少年はさらりと聞いてはいけないことを聞く。シトゥラの人間であれば誰も口に出来ない問いを。
「一応はね。ただ、全く役に立たないの。だって、必死で集中して名前とか家族とかそういう当たり障りの無い情報を読む、そのくらいの力しかないんだもの。そんなの普通の間者でも出来るわ」
今までメイサを苦しめ続けた、誰にも言えなかったことなのに、こんな風にあっさり言える。ルティの前では卑屈にならずにすんでいたのを思い出す。
「――だけど、スピカは違う。あの子は、ラナの力を遥かに超えるものを持っているわ。おばあさまに聞いたけれど、自分で読みたいと意識しなくても、触るだけで その人の事が分かるなんて……ぞっとする。おばあさまや、ルティが欲しがるのも無理は無いの。あの子、今継承権争いの真っ最中だから。きっと敵陣に忍ばせるつもりなんだわ」
カーラは間違いなく。そのために手に入れようとしているのだから。でも、ルティは……もしかしたら嫌がるかもしれない。
「でも、ええと、スピカは王妃にされるって聞いたけど……。それなのにそんな危険なことさせるか?」
「それが?」
「だって……普通、好きだからとかそう言う理由で娶るだろう?」
もぞもぞと、なんだか居心地の悪そうな様子で少年は目を泳がせる。
(ってことは、この子、スピカが好きなの?)
メイサは少々驚いた。てっきり〈スピカ〉が数いるうちの妃の一人なのかと思っていたのだ。じゃあ、話は早いような気がするのだけれど、……でも、そう見えないのはなんで?
悩むけれど、当然答えは出ない。メイサはとりあえず皇子の問いを繰り返してみる。――「好き」だから?
(ルティは……スピカに〈愛〉を求めている?)
なぜだろう。「愛」、その言葉はどうしてもしっくり来なかった。
(違うわ)
「確かに、ルティはスピカを気に入ってる。でも、もしスピカが〈力〉を持っていなければ、気にかけなかったと思うわ。力が利用できるからこそ、側に置こうとしているの」
期待が半分くらい混じっているような気もしたけれど、半分は真実に思えた。少なくとも、今の彼に〈愛〉などという言葉は似合わない。
彼が求めているもの――メイサが知る限りは、それは昔から今に至っても一つのように思えた。それは〈力〉だった。今、メイサが言った通りに。
そうだ。彼は愛を求めてはいない。今は、もう。
「彼は、……本当の意味で人を愛することなんて出来ないんじゃないかしら」
そんな風に呟きながらメイサは彼の置かれた境遇を思い返した。
やんちゃな男の子のはずだった。だけどふとしたとき、どこか寂しそうにしていた。それは言葉少なに、母親のことを語るとき、父のことを語るとき――
今考えると王宮に居場所が無かったのだろう。王子という身分であるのに、こんな王都から五日もかかる
そして結局、彼の両親も、シトゥラに任せっきりで、彼を利用することしか考えなかった。彼が優秀であれば優秀であるほど、周りは次期王位を期待したし、優秀な手駒として彼を利用した。ジョイアに潜入したころ、彼まだ十歳だった。彼は文句も言わずに行ったけれど、どれだけ寂しかっただろう。
メイサは一方的に支えられていたとそう思っていた。けれど、もしかしたら。あの日、彼女も彼に手ひどく裏切られたけれど、彼もまた裏切られた、そう思ったのかもしれない。
――やっぱり、きっかけは、〈あの夜〉。
彼は〈あの夜〉に変わってしまった、そう考えるしかなかった。それは――……もしかしなくてもメイサのせいなのだろうか。彼女が赦さないから、彼はあのままなのだろうか。でも、彼はメイサの赦しを全く求めていない。じゃあ、メイサは一体どうすればいいのだろう。どうすれば、あの暖かい笑みを取り戻すことが出来るのだろう。
あの夜のことは極力考えないようにしていた。
だけど、浮かんでは消える記憶は、最近の彼の行動と重なって、メイサの胸を焼き続ける。嫌悪感? そうではない。おそらくそれとは逆の。メイサは、〈彼女たち〉の代わりになりたかった。あの夜をやり直したかった。そうすれば彼は変わらなかったかもしれない。
「……君はルティが好きなんだ?」
しばらくぼんやりしていたようだった。急にかけられた声にメイサははっとする。あまりにもはっきりと胸の内を明かされて、唖然とした。
(あれ? な、なんで分かったの? 私、何か口にしてたのかしら)
狼狽え、慌てて表情を取り繕う。いや、そんな訳無い。彼の昔のことを語っただけだったはず。
「あなたって意外に鋭いのね?」
「さすがにそれだけ顔に出てれば……僕にだって分かるよ」
我慢できず、頬を覆う。油断していた。まさか、こんな鈍そうな子供に言い当てられるとは思わなかった。
「――じゃあ、君はスピカが邪魔なんだよね?」
少年は少し考えると確かめるようにそう尋ねた。メイサの言いたいことを先に汲んでいるような、そんな聡さが垣間見えて、またもや驚く。この子はひょっとしたら見た目通りでは無いのかもしれない。
まるでメイサの抱いていた殺意を見抜かれたかに思えた。
(これは……下手な策よりも、正直に言った方がいいのかも)
頭脳戦に自信がある訳ではないのだ。瞬時に作戦を切り替える。
「そうよ。最初はさっさと消そうと思ったわ……。だから、密かに様子探ってたの。でも、彼女見てると、可哀想になってきてね。絶望して、生きていく気力も無いっていうか……ルティにされるがままだし、まるで人形のように抵抗もしないの――」
殺意について追求されると、協力は得られないかもしれない。だから〈今〉はそれがないことを強調したかった。――そう思って、誤摩化すようにそう言った直後だった。明らかに皇子の顔色、顔つきが変わった。
「されるがまま?」
その黒い瞳が凶暴さをたたえる。その豹変ぶりはあまりに唐突で、何の気も使っていなかったメイサは口を固まらせた。よく考えると、妻を寝取られた男に対しては――失言、かもしれない。
(でも、なんで、今ごろ? そんなこと、盗まれたときにいくらでも想像できるでしょうに)
「……覚えてるの? スピカのこと」
痛々しい表情に、恐る恐る尋ねると、
「覚えてない。でも……たまにすごく苦しくなる」
少年は苦しげに胸を押さえながら答えた。
そう言えば、カーラの話を盗み聞きしたときに、消える記憶は……頭に残る記憶だけと聞いたような気がした。メイサは消した経験が無いから分からないけれど、確か、感覚――体に残る記憶は消すことが出来ないと言っていた。
(かわいそう)
急に思い当たる。――この少年が、本気でスピカを好きなのかもしれないという可能性に。
本当は心から欲しているのに、その記憶が丸ごと消えている。心と頭が切り離されている。だからちぐはぐなのかもしれない。そうか。あのかわいそうな王様――〈ラナ〉の代わりに別の娘を充てがわれたラサラス王――と同じ。
今カーラは二十年前と同じことをしようとしていた。スピカの代わりにメイサをこの皇子にあてがおうとしていた。そのことに不思議な縁を感じた。
少しでも慰めになるかもとメイサは付け加える。ともかく、今のところはルティを拒んでるってことくらいは教えてあげないと、この皇子も、スピカもかわいそうだった。
「あのね。これ内緒だったんだけど。スピカ、この屋敷に今は居ないのよ。昨日の夜、逃げちゃって」
「……この雪の中をか!?」
真っ青になる皇子を見て、メイサは慌てた。
(――ああ、言葉が足りなかった!)
「だ、大丈夫。ルティが必死で探してる。あれでも王子だから、兵をたくさん使えるのよ。女の子の足じゃそんなに遠くにも行けないし、すぐに見つかるわ」
少年はそう聞いてようやく落ち着きを取り戻したものの、スピカを思い出した訳ではないようだった。
もしかしたら、より強い刺激を与えれば思い出すかもしれないと、ルティとスピカの結婚のことをちらと言ってみたけれど、彼を余計に混乱させるだけだった。彼は思い出さない。記憶を取り戻す鍵を、メイサは持っていない。
(これでは……この子、スピカを連れて戻ってくれないかもしれない)
メイサは次第に不安になってきた。それでは、どうすればいい。
悩む彼女の前で、――スピカのことが心配なのだろうか、少年は落ち着かない様子で、周りを見回した。
(無駄よ)
逃げ道を探すような様子に、メイサはため息をつく。その音が暖炉の炭が割れる音に掻き消される。
――今日も静かな夜だった。あの冬の夜のような。