スピカを連れ帰るのが皇子の、スピカを連れ出させるのがメイサの望みだ。そのスピカがいない今、目下打てる手がないため一緒にいる意味もない。隣にいればすぐに声もかけられる。だから止めはしなかったけれど、その妙に逃げ腰の様子にメイサは不安になる。どっしりと構えていればいいものを。
(あーあ、大丈夫かしら)
あの少年は何かが大きく欠落している。それが何かは分からないのだけれど、緊張感? 覇気? そんな感じのもの。記憶を失っているから、そのせいなのかもしれないけれど。ふわふわとしてつかみ所が無い。
確かに見惚れるほどに美しい。けれど、やっぱり愛玩用だ。完璧に恋愛対象外だ。スピカがなぜあの〈子供〉を好きなのかはよく分からなかった。しかもルティとあの少年が並んでいて、あの少年を選ぶというのは有り得ない。――彼女も子供だから? それとも母性本能をくすぐられて、母のような気持ちになっているだけかもしれない。それならば――
「う〜ん……」メイサは唸りながら自分とは全く異なる価値観を理解しようとする。
メイサは目の前から消えた少年の姿を思い浮かべる。瞼に映る彼はやっぱりルティとは大違いで、なぜ彼がルティに見えたのかが不思議でしょうがなかった。十六歳のあの皇子が十四歳のルティ――と考え、漸くなんとか自分を納得させた。
メイサはベッドに横になる。笑ったせいか、泣いたせいか分からないけれど、ようやく本来の自分が自分の中に戻ってきた。そんな気がしていた。
そういえば、どのくらい経ったのだろう。メイサは随分話し込んだような気がしていた。少なくとも一刻や二刻は経っているだろう。ここに入れられたのが夕方だとすると、もう夜にはなっているような気がした。
急に空腹を感じて、侍従に問いかけるけれど、どうも扉の向こうは無人のようだった。珍しい、そう思う。一瞬逃げることを考える。けれど無駄なことはよく知っている。誰かいようがいまいが、どちらにせよこの部屋からは逃げられはしない。
耳を澄ますと、階上が妙に騒がしいような気もした。もしかしてスピカが見つかったのだろうか。見つかったとして、あの少年の様子を見せるのは可哀想だなとメイサは思う。
恋人――それどころか妻であるはずのスピカが散々な目にあっていると言うのに、あんな平気な顔をしているのだから。
(やっぱりスピカは男を見る目が無い)
メイサは心の中で再び断言する。どう考えてもルティの方がいい男だった。顔立ちはさすがに文句のつけようが無いけれど、それ以外は比べるのも馬鹿らしい。
まあ、ライバルは少ないに超したことは無いからいいのだけれど……。スピカがルティを拒んで、あの顔だけのへなちょこを選んだのは嬉しいような、悔しいような。メイサは少し複雑な気分だった。
階段を駆け下りてくる音が聞こえて、メイサは体を起こす。
「ん?」
寒くて、ベッドに横になっていたら、少しうとうとしていたようだった。
『ちょっと離して!』
大騒ぎしている声は少女のもの。
(誰?)
シトゥラの侍女ではなさそうだし。聞き覚えがあるような、無いような。
『あの――ご報告しなくてはいけない事が。カーラ様が……』
いつの間にか侍従も元の配置に付いたのだろう。人が戻っている。
『カーラ様の事など、後回しだ。ルティリクス様がご立腹なのだからな。ともかく、この娘を閉じ込めておけと。王子から二回も脱走を計るなど、なんと無礼な」
憤った声はどうやら侍従長のものらしい。廊下で怒鳴っているのをよく聞くから分かった。
(この娘? だれ? 脱走? ルティって言ってたけれど……)
メイサは、この地下には三つしか部屋が無いことを思い出した。一つはメイサ、二つ目は〈レグルス〉、そして今空いていると思われる部屋には……皇子がいる。
(まずくない?)
冷や汗が流れた。未だ何もしていないことがばれたら、カーラがうるさそうだった。とりあえず〈何か〉したことにしておいて、誤摩化そうと思っていたのに。
こんなことなら口裏だけでもあわせておくべきだったと、慌てて暖炉に駆け寄って、覗き込む。次の瞬間扉が開いて、娘が投げ込まれる。金色の髪が靡き、メイサは目を見開いた。
「出してよ! ねえったら! あたしは、シリウスのところに帰るんだから!!」
扉を激しく叩きながら叫ぶ少女は、スピカだった。
だけど、メイサには別人に見えた。こんな激しさを持っているとは、浴室で見たあの時はとても思えなかった。声も全然違う。張りが有る透き通った声。ルティたちと話している時のくぐもった声とはまるで別のもの。あのあと、彼女に一体何が起きたというのだろう。
「……スピカ?」
聞こえてきた皇子の声が、しかし、彼女をスピカと断定する。その声はひどく震えていた。
振り向いたスピカはその緑灰色の瞳が溢れそうなくらいに目を見開いていた。その輝きはまるで若葉の上で輝く朝露のようだった。――あの時は、確かに〈灰色〉だと思ったのに。
「ほんもの……なの? 夢じゃなくって?」
スピカはぼろぼろと泣いていた。
「シリウス――」
それが皇子の名前なのだろうか。彼女はこの世で一番愛しい言葉を口にするように、甘い声でそう囁くと、一気に彼に抱きついて、その唇を塞ぐ。
はたして、それが彼の呪縛を解く鍵だったのだろうか。
(――え!?)
彼らの唇が触れあった次の瞬間、メイサは、皇子が狂った、と思った。
あれだけお子様だった彼が、急に〈男〉の空気を纏ったのが目に見えたのだ。スピカをかき抱く様は、獰猛な獣のようで、先ほどの彼から言えば、まさに豹変だった。メイサの前では欠片も見せなかったその色気にぎょっと目を剥く。皇子は焦りを隠すことさえ出来ない様子で、そのままスピカを寝台に押し倒し、彼女の服をひどくもどかしそうに脱がし始めた。力が入ったのか花の形をした飾り釦が一つ外れ、かつんと小さな音を立てて床を転がった。それを合図にメイサは飛び退くようにして暖炉を離れる。
(ちょ、ちょっっっっと、何をはじめる気!?)
そう問いつつも、もう答は明らか。メイサはさっき自分で言った言葉を思い出す。男と女が密室ですることは一つしかない。しかし――。彼女は心の中で絶叫する。
(――っていうか、私は無視なの!?)
それ以上二人の間に言葉は無い。代わりに耳に届くのは、衣擦れの音。次第に荒くなる息づかい。何が起こっているのか、すぐに分かってしまうのが悲しい。メイサは散々盗み聞きをしたせいで、気配を読むのに長けすぎていた。壁一枚あったとしても分かるというのに、今、その壁には暖炉という大きな穴があいていて――つまりは、仕切りがあるというだけの、ほぼ同室状態。つまり密室ではない。――密室ではないのだ!
メイサは壁際まで最大限の距離をとって耳を塞いだ。
(ほ、本気で聞きたくないんだけど! ねぇ! そこの大バカ皇子!)
――しかし、暖炉からはなんだか濃厚な空気が流れ込んでくる。息も止めようかと思った。
メイサは塞いでも漏れ聞こえて来る微かな物音から気を逸らそうと必死になる。
(ああ、もう、どうしてこんなことになるのよ! 私こんな役回りばっかりじゃない!?)
そう自分の置かれた境遇を呪いつつ、彼の境遇にもふと思いを馳せ、そして、直後ぐったり肩を落とす。
(そういえば――し、
つまりは、そのスピカを取り戻せば、その続きというのは至極当然かもしれない。隣の部屋の少年は、どうも、メイサの存在も――それどころか今がどういう時なのか、ここがどこなのかさえもすっかり忘れてしまったようだった。