翌日からルティはメイサを徹底的に避け続けた。謝りたくても――といっても何に対して謝って良いかも分からなかったが――その機会さえ与えてくれなかった。そして晩にはルイザを部屋に呼んだのだ。メイサの望み通りに。
朝になってもルイザはメイサのところに現れなかった。女官に聞いたところ、夜中の勤めのせいで今日は起きて来れないらしい。何が起こったかはメイサは自分の経験からよく知っていた。ルイザの不在は現実の残酷さをメイサに突きつけて、彼女をひどく弱らせた。
メイサのずるい計算は、計算間違いをおこして、全く違う解を導き出してしまった。彼女は彼の一番の座を降りなければならなくなってしまったのだ。
形だけの王太子妃。自分で望んだくせに、いざ座ってみるとその座は酷く冷たく硬く痛かった。何より彼の愛を受け止めて初めて自分に自信が持てていたメイサは、それを失ったとたん、卑屈で醜かった己の姿を思い出すのだった。
鏡に映る自分を見てさらに落ち込む。自ら仕組んだ夫の不貞に泣き濡れた姿はみっともなく窶れていた。肌は青白く、髪には輝きは見当たらなかった。太陽のような夫に相応しい自分ではもういられなかった。
(私なんて、元々王太子妃になれるような女じゃなかったのに――)
塞ぎ込むメイサを誘い出したのは、隣人であり親友でもあるシェリアだった。メイサが部屋から出て来ないのを心配したのか、茶会に招いてくれたのだ。
久々に訪れる中庭には優しい風がそよいでいる。爽やかな花の香りが漂い、心が随分慰められる。
メイサがぽつりぽつりと吐き出した先日のやり取りに、シェリアは呆れたように溜息をついている。
「『わたしとじゃ、意味がない』ねぇ……。私だったら怖くて言えないわね」
「『怖い』、ですって?」
気丈なシェリアに、そして穏やかで優しいヨルゴスに似合わない言葉にメイサが思わず目を丸くすると、シェリアは肩をすくめた。そしてちらりと視線を木陰まで泳がせると、そちらから穏やかな声が流れて来た。
「『意味がわかるまで、
大きな木の影になっている庭の隅で、分厚い本――おそらくは学術書だ――を読んでいたヨルゴスが「あいつもまだまだ青いなあ」と面白そうに微笑み、立ち上がった。相変わらず柔らかく子供のような笑み。
だがその笑顔にも、シェリアは見惚れる事も無く顔を引きつらせる。茶をすすると、「アリス」と息子の愛称を呼んで膝に抱き上げ「お父様を怒らせると厄介だから」と囁いている。王子は柔らかそうな薔薇色の頬をシェリアの頬にくっつけて満足そうにしている。
優しい提案なのにと不思議に思いながらメイサは言う。
「殿下のように根気よく教えてくれれば良いのですけれど、あの人は、短気ですし。私がどうしようもない馬鹿だから、きっと無駄だと思ったのでしょうね」
メイサが女同士で、とあえて彼の同席を拒まなかったのは、男性の意見も聞いてみたかったのと、出来れば間に入って彼の気持ちを聞き出して欲しかったためだ。そんな相手は今はヨルゴスしか思いつかない。何より彼は医師であり、普通の人間とは少し違う視点で答えをくれるような気がしている。あらゆる意味で相談にはうってつけだった。
いえ、馬鹿じゃないけれど鈍いからわかる前に壊れるわ、と呆れたように呟くシェリアの隣で、メイサは近づくヨルゴスに微笑み返そうとする。だがどうしても表情から影を拭えないメイサに、ヨルゴスは親身に語りかける。
「子どもの事で悩むのはわかるよ。世の中にはそうやって悩む男女がとても多いし、ルティリクスも僕も王族だ。――って、僕たちが言うと嫌な気分になるかな?」
メイサは幼い王子をちらりと見て、すぐに首を横に振る。彼らが上辺だけの親切を繕っているのではないのはメイサにはよく分かる。一番近くで心配してくれてるのもよく知っていた。だからほんの少しでも僻んだりはしたくないのだ。
「ただ、その事で君達が喧嘩をするのは本末転倒なんだよね。君は国のためにと子供を欲しがっているけれど、いくら他の娘の腹に子供を授かったとしても、ルティリクスが荒れれば全く国のためにならない」
「荒れる? ルティが?」
「荒れ放題。昨日からね、酷いもんだよ。会議も深酒して出て来たせいで上の空で、結局中断。だから僕はこの時間にここにいるんだけどね。それに――」
ヨルゴスはちらりと近従のヴェネディクトを見やった。いつも背筋を伸ばしている彼に、今日は疲れが見えた。彼は言う。
「王太子殿下にお付き合いしたのですが……情けない事にボロボロでして」
「あいつの剣の相手、出来る人間が少ないからね。勝手に借りていって、しかも代わりに全く使えない男を置いて行くんだ。おかげで仕事は進まないし、迷惑極まりないよ」
原因はメイサにあるとヨルゴスに睨まれて、小さくなる。
「……も、申し訳ありません……」
「だから僕たちの――国民のためにも早く仲直りしてもらわないと困るね」
「でも、会ってもらえなくて」
切実に訴えると、ヨルゴスはくすくすと笑った。
「あいつにはあいつの考えがあるんだよ。頑固だし、また例のごとく意地になっているんだろうね。でも、会えない理由の大部分は本当は……あいつは君が怖いんだよ」
「え?」
意外な言葉にメイサは首を傾げる。怖がられるような事をした覚えは全くなかった。
むしろ、あの時の彼の方がよっぽど怖かった。
暗い暗い部屋で、強引に体を繋げられた痛みと悲しみは、塞がっていた過去の傷を思い出させたのだ。
「察しが悪いみたいだね、相変わらず。でも僕が言ってもしょうがないから」
考え込むメイサにヨルゴスは苦笑いをしている。
やはりヨルゴスの言う事は昔も今もよく分からない。思考が他者とは少し違う階層に浮いているのではないかと思えてしまう。
そんな彼の妻を円満に務めているシェリアに感心しているうちに、夕方を告げる鐘にメイサは庭から押し出された。