4.取り戻したい過去 01

※中盤に陵辱表現があります。苦手な方はご注意ください。


「――ここから出られないかな」

 部屋は冷えきっていた。暖炉の火は落ちてしまい、廊下から僅かに漏れる光だけがほのかに光る。今にも消えそうな弱々しい光だった。
 小さな息づかい。歯がかすかにこすれる音。ルティは震えているようだった。
 メイサがいくら言っても彼はベッドに近寄ろうとしなかったから。

「意地を張らないで一緒に寝ればいいわ。広いのだから、二人くらい余裕よ」
 メイサは頭痛を堪えきれずに、横になったままだった。ずっと薬を飲みつづけていると言うのに、頭痛は治らず、代わりに体が妙に熱かった。熱が出たのかもしれなかった。
「お前は良くても俺はまずい」
 ルティはずっと不機嫌な顔をしたままだった。メイサを励まそうと笑ってくれたあの笑顔は、あの一瞬だけだった。部屋に閉じ込められ、もう数日は経っている気がした。出してもらえるのは一日一度の湯浴みの時だけ。それが何回だったか、もう覚えがない。
 この数日ずっとルティは床で眠り続けていた。そして昨日からメイサは断食をしている。ルティが何か混ぜられてるから食うな、そう言ったのだ。だからひどく空腹だった。
 その上、今日は薪を追加してもらえなかった。床で寝れば下手したら死ぬかもしれないくらいに寒い。昨日、ルティは暖炉から隣の部屋に逃げた。だけどすぐに捕まってまた押し込められた。その罰なのだそうだ。
 それでも彼は諦めていないようだった。さっきも湯浴みで出される機を計って逃げ出した。けれど、しばらくあとに大人しくなって戻ってきた。その後からどうも、様子が変だった。暴力を受けたのかもしれないと思ってメイサが尋ねても、心配するなと繰り返すだけで。何か――迷っているようだった。
「ごほっ」
 ルティが咳き込むのを聞いて、メイサは少し体を起こす。
「ほら、風邪引いちゃってる」
「風邪じゃねえよ。香に咽せたんだ。……くそっ、あのババア。考えもさせない気かよ。あんな条件のむんじゃなかった」
「条件?」
 香――そういわれてみると、何か甘くて辛い香りが漂っているような気がした。大きく吸込むと、一瞬鼻の奥が痺れ、ふわりと意識が溶けそうになる。メイサは今気になったことがなんだったのかもすぐに忘れてしまっていた。
 ルティはイライラしていた。息を吐くたびに呼吸が荒くなっていて、ひどく辛そうだった。やっぱり横になった方がいいと誘うけれど、頑に拒まれた。
 何をそんなに拒むことがあるのか、メイサにはよく分からなかった。どうしたら部屋から出してもらえるのか聞いたら、カーラは『昔みたいに一緒に寝ればいい、数日そうしてれば自然、儀式は終わるからの』――そう言った。メイサはなあんだと思った。随分気が楽になった。ただそれだけなのことで部屋から出してもらえるのならば、さっさとやってしまえばいいと思った。
「ねえ、ルティ」
 メイサは頭痛を堪えて起き上がり、ベッドから降りる。冷たい空気が薄い寝間着にあっという間に染み込んで行くけれど、熱を持った体はすでに寒さを感じない。さっきまで震えていたことも忘れてしまっていた。
「寄るな。――俺は、お前を傷つけたくないんだよ」
「知ってる」
 いつでもそうだったわね、そう思いながら、彼の頤を持ち上げる。茶色の瞳の中、メイサは自分がひどく妖しく微笑んでいるのを見つけた。ルティはメイサとは逆に、ひどく怯えていた。
 メイサは彼の怯えを和らげたくて、かがみ込むと胸の中にその頭を抱え込む。彼の息が当たる部分が異常に熱く感じて、目眩を感じた。大きく息を吸う。香りが身に染み込み、体がふわりと宙に浮いた気がした。ふと目に入った手を取る。触れてみたい、そう思ったのはいつだったろう。筋張った大きな手に自分の小さな手を合わせると、彼が一瞬の躊躇のあと、それを強く握り返した。

 それまでのことをメイサは殆ど覚えていない。
 ただ、突然襲った体を裂くような痛みに急に我に返った。頭の中を覆っていた霧のようなものは、鋭い刃に風穴を開けられて、跡形も無くなった。
「やめて」
 唐突に訪れた恐怖にメイサは泣いた。何が起こっているか分からなかった。違和感に目線を下ろしても、そこにあるのは呑み込まれそうな闇だった。
「――痛い! やだ!」
 掠れた声が何か言うけれど、メイサはもう聞き取れる状態ではなかった。何か、取り返しのつかないことが起こっている、それだけが分かる。
 彼は痛みから逃れようと上に逃げるメイサを押さえつける。開かされた脚の内側に熱い肌が押し付けられた。堪らずメイサは叫ぶ。
「っ――――!」
 その痛みはそうと知らない彼女にとって、暴力以外の何物でもなかった。
 引き裂かれるような痛み。あまりの痛さに声も出ない。メイサはただ泣き咽せび続ける。しかし、動きは止まず、それどころか、より激しさを増した。
 胸を押せば、手首を攫われ、足をばたつかせれば、腰ごと押さえつけられた。
 いつの間に、こんなに力の差が出来たのか、メイサはただただ口惜しい。一方的なその行為を赦せなかった。
(どうして)
 いつだってルティはメイサに優しかったはずなのに。メイサが喜ぶように心を砕いてくれていたのに。
(こんなのは、いや)

 それはどのくらいの時間だったのか。痛みはいつの間にか消えていたけれど、既に心は引き裂かれてずたずただった。疲れ果て、抵抗ももう出来ず、ただ体が人形のように揺さぶられる。
 暖かいのか、寒いのか、熱いのか、冷たいのか。
 何も感じない。感覚は伝わって来ない。衝撃も、熱も、どこか切り離されていた。自分のことじゃないようだった。
 やがて小さなうめき声のあと、体が離れた。メイサを包んでいた圧迫感が消え、ようやく嗚咽以外の声が出るようになる。

「――――嘘つき」
 そんな言葉がまず溢れた。
(傷つけないって、そう言ったのに)
 メイサは力を振り絞った。自分の知る限りの言葉で、泣きながら詰り続けた。しかし、ルティは一言も発さなかった。謝罪も、言い訳も、メイサが望むことは一切しなかった。
 やがて、メイサは疲れ果てて眠り、ルティは部屋を去った。彼は最後まで何も言わなかった。
 体はこれ以上無いくらいに近づいたというのに、彼女と彼の間の溝は、埋めることが出来ないほどに深くなっていた。


「そうして――閉じ込められているうちに、彼は最後には理性を失ったの」
 メイサは自分の口から溢れる記憶の固まりを人ごとのように聞いていた。一言で言えば、そういうこと。メイサはあのときからずっとそう頑に信じてきた。だけど――
(――違う。そんな単純なことじゃない)
 メイサは自分で言った言葉を自分で否定する。
 五年の月日が彼女の記憶をねじ曲げ、一方的なものにしていた。思い出すことを拒んでいるうちに、その歪みはどんどん大きくなった。今、こうして改めてしっかりと拾い上げた断片を繋げてみれば、あまりにも明らかだった。
 効かなかった頭痛薬、足されなかった薪、薫きしめられた香、それから、彼が呟いた〈条件〉という言葉。
 ――あれはきっとシトゥラの はかりごと だったのだ。彼が悪いのじゃない。彼もまた猫に追いつめられた鼠だったのだと。

(私、なんでこんな話しているのかしら。こんな、さっき知り合ったばかりの子に)
 メイサは不思議に思う。そして彼の瞳を見て原因に思い当たった。
 ああ、『ここから出られないかな』――そう問われたのか。同じ声で、同じ目をして。
 メイサはそれに触発されたらしい。いつの間にか、身の内に微かに残る〈力〉で、この部屋に残る記憶を紐解いていたようだった。
 少年はメイサが語るのを黙って聞いていたのだろう。痛々しい顔をしてメイサを見つめている。差し出された小さな布を見て、メイサは自分が泣いていることに気が付き、驚いた。泣くのも五年ぶりかもしれない。そして、その布はあのときと違って綺麗だったけれど、差し出す仕草が、戸惑いの表情が、どうしても十四のあのときのルティと重なってしょうがない。
(取り戻したい)
 メイサは今までになく強く願った。
 過去に戻れるのなら。あのルティを取り戻して――そして、仲直りをしたかった。あんなこと、無かったことにして――昔みたいに、メイサの支えになって欲しかった。
 でも、それは、来ることの無い未来。メイサはあのときはっきりと彼を拒んだ。そして、一方的に詰った。幼い彼女は、それが当然の権利だと思っていたから。
 でも、ルティが変わってしまったのはあのとき。逃げ場のない彼を絶望の谷に追い落としたのはおそらくメイサの放った言葉だった。あれが原因であるならば、彼はきっと、二度とメイサを抱かないだろう。それどころか、メイサと一切の関わりを持たないかもしれない。彼の目は、そう訴えているように思えて仕方なかった。
 それでも、メイサはもう立ち止まれない気がした。気が付いた。この少年の姿を見て、どうしても取り戻したいと、気が付いてしまった。
 メイサは少年を見つめる。彼はまだ困ったような、でもなぜだか共感するような顔をしていた。
 この部屋に入ってきたときには、利用してやろうと考えていたのに。溜め込んだ過去を話すことで逆に救われてしまったことにメイサは気が付いた。
 包み隠さない裸の心を自分で見れば、本当に欲しいものはあっさりと目に映り、執着に曇っていた眼が晴れれば、いろんなことを繋ぐ根が見えた。
 苦心して見つけた犯人を告げるかのごとく、メイサは呟く。
「――私、おばあさま……というより、シトゥラを許せないの。どうしても」
 そうだった。元凶は、シトゥラ。赦すべきでないのは、ルティではない、シトゥラという闇だった。メイサが傷ついたのも、ルティがあんな風に変わってしまったのも、すべて。クレイルへの依存が断ち切られたからこそ見えてきた事実だった。その点は、あんな風にメイサを切り捨てたカーラにも感謝するべきなのかもしれない。
 メイサはシトゥラに必要とされていない。そして今、メイサもシトゥラを必要としていなかった。
 シトゥラを潰す、そのためには。

 メイサは目の前にいる、相変わらず困った顔をした、少々頼りない様子の少年を見つめる。
(大丈夫かしら、この子)
 いささか不安になるものの、彼をその気にさせなければ、メイサはきっと救われない。メイサは大きな覚悟ともに、その手をとると、少年に心からの協力を申し出た。

「――私がこんな話をしてるのは、あなたに協力したいから。スピカをジョイアに連れて帰って欲しい。なんとしても。彼女さえいなければ、シトゥラはもう力を保つことが出来ず、崩壊するわ」

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2010.05.27