セバスティアンはガシャンという音にはっと我に返った。
「ああー!」
今日二つ目の破損物。実験小屋の床には、ガラスの欠片が散らばっている。差し込んだ夕日に赤く染まった破片はキラキラとまるで宝石のよう。
『ちょっと! 何やってるのよ!』
庭の方からキンキンとした怒鳴り声が上がり、破片に見とれていた彼は、飛び上がって扉の鍵をかける。
扉はすごい勢いで叩かれて、天井から土ぼこりが落ちてくる。
「そんなに激しく叩いたら、小屋が壊れますよぉ!」
『そう思うならいますぐ開けなさい! 何を割ったの?』
「ガラスです」
『言われなくても音を聞けばそれはわかるわよっ!』
「ええと、丸い、ガラスです」
落とした物の原型を思い浮かべて答えると、外では苛立たしげな溜息。
『……ああ、もう使えないったら。王太子殿下に後で請求しますからね! 倍額で! 床はちゃんと掃いててよ!? もしアリスが怪我したら
「す、すみませーん……!」
謝ったが、外では『どうして一番簡単な仕事さえこなせないわけ!』と罵る声が続いている。
相変わらず恐ろしい女性だと思って、彼女を妻にした(と聞いた時は冗談だと思ったくらいだ)ヨルゴス王子の懐の深さに感心する。
(っていうか、あの方々が大物な事はわかりきってるし。問題は、おれが小者ってことなんだよなぁ)
ぐるぐると巡る思考をセバスティアンはそうやって打ち切ろうとする。
頭を切り替えようと、倉庫から箒を取り出すと手早く掃いて残骸を片付ける。念入りに水も撒いて埃を流しておく。幼子がここに入る事はないと聞くが、誰かが怪我をしたら申し訳ないし可哀相だ。
綺麗になった床を見て、ため息をついた。思考を切り替えようとしたのに切り替わらず、小者小者という声が頭の中で鳴り響いている。
「おれが小者だから……、しょうがないのかなあ」
あと少しで届くかと思えた。こんな風に終わるとは思わなかった。だから衝撃から抜けられないのだ。
二年かけて口説いて来た女性が、彼がどう頑張っても叶わないと思っている男に奪われたのは昨日の晩の事。そして今日も彼女は彼の塔に召されていった。抗議しようとしたセバスティアンは、彼女に『仕事よ』と諭され、どうする事も出来なくて腐っている。
ムフリッドでの生活を経て、最初は軽かった想いは重みを増した。どうやっても消せそうにない。そうさせたのはそもそも彼らを一緒に辺境の地に送った主人だというのに、残酷な事をする。
「ルイザさぁん……おれ、やっぱりそういうの嫌です」
ムフリッドで工場の男としっかり渡り合い、鉄の女とまで呼ばれるようになった彼女だが、赴任当初は女だからという偏見に苦労していた。『男と寝て仕事を手に入れた』などと陰口を叩く男も多かった。それでも決してへこたれない彼女がかっこよくて憧れて、事あるごとに口説いていたが、冗談と思ったのか全く相手にされなかった。業を煮やして彼女に真剣に想いを告げたが、拒まれた。
その時に知らされたのが、彼女とルティリクスの過去と、彼女が今までに寝た男の数。そして、『今でも役に立つなら誰とでも寝るわ。噂、本当なのよ』と悲しそうに笑った。
正直に言うと、衝撃を受けた。だけど、セバスティアンはそれでもルイザの事が好きだった。
彼女がどれだけルティリクスとメイサの力になろうとしているか、一番近くで見ていて気づかない訳がないのだ。
今回も彼女の行動理由は同じ。ルティリクスの子を生むために腹を貸そうとしている。王太子の側妃。もしかしたら将来は王母になるかもしれない。それはきっと名誉な事だ。頭ではわかっているけれど、どうしても嫌だった。
(だって、あれだけ頑張って仕事して来たのに。自分の能力で今の地位を勝ち取って来たのに……)
(何より殿下はメイサ様しか見えてないじゃないですかー! どう頑張っても二番目とか、あんまりだ)
『妻公認――それどころか妻が望んだ浮気だ。羨ましいだろう?』
ルティリクスはルイザを部屋に引き入れる時、そう言って笑ったが、あまりに歪んだ笑みにセバスティアンは鳥肌が立った。相変わらずメイサという女性は残酷な事をするらしい。どれだけ彼女の仕打ちが不愉快だったかは、主人の全身から滲み出ていた怒りから見て取れた。
つまり、ルイザが辿り着くのは愛されない側妃という地位。セバスティアンには彼女が幸せになれるとは思えない。彼女にはもっと別の役がきっと似合う。
ため息をつくとセバスティアンは洗い物の続きを始める。
とたん手が滑り、落としそうになって冷や汗をかく。
石鹸水に浸けられたガラスの器は悉くぬめって、滑り易かった。
昨日突如命じられたヨルゴス王子の側近であるヴェネディクトの代役は、凄まじく難易度が高く、体力的にも大変だった。彼は側近と女官の仕事をすべて自分一人でこなしていたのだ。会議の議事録の整理から美味しい薬草茶の
この洗い場の仕事は、昨晩書類整理でへまをしてしまったがために任された物だった。隣の塔で行われている事に心を囚われて、うっかり大事な書類にお茶をこぼしてしまったのだ。ヨルゴス王子は微笑んで許してくれたが、妻のシェリアが許さなかった。散々罵られて、今日はここの片付けをしてろと放り込まれている。
彼女はまだ扉の周辺で張り込みを行っている。逐一見張るつもりなのかもしれない。
(恐ろしい。恐ろしいけど――)
扉の傍で縮こまっているセバスティアンの耳に、ヨルゴス王子の声が届く。
『シェリア。もう君は構わなくても良いから、アリスと遊んでおけば良いよ。そこまで面倒見てやる必要はない』
『でも、このまま使えないのは迷惑でしかないわ』
『本当に、君は親切だな』
『はぁ? どこが』
やれやれと言った様子でヨルゴス王子がため息をつく。セバスティアンは心から
セバスティアンに期待しないなら、いっそ使わなければいい。ヨルゴス王子のように。叱ってくれるのは、そこに僅かでも期待があるからだ。
――あなた、どこまで私の足を引っ張る気?
彼のするへまを罵りながらも、じっくり仕事のやり方を教えてくれた上司。彼女との時間は決して失いたくないのに。
「ルイザさん――」
声に出したとたん、手が滑る。足元で再びガラスが弾け、同時に外ではシェリアの怒りが弾けた。