目の前の少年は少女のようだった。黒い艶やかな長い髪を背に垂らしている。伏し目がちの目を覆うのは同色の長い睫毛。端正な、しかしどこかあどけなさの残る柔らかい顔立ち。こんな美しい人間を初めて見た、そう思った。しかし、見とれたのも一瞬だった。彼がメイサに向き直り、目線を上げ、そのまっすぐな瞳を見た直後、彼女は一気に過去に心を飛ばしていた。
あまりにも鮮明な記憶に、メイサはしばし呆然としていたようだった。少年は不審そうな顔でメイサを見つめていた。そして、どこか、怯えている。
(そうか、同じ目をしてる)
急に、そう気が付いた。もちろん色形は違う。だけど――
(この子は、五年前のルティと同じ目をしている)
「君、誰?」
少年は、目を泳がせながら尋ねてきた。その声にメイサはさらに驚き、言葉を失う。低く、どこか甘い声。目の前の美しい少年には似合わないその声は、メイサが知っている男とよく似ていた。
(声まで、同じなんて)
「メイサ」
どうにか答えるものの、自分の頬が緩むのが止められない。胸が震える。まるで、ルティがあんな風になる前に戻ったみたいに思えて仕方が無かった。
(どうしよう、私……やっぱり、ルティが忘れられないんだ)
メイサは自分がどれだけそれを望んでいるのかを思い知った。もう認めざるを得なかった。
赦すまでは、などと、意地を張っている自分が馬鹿みたいに思えた。とっくに赦しているではないか。いつだって、彼女は〈彼〉が帰ってくるのを待っていた。
(私の望みは――ここにあるじゃない)
暗い部屋のはずなのに、なぜかどこからか光が射した気がした。
「君は、どうしてここに?」
(君ですって)
ひどく上品な子供だと思った。同じ〈おうじさま〉でもこの子は随分毛並みの良い皇子様なんだと思う。ルティが野犬なら、この子は愛玩用の飼い犬――どう考えても番犬にはなり得ない――のよう。溺愛されていたと聞くし、きっと大事に大事に育てられたのだろう。同じ囲われていたとしてもメイサとは大違いなのだろうけれど、なぜか妙な親近感があった。
メイサは男と話すことは滅多に無い。使用人にしろ、カーラに遠慮して必要以上にメイサと話そうとしないのだ。耳に聞いた印象だけでは、どこかの
その想像にどうにも吹き出しそうになった。
目の前の少年は、母性本能をくすぐらずにはいられない種類の人間らしい。メイサは例外無くくすぐられた。
スピカもそうだろうか……などと考えておかしくなる。
先ほどまで確かに追いつめられていたはずなのに。なんだろう、この心の余裕は。不思議だった。
少年は身構えている。小動物が尻尾をたれて震えているようにしか見えない。どう考えてもメイサが恐れていた〈男〉ではない――今は。数年後は分からないけれど。
(これは、ええと、頭を撫でて安心させればいいの? それとも――つついてくれって言ってるの?)
メイサには多少嗜虐的な傾向があるようだった。むくむくと沸き上がる後者の誘惑に堪えきれずに、彼の問いについこう答えた。
「男と女が密室でする事って言ったら、一つじゃない?」
直後少年は弾けたように飛び退いて壁で腰を強かに打っていた。そして叫ぶ。
「――なんで、僕と君がそんな事しなければならないんだ!!」
「何も聞いていないの? ……あなた闇の家の者なんでしょう?」
(そんなことも知らずに乗り込んできたって――どこまで世間知らずなの。ルティは確かに情報を漏らしてるはずなのに)
そうして彼を挑発したはず。彼がどうしてもスピカを抱きたくなるように。
メイサは自分のことを棚に上げて呆れつつ、しどろもどろの少年の姿に笑いを必死で堪える。少年はメイサの言葉にようやく何か思い当たったらしい。メイサを指差してわなわなと震えた。
「君は………僕に力の制御をさせようとしているのか……!」
黒い目が見開かれ、どこまでも大きくなる。その熟れきった真っ赤な顔は妻帯者の男がする顔ではない。
(な、なんて反応……!)
――限界だった。
目の前では少年が腰をさすりつつ不満そうにしている。しかしメイサは笑いすぎて溢れた涙を拭くのに忙しい。こんな風に心の底から笑ったのは数年ぶり。――五年ぶりかもしれない。腹筋が痛くて、おかしくなりそうだった。それでも、どうしてだろう、笑うと力がどこからか湧いて来る。
「かわいいわ」
そう言うとさらに少年の頬が膨れる。あまりにかわいすぎた。これは。この動物は一体何。メイサは今度は抱きしめて頭を撫でたいという衝動を必死で堪える。
その少々鋭い眼差しを除けば、外見は殆ど少女と言っていい。でも、中身はしっかりと男の子。まだ男にはほど遠い――成長途中の少年。
少年はメイサが冗談だというと、ようやく落ち着きを取り戻した。それでも腑に落ちない様子で警戒を見せる彼を安心させようと、つい「好きな人がいるし」と言ってしまって、そんな自分に驚いたりもする。どうやら、自分の気持ちをはっきり認めてしまったようだった。ひどく胸の中が爽やかだった。
少年は、名を名乗らない。真名を聞いても当然断られるだろうし(答えてもらっても困るし)と、妥協したのに、通称さえも〈好きな子〉だけにしか教えないと頑に誓っていた。
メイサはもうカーラの言いつけなど守る気はさらさらなかったけれど、個人的興味から尋ねたら、そう言ってあっさり断られた。仕方なくメイサは彼をこう呼んだ。
「〈皇子様〉は記憶を失ったけれど、レグルスに連れられてやって来たって訳よね?」
「うん」
(それって、ちょっとひどくない?)
あまり反省の色のない顔で頷く少年を見ながら、メイサはスピカに少し同情した。どうも、話を聞く限りはレグルスへの申し訳なさ、夫としての義務感、もしくは責任感からここにやって来ているらしい。愛情ではなくて。スピカはこの少年に心も体も、全て渡してしまっているだろうに。だからこそ、ルティを拒んで、冬の夜中を死ぬ想いで逃げたのだろうに。
記憶を失ったのはスピカのせいに間違いない。彼女の力はそれだけ強力だったということだろう。だから、全部が全部彼のせいではないにしろ……なんだか腑に落ちない。スピカの痛々しさと比べて随分と能天気そうなこの雰囲気がまたそれを助長する。そんなに簡単に忘れないでよとスピカの代わりに思う。いつだって傷つくのは女ばかり。メイサは不満に思う。
少年はシトゥラについて、ルティについて、色々尋ねてきた。
この部屋のせいなのか。それとも、この少年のこの目がそうさせるのか。自分でも不思議なくらいに素直に答えていた。問われもしないことまで、答えていた。
(そういえば――)
メイサは、この目は〈闇の眼〉と呼ばれることを思い出す。人の心を惑わす瞳。その闇の中に引きずり込む力。シトゥラの血を引くものには耐性があると言っていたけれど、それが本当なのかは、書から学んだだけのメイサには分からない。でも、それはおそらく関係ないと思った。メイサには少年が、あんな風に変わる前のルティに見えていただけだった。
(私、五年間、ずっと話をしたかったのかもしれない、――ルティと)
そう思った。