3.闇の皇子 03
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「俺、お前を傷つけたくはない」
 閉じ込められるなりそう言ったルティは、部屋の中を探り始める。
「……せめて向こうの部屋ならな。暖炉を登れば逃げられるのにな」
「ねえ、なに? どうしたの? 逃げるって? 儀式って何?」
 メイサには訳が分からなかった。
 ルティはメイサの部屋の窓から外に逃げ出した。部屋は二階にあるというのに、あっさりと壁を伝って。だけどすぐに捕らえられて――今はメイサと二人で地下の部屋にいる。外側からしっかり鍵をかけられた。窓の無い部屋だった。
 連れて行かれる前に、カーラが二人に言い聞かせた。今から〈儀式〉を行うと。〈儀式〉――それは十六の歳に行うはずなのに。十五のメイサはまだその内容さえも聞いていない。それは十六の儀式の直前まで隠されているのが慣例だった。突然の例外に、メイサはただ戸惑うだけ。ルティは反抗的な目でカーラを睨みつけるだけだった。
 なぜ急にそんなことになったのかと尋ねたら、ルティがもうしばらくはアウストラリスに戻れないかもしれないからだということ。そんなことは彼から聞いていなかったし、また会えるようになると思っていたから、二重に衝撃を受けた。
「うーん、暖炉の火が消えれば……向こうに行けるかもな。だけどな……消したら寒くて死ぬか、さすがに」
 暖炉を覗き込みながらルティは悩んでいる。
「――ん?」
 ルティが首を傾げ、急に扉の向こうが騒がしくなった――と思ったとき、部屋に一人の男が投げ込まれた。その雰囲気の猛々しさにメイサは一瞬誰か分からない。
「おじさま?」
「出せ! 出せよ!」
 叔父は立ち上がるなりメイサとルティに目もくれずに扉にぶつかり出した。その荒々しい様子は普段の穏やかな彼からは想像できなかった。
 メイサは不穏なものを感じ、その背中に「おじさま?」と再び声をかける。しかし彼は振り向かない。背中全体がメイサを拒絶している。いつもならば、なんだいと優しく微笑み返してくれるというのに。一体――。メイサはその差異にひどく困惑した。
 叔父はひどく取り乱した様子で扉を叩き続ける。ささくれ立った扉が彼の拳を傷つけていた。流れ出す血にも彼はその手を止めない。
「――母上!」声が既に狂気じみていた。「母上! そこにいらっしゃるのでしょう!? 出して下さい! こんなのはもう俺は我慢できない!」
 叔父の必死の訴えに、ぼそぼそと何か小さな声が返って来た。
「……姉のときのようにだと? 無理を言うな! いい加減にして下さい、姉さんがどうなったか――よくご存知でしょう!? シトゥラはあのときに間違った。そして何もかも失おうとしてるのですよ!?」
(姉さん――って母様のこと?)
 あまりにも情報が多すぎて処理できない。まず、メイサは久々に聞く母のことに戸惑った。ルティを見るけれど、彼は厳しい顔をして叔父を――そしておそらくは扉の向こうのカーラを睨みつけているだけだった。
 母は彼女が幼い頃に、病を得て亡くなったとしか聞いていなかった。だからこそ、叔父や叔母がメイサに優しかったのだ。両親のいないメイサが可哀想だからと。
 どうして今そのことが出てくるのか、まったく繋がりが見えない。
「俺は」
 そこで、漸く叔父がメイサを振り返る。充血した目。その目から止めどなく涙が流れ落ちていた。
「叔父上、やめろ」
 ルティがなにかを察して止める。けれど、叔父は逆にそれで堰が切れたようだった。
「俺は――――自分の娘を相手に儀式をするくらいなら――死んだ方がましだ!」
「叔父上!!」
 ルティが横から叫ぶ。そして、メイサはその腕の中に強く抱きしめられる。
「自分の娘?」
 ――って誰のこと? ぼんやりと思う。おじさまに娘なんかいないはず。だって、おじさまは独身で――

(え?)

 ふいに結びついた考えはひどく恐ろしいものだった。メイサは亡くなった母も独身だったことを思い出す。メイサは父親のことを一度も聞いたことが無かった。誰も教えてくれなかった。それは――
 いくらメイサが世間知らずだったとしても、それがどれほどの禁忌かくらいは理解できた。
(わたしは)
「わたしは、……ゆるされないこどもなの?」
 自分の声が妙に辿々しく聞こえた。あまりにばからしい発想に、きっと否定して笑い飛ばしてくれるだろうと思っていたルティは、何も言わずにただメイサの髪を撫でている。
(ほんとうに?)
 彼は――もしかして、知っていた?
 知っていたのだ。おそらくは、メイサ以外は皆。
 足元が、じわり、と溶けて体が地面に埋まって行くような気がしていた。
 初めて知った自分の出生。母が行きずりの男と子を生したのだと、メイサはそう思っていた。それはシトゥラではままあることだと言われて納得していた。しかし、今、叔父は何と言った?
 ――間違った――、さきほどの言葉の意味は?
『自分の頭で考えろ』そう言ったのは一体誰だったのか、メイサにはもう思い出せなかった。しかし、その声は頭の中を鳴り響き、頭を、心を揺らし続ける。僅かに残る思考力がふつふつと蘇り、今、全力でその答を導き出そうとしていた。
「ふ、ふふふ」
「メイサ?」
 そういうこと・・・・・・ならば――シトゥラはメイサにどれだけの期待をしたことだろう。それほどに血が濃ければ――〈力〉を持つかもしれないと、最後の期待をかけられていたのかもしれない。そのためだけに、造られた・・・・のだ、きっと。
(じゃあ、力の無い、〈私〉は。〈私〉の存在の意味は)
 唐突に笑い声が響いた。
『あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは』
(誰かが笑ってる。私のことを笑っている)
 どうしても息が吸えなかった。急に遠くなる耳。でも笑い声だけは止まない。部屋の壁に跳ね返って増幅する。メイサの顔にぶつかる。声に打たれるような衝撃があった。急に苦しくなったかと思うと、笑い声がぴたりと止み、目の前が真っ白になった。


「――メイサ」
 彼女が気が付いたとき、部屋にはルティしか残っていなかった。
 暗くなった部屋の天井には、シトゥラの紋章である杯が大量に浮き出して並んでいる。それは大きく見えたり、小さく見えたり、歪んで見えたり。焦点がまるで定まらない。目眩がしているのだと急に気が付いた。
「ルティ?」
「大丈夫か?」
「私は? ……叔父さまは?」
 そう聞いてしまって、自分ですぐに訂正する。「父様は? なのね……」
 ルティは答えずに黙って水と、丸薬を差し出した。それはメイサの常用している頭痛薬とよく似ている。
「飲め」
「なに?」
「薬だって。お前が倒れたから、ババアが差し入れてきたんだ」
「ああ……」
 倒れたんだ、そう呟くと、薬を煽った。いつものものだと思っていたのに、初めて飲むような臭いと味で、メイサは慌てて水で流し込んだ。
「俺、人があんな風に倒れるのって初めて見た。騎士団じゃ、怪我なんかしょっちゅうだけどさ――」
 ルティが必死でいつも通りに振る舞おうとしているのが分かった。明るくたあいのない世間話。さっきのことは何でも無いことなのだというかのごとく。
「ルティ」メイサがルティの話を遮ると、彼は瞬時に真面目な顔をする。
「何も言うな」
「でも」
「お前は、お前だろ。――それだけだ。今までと同じ」
 ルティは困ったような顔をして、そして服のポケットを探る。取り出したのはひどく汚い布切れだった。
「うあ、こんなのしかない」
 彼はしょうがないと、顔を少々強ばらせながらメイサの頬に触れた。ぎこちない仕草で親指が頬を撫でる。とたん、なんだか体の奥が疼く気がした。

「泣くな。俺、お前が泣くのは嫌いなんだ」

 そう言うとルティは微かに笑った。茶色の瞳を甘く甘く煌めかせて。励ますような、どこまでも優しい笑みだった。

 しかし、

 その時を最後に――メイサはもうその笑顔を見ることは無い。

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2010.05.16