」
のほほんと答えるセバスティアンにはルティの苛立ちは伝わらない。
「二年もあったのに落としてない? 始終一緒にいるのに? 嘘だろう」
「はぁ……え、あれ? 殿下どうしてご存知なんです?」
ルティは問いには答える気はない。胸を満たしていくのは落胆と焦躁。
「…………お前に少しでも期待した俺が馬鹿だった」
「いやあ、でもですね。殿下と一緒にされちゃ困りますよ……。一応事あるごとに誘ってはいるんですけどぉ、お硬いんですよ、彼女。鉄壁の守りというか……隙が無くって」
元近従は涙目で訴える。
ふぬけた声を聞いていると、彼がルティにもたらした数々の迷惑が思い返されて頭が痛くなった。
(そういえば……こういうやつだったか)
普通女の上司――しかも身分も実績もないのだ――の下につけてやれば、多少は屈辱を感じて発奮するだろう。それを願っての裁量だった。だがこの男には通用しなかったようだ。
(押しのけて自分が上に立つくらいの気概も無いのか)
そうやって一回り大きくなれば女の一人や二人落とすことができる――それくらいの素質はあるとルティは踏んでいたのだが。
しばらく見ないうちに頭の中で随分と美化されていたらしい。現実はルティが思うより厳しい。
厳しい顔をするルティの前で、セバスティアンは彼女に捧げた歯の浮くような愛の言葉をぼそぼそと報告しては、何が悪かったんですかねぇ? と助言を求めてくる。
「その調子でいくら誘っても本気だとは思わない」
的確な答えは知っているが教えてやるつもりは無い。本気で落とさなければならないなら、人の真似事では上手くいかないことをルティは自身の経験から学んでいる。
「そ、そうですかぁ? じゃ、じゃあどうすれば……」
縋るように見つめてくる彼に、ルティは『見込みなし』と落第評価をつける。
「時間もないし……他を当たる方が賢明か」
ぼそりと呟くと、身を翻す。
「あ、殿下、どちらへ?」
「近衛隊の詰め所だ。お前に任せるのは勿体ないからやめる事にした。女に餓えた男は山と居る」
セバスティアンは「そんなぁ!」と悲痛な声を上げるがルティは無視して階段を駆け下りた。
(だが……)
ルティは大股で歩きながら首を傾げる。
(合うと思ったのは、気のせいだったか)
北部の開発をセバスティアンと協力して行って欲しい――そんなルティの指示に、反発はあったが、興味の裏返しかと思っていた。だからこそさっさと纏まると思っていたのだ。
それがルティの思い違いならば、元々無理に勧めるほどの男ではない。
彼にしかない美点はある事にはあるが、もっと仕事のできる似合いの男はたくさん居る。
「殿下ぁ! 待って下さいよぉー!」
塔の階段から情けない声が聞こえて来たのがとどめとなった。
ルティはさっさとセバスティアンを切ると、