相変わらずルティはメイサを避け続けた。待ち伏せは悉く躱され、夜、明かりの灯る彼の部屋に入るしか彼に会う方法は残っていなかった。だが、部屋の戸を開ければ、ルイザと寝ているルティが待っている。見るのが辛くてどうしても開けることができないでいた。
(しゃんとしなければ)
そんな想いが沸き上がって来たのは、ルティの姿を見る事さえ出来ない日々が一週間が続いた日の夕方だった。
その日は朝から雨が降っていた。いつも景色を覆っている黄色い膜が綺麗に洗われて、瑞々しい色が現れている。渇いた地面には灌木が顔を出して風景を彩っていた。アウストラリスの民が待ち望んだ雨期に突入したのだ。
水分を含んで甘さを増した空気はメイサの心と体を包み込む。肌が潤うのと同時に、泣きすぎてひび割れていた心も僅かに柔らかさを取り戻した気がした。
メイサは寝台から起き上がると、汲み置いていた冷たい水で顔を洗う。
そして鏡を覗き込むと、惨状が目に映る。泣き暮らしていたため、肌もつやがないし目も腫れぼったい。何とかせねばと化粧道具を持ち出して、念入りに化粧をした。自分の輪郭がはっきりし出すのと同時に、一週間ずっと考え続けていた事が形になってくる。
ヨルゴスたちは早く仲直りをしてくれと言っていたけれど、彼は会ってもくれない。つまり、自分はもう彼に必要とされていない。妃に相応しくないと評されてしまった。ならばどうすればいいのか。
答えは多分ずっと前から知っていたけれど、どうしても認めたくなかった。だから誤摩化して誤摩化して、それだけは避けたくて――側妃を用意しようとした。
だけど、もう目を背けるのは無理だ。
彼のために一番良いのは――王太子妃の座を空けるということだということに。
ただ、こればかりは一人で決める事の出来ない問題で。どうしても顔を見て、そして暇を出してもらう必要があった。以前ならば、決して頷かなかっただろうけれど、愛情を失ってしまった今ならば、彼は頷くと思えた。
(あとでシャウラ様にも謝らなければ)
せっかくよくしてもらったのに、何も成すことができずに城を去らなければならない。
(きっとすごく怒られるわよね)
恩を仇で返すようなものだとは思う。だが、このままではもっと酷いことになりかねない。彼女はルティの子を切望しているのだから。
メイサは部屋を出ると階段を上がり、最上階を目指す。今日もルイザが召されているのは階段を上る彼女の足音を聞いたから知っていた。
メイサの部屋の前を通らなければルティの部屋には行けない。メイサの耳は、本当はルティの足音を捕まえたいのに、なぜか目的を果たせない。そのくせに、ルイザのもたらす音には敏感に反応してしまうのだ。
階段を上り終えたところで、メイサは目を見張る。扉の前でルティの元近従であるセバスティアンが膝を抱えて踞っていた。
「あなた、こんなところでどうしたの?」
「……め、メイサ様……――ったぁ!」
うとうとしていたのか、セバスティアンはメイサの声にはっと顔を上げ、その勢いで後ろの扉にごつんと頭をぶつけている。
そして突然泣き出した。
「メイサ様、酷いですよぉ」
「え?」
「ルイザさんを殿下に充てがうなんて、おれ、ずっと前からルイザさんの事好きだったのに!」
「ええ!?」
思いも寄らない非難と告白にメイサはぎょっとした。
「え、でも、ルイザは恋人が居るとか何も言ってなくて……、ええと、ごめんなさい」
さすがに彼女に懸想する男のことまで考える余裕はなかった。恨みがましい目で見つめられて、メイサは謝罪する。
「いいんですよ、ルイザさんにとっておれは部下でしかない事はわかり切ってます。殿下の側妃は美味しい話ですし、断らないのも当然です……」
セバスティアンは再びしくしくと泣き始める。男の涙などほとんど見た事がないメイサはどう慰めていいものやらと困惑した。
「それで、どうしてあなたここに?」
「殿下に一言申しあげたくて、だから仕事も放ってやって来たんです」
「申し上げるって……何を?」
セバスティアンは少しだけ躊躇うと言った。
「『ルイザさんを一番にしてあげて下さい』って。だって、酷過ぎます。メイサ様の次ってわかってるのに、二番目でずっと我慢するなんて、辛過ぎます。そんな事を命じるなんて――メイサ様は酷い」
大の男に泣きながら何度も『酷い』と訴えられてメイサは途方に暮れた。
「ごめんなさい……私がルイザなら、きっと嬉しかったと思って。だって愛する人の子を産めるんだもの」
セバスティアンは納得いかなそうに口を尖らせる。
「でも、愛しているなら二番目は辛いでしょう」
メイサは少し考えて、そっと首を横に振った。
「よくわからないわ。私、彼の役に立つのなら、何番目でも、たとえ末席でもいいって、ずっとそう思っていたんだもの」
昔を思い出して、メイサは目を閉じる。実際は、“女”の数にいれてもらう事も出来なかった。だから女扱いしてもらえただけで、嬉しかったのだ。
だが、ふと思い出す。メイサが彼にとって唯一無二だと信じていた女性、スピカの事を。
出来る事ならば成り代わりたい、そう願った夜の苦しみを思い出した。
(私はスピカの代わりになりたかった。あの時の気持ちなら、わかるわ)
そんな彼女の前でセバスティアンは目を見開く。
「……だからって、他の人間が皆メイサ様みたいに考えるとは限りません。大抵の人は――ルイザさんだって、もちろん殿下だってです――好きな人の一番でいたいものですし、相手にもそう思ってもらいたいものです」
セバスティアンの言葉と、昔の自分の望みが重なり合い、メイサは自分が酷いと言われている意味をようやく理解したような気がした。
メイサはルイザにあの辛い想いを強要しようとしていたのだ。
本当にひどい女だ、とメイサは自分を責める。
「そうよね、……やっぱり一番がいいわよね」
「わかって頂けましたかー」
涙を拭い、ヘラリと笑うバスティアンは、すべてが解決したような晴れやかな顔をしていた。
「私が間違ってた。思い上がってたわ。――私もあなたと一緒にお願いする。そうよ、最初から、その話をしようと思って今日はここに来たの」
「よかったぁ…………って、え。あれ? 一緒にお願いって……」
怪訝そうに首をひねるセバスティアンにメイサは涙をこらえて顔を上げた。
「もちろん『ルイザを一番の女性にしてあげて』ってお願いするのよ?」
後ろから「め、メイサさまぁ! 違うんです、おれが言いたいのはそういうことじゃないんです! 勘弁して下さいー! っていうか、おれは現場は見たくないですー」とセバスティアンの悲鳴のような声が上がっている。
構わずにメイサは扉を開けると、室内に入り、部屋の奥の窓際にある寝台へと向かう。ばくばくと音を立てる胸のせいで、耳は使い物にならなかった。一歩一歩床を踏みしめながら、行われているはずの行為に取り乱さないよう、腹に力を入れた。
絹の薄布の向こうには人影があった。恐る恐る布をめくりながら、男女が絡み合っている姿を想像したとたん、
(あぁ、やっぱり見れない……!)
覚悟も空しくメイサは目を強く瞑っていた。
だが、あまりの反応のなさに、メイサは目を閉じたまま首を傾げた。
悲鳴もしくは、彼の『出て行け』のひと言くらいありそうだと思ったのだ。
(………あれ?)
そうっと目を開いて、メイサは思わずぽかんと口を開けた。
というのも、そこでは女がたった一人で書類を整理していたからだった。
力が抜けてへたり込みそうになりながらメイサは彼女の名を呼んだ。
「ルイザ」
「メイサ様?」
彼女はメイサを見てとても嬉しそうに顔を輝かせた。だが目の下には隈。疲れも見えた。
一体これはどういう事なのだろう。混乱したメイサは問う。
「な……何してるの。ルティは?」
すると、ルイザはにこりと笑って立ち上がる。
「随分長くお待ちしておりました。これでようやくお役目から解放されますわね。殿下のところへご案内いたしますわ」