3.闇の皇子 02
(闇の皇子、か)
 メイサは廊下を音も無く進む。そして頭の中に思い浮かぶ影を振り払う。暗く冷たい空気を含んだ階段の前で立ち止まると、大きく息を吸った。
(この場所は……嫌い)
 カーラの部屋で覚える嫌悪感より数倍強い感覚に、吐き気さえしてきそうだった。
 足を進めたくないのもメイサ。それなのに、足を進めているのもメイサだった。彼女を動かすのは微かに残るプライドの欠片か。何かに引きずられるようだった。気が付くと、既に彼女の前には扉が迫っていた。
「こちらです」
 指し示されたのはそこにある三つのうち、メイサのもっとも忌み嫌う部屋。
「こっちなの? 左の部屋にしなかったのはなんで? あっちがいいわ、私」
 無駄なことだと知りながら、小さな抵抗をしてみる。せめて、部屋は変えて欲しかった。
「いいえ、そちらには〈レグルス〉がおりますので」侍従の声には馬鹿にするような響きがある。その名が呼ばれる時には未だに必ず蔑みの色がついてまわる。
 メイサは小さく舌打ちする。部屋が〈ここ〉というのはカーラの嫌がらせなのかもしれない。仕置きと言っていた。あるいはその一部なのか。
 急激に怒りが沸き上がり、メイサの胸の内で燃え上がった。
 そして、ぷつ、と頭の中で何かがはじけた。
「――ばかばかしくってやってらんないわ。あのくそババア」
 思わず呟くと、侍従がぽかんと口を開けた。メイサから飛び出したと思わなかったのかもしれない。
(ほんと、馬鹿みたい、私)
 カーラから返ってきた答えを思い出して、思わず胸の内で強く毒づく。
 クレイル欲しさに自分を偽ってきた。カーラの機嫌を損なわないように、本当の自分を隠し、従順なふり・・をしてきた。しかしそんなこと何の意味も無かったのだ。本当に、心底馬鹿らしかった。


 ――『名、ですって?』
 その答えに呆れた。それならば、読めずとも尋ねれば良い。あまりにも簡単すぎて腹が立った。メイサの表情からカーラは心中を察したのだろう。すぐににやりと笑って続けた。
『〈真名〉だ』
 どきりと体が強ばった。それは――記憶の中で絵本の一頁が蘇る。助けられ、騎士に名を尋ねられた姫は……〈真名〉を名乗った。しかし、それには確か〈結婚の約束〉の意味があった。
 メイサはジョイアの仕来りに詳しい訳ではない、しかし、もしかしたら――
 嫌な予感に息を呑むメイサに向かって、カーラはあっさりと付け加えた。
『真名を明かすは妃とする約束に等しい。つまりの、――皇子を落とせと言っている。シトゥラとしてはの、スピカを忘れたまま、お帰りいただきたいと思っているのだ。面倒になることが分かっておるからの。代わりに夢中にさせろ。それが叶えば、〈クレイル〉の名をお前にやろう』
 その言葉を聞いた瞬間、メイサは何もかもどうでも良くなった。


 つまり、メイサには逃げ道など用意されていなかったということ。穴に追いつめられた鼠は、飢えて死ぬか、それか出て行って猫に食われるか。
(皇子を落とす?)
「ふふふ」
 思わず笑うと、従者が顔を引きつらせて後ずさる。
「あはは」
 メイサは構わず声を上げて笑った。

 ――メイサには無理に決まっていた。カーラの言うことは、練習もせずに馬に乗れと言っているようなもの。
 相手は十六歳の少年。そしてジョイアはアウストラリスと同様一夫多妻制と聞く。しかも彼はかの国で一人しか居ない皇子。それだけ情報があれば十分想像がつく。寄ってくる花も多いはず。ジョイアの華やかな宮の中で散々甘やかされた――おそらくいくらでも相手の居る、経験豊富な皇子。そうであれば、メイサなどいくら年下でもきっとまったく歯が立たないに決まっている。
 確かに学びはした。だけどそれは全く実践の伴わない、机上のもの。どこをどうすれば男が喜ぶと知っていたとしても、突然触れてどうこうできるはずがない。相手が女に慣れていればなおのこと。下手すれば失笑ものだ。
 カーラはメイサに儀式の機会を与えなかったくせに、出来ない事を最初から分かっていて、失敗したらメイサから〈クレイル〉を取り上げるつもりなのだ。万が一成功しても同じ。皇子に見初められれば、〈クレイル〉の名だけ貰ってシトゥラを出て行かねばならない。当主でない名ばかりの〈クレイル〉に何の意味があろうか。まさに捨て石だ。
 カーラは〈クレイル〉にもなれない、〈役立たず〉にもなれない、半端な存在として、メイサをシトゥラから追い出すつもりなのだ。

 〈役立たず〉――それは、なんのとこはない。普通の娘のことだ。力を持たぬ、シトゥラの娘。出来損ないの間者。生まれついた美しさのみを武器に、男を籠絡させて、情報を引き出す、そんな女のこと。
 分家の力の無い者は皆そうしている。たまに情報の代わりに金を直接引き出すこともある。
 メイサがそうせずにいられたのは〈クレイル〉になれるかもしれなかったからだ。
 昔はメイサにも――もちろんスピカほどではないけれど――〈力〉があった。だからこそ、期待され、大事にされてきたのだ。だけど、それは年を重ねるごとに弱まっていく。
 カーラは定期的にメイサの力を試した。試しで記憶を上手く読めなくなってきたことに気が付いたのは十を過ぎた頃だった。それを体調が悪かったなどと誤摩化した。メイサは身に背負うものの重さを肌で感じていたから、怖くてそのことをどうしても打ち明けられなかった。けれどやはりクレイルであるカーラには隠しきれなかった。彼女はメイサが何も言わないうちから彼女を外に出さなくなった。――そしてその待遇はスピカが見つかってからは決定的になった。カーラはメイサを、まるで――最初から居なかった者のように扱い出した。
 最初の儀式が失敗してすぐに、次の儀式の話が持ち上がった。打ちひしがれつつも〈クレイル〉になるためには通らなければならない道だと覚悟していたのに、いつの間にかそれは消え去った。
 叔父がメイサを心配して止めてくれたのだと信じていた。だけどどうやら違った。
 メイサに使う労力が勿体ない――無駄になるからと、そういうことだったのだ。だからこそ儀式は延期ではなく、中止になったのだろう。
 シトゥラはすでにスピカに照準を絞っていた。分かっていたはずなのに、改めて突きつけらてて打ちのめされる。
 分かっていた。本当は分かっていた。力を失い寂れつつあるこの家に、カーラに、メイサの気持ちを慮る余裕など、無いのだ。
 スピカはシトゥラの唯一の希望。
 シトゥラにはもうスピカを手に入れるか、それか破滅するか。
 その二つに一つしか残されていないのだ。
「破滅……」
 溢れ出た言葉に息を呑む。――なんて甘美な響きだろう、メイサはそう思った。
(ああ、〈破滅〉、そうか)

「その手があったわ」

 メイサは笑うのを止めて、目の前の扉を開けさせる。引きずり込まれそうな闇の中、暖炉の焔だけが赤く煌めいていた。
 スピカにクレイルを渡さない、唯一とも思える方法が、この部屋の中にある。
 追いつめられた鼠は猫をも噛むのだ。

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2010.05.13