壁の向こうで行われていた情事はどのくらいの時間だったのかは分からないけれど(あの焦り具合から言えばそんなに長いとも思えないけれど)、メイサにとってはひどく長く感じられた。放っておいたらいつまでも続けそうな気配がしていたので、中断に――そんな場合じゃないのに――一瞬喜んでしまった。
どれだけ、「そんなことしてる場合じゃないでしょ!」と飛び込もうと思ったか知れない。でも……さすがに無理だった。壁に『絶対に邪魔するな』みたいな文字が描かれているかに見えていたし、まず、一応メイサもうら若き乙女なのだ。確実に絡み合っている男女に割り込む勇気はない。目にすれば間違いなく悪夢を見そうだった。
(やっぱり馬鹿だわ、この子)
メイサは暖炉の向こう、沈み込んだ皇子を覗き込んで思う。あんな風に悠長にしてるから。だからスピカはまた
スピカは、手違いに気が付いたルティに再び連れ去られた。どうもカーラとルティの思惑は、ずれていたようだ。彼はカーラの単独行動に気が付き、計画が台無しだと、珍しく火のように怒っていた。そして、腹いせのように今度は皇子の目の前でスピカを攫った。
『王都に着いたら、すぐに正式に俺の妃として発表するつもりだ。……もう誰も手出しが出来ないようにね』そう、はっきりと自分の勝利を宣言して。
皇子は一人部屋に残されて、拘束されていた。
暖炉をくぐると、小さくなった影が僅かに動く。
「まあったく………何してるのよ。……二人して悠長なんだから。びっくりしちゃう」
メイサだってこの結果にはやりきれない気持ちでいっぱいだった。二人の愚かさに呆れていたし、やっぱり何がなんでも止めれば良かったのかもと後悔もした。でもあの時止めたからといって、何か変わっただろうか。二人を逃がす手段はあっただろうか。メイサには分からなかった。
でも、まだ間に合う。この皇子がメイサに残された唯一の希望だった。だから沈んだ彼に元気を出してもらいたくて、立ち上がってもらいたくて、少しでも励まそうと軽口を叩いた。馬鹿ね、そう続けようとした。だけど、メイサを見上げた皇子の顔を見て、――止めた。
(ああ、なんだ)
メイサは、今のは儀式だったんだと思った。皇子が皇子を取り戻し、スピカがスピカを取り戻す、そんな儀式。
皇子は、さっきとは全く違う顔をしていた。彼の顔に浮かんでいるのは、確かに本物の焦躁。自分の無力を呪う、〈男〉の顔をしていた。
(そっか、この子……スピカがいるからこそ)
彼に欠けていたと思っていたものは――スピカだった。そうして、スピカのあの美しい瞳を思い出す。――スピカに欠けていたのも、またこの皇子だ。
そのことに気が付くと、じわと胸が熱くなるのを感じた。
「情けないと思ってるよ、自分でも」
縄を解きながら見ると、縛られた手首がひどく傷ついている。なんとか抜けようと無理をしたらしい。美しい肌が台無しだった。
皇子がその漆黒の瞳でじっとメイサを見つめる。男の目だった。胸が跳ねるのを感じて慌てて誤摩化す。これでは、かなり調子が狂う。そうだ、一言文句を言っておかないと。
メイサは持っていた布で傷口を縛りながら呟く。
「……声、丸聞こえだったんだけど……。私が隣に居ることすっかり忘れてたでしょう?」
皇子は初めて気が付いた、というような顔をした。直後、真っ赤になって、もとの子供の顔に戻った。その目が「どこからどこまで聞いたんだ」と問うので、「全部」と答えておく。他に物音のしない部屋なのだ。耳を塞いでも塞ぎきれなかった。ほんっと勘弁して欲しい。思わずそう本音を零すと、少年はとうとう男から愛玩用の犬に戻って項垂れる。
あまりに可哀想な様子に、メイサはそっと手を伸ばす。
「でもちょっと見直しちゃった。……本気なのね、彼女のこと」
「――ああ」
真っ直ぐな目が眩しい。スピカを取り戻した彼は、ひどく魅力的に思えた。なるほど、この顔をする皇子ならば、――スピカが惚れてもおかしくないのかもしれない。
『僕は、君以外と、こんなこと、したくない』
聞こえてきた声を思い出す。彼は確かにそう言った。そしてその言葉の通り、スピカだけを愛する覚悟を持っていた。メイサはそんな風に愛されているスピカが心底羨ましかった。でもそれは前感じていたどろどろした妬みとは違う、別の感情。自分も同じものを手に入れたいと純粋に望んだ。ルティにこの二人を引き裂かせたくない、そう思った。
「協力するわ」
皇子はメイサがそう言っても納得できない様子だった。今にも蹴破ろうと、扉を睨んでいるけれど、この扉は二重になっていてそうそう破れるものでないことはよく知っていた。
作戦を伝える。この地下から抜け出す方法はおそらく一つ。メイサが屋敷に詳しいからこそ知っている道が一つだけあった。
*
部屋の隅に据えてあった紙に走り書きをすると扉を叩く。
「ちょっと! いい加減ここから出して! あのガキ、まったくやる気無いんだから、もう無駄よ! まったく……あんな小娘のどこがいいのよっ!! 失礼しちゃう!」
扉の向こうに叫ぶ言葉は、半分以上本心だった。
侍従が億劫そうに扉を開く。メイサのことなど構っていられないのだろう。
「お腹が空いたのよ! あと寒いし、頭が痛いの。早く出しなさい!」
一応、この家の長姫だ。スピカがここにやって来てからというものの、扱いがひどくなったとはいえ、強く出れば無下には扱えないはずだった。なにより、今ルティとカーラが揉めている。彼らとしてもメイサなどには構っていられないはずだった。
読み通りにあっさりと部屋から出され、メイサはふらつくふりをしてかがみ込むと、ある部屋の扉の下に紙を滑り込ませる。
「だいじょうぶですか?」
「いつもの頭痛よ。薬をちょうだい」
メイサがそう言うと、侍従は侍女を呼びつけた。
〈レグルス〉――彼が〈ラナ〉と共にこのシトゥラにやって来たのは、およそ十七年前。戻ってきた彼女たちが閉じ込められたのはやはりこの部屋だったはず。他に人を監禁できる部屋は見当たらないのだから。あの部屋は牢の役割を十分に果たしていた。――じゃあ、どうやって彼女はこの家から再度逃げ出せたのか。
メイサは不思議だった。自分が閉じ込められたから余計に不思議だった。だから、調べたのだ。そして知った。
今〈レグルス〉が捕らえられている部屋の暖炉だけは、そのまま地上に繋がっている。メイサは家の平面図から、あの部屋だけは上に部屋が無いことを知っていた。おそらく中庭に出るはず。中庭に網をかけられた空洞がぽつんとあるのをメイサは散歩のときによく見かけた。なんだろうと思っていたけれど、あるときそこから煙が出ていたのだ。
メイサが閉じ込められた部屋の暖炉からは、途中が狭くなって抜けられなかったけれど、おそらくあの空洞の大きさを考えれば、抜け出せるはず。なにより、昔、彼らが逃げ出したことがその答えになっている。
〈レグルス〉が逃げ出さないのは、皇子があの部屋に閉じ込められているからか。それか、出口に網がかけられているからかもしれない。
大人は散々に言うけれど、メイサは話に聞く〈レグルス〉にほのかな憧れを抱いていた。まるで絵本に出て来る騎士そのものだと思ったのだ。本人に会えるのならば、会ってみたい。たとえ今回彼が助け出すのが〈黒髪のお姫様〉だとしても。
メイサは真夜中の中庭を彷徨う。いつも通りの散歩には誰も文句を言わなかった。
空洞にはやはり網がかけられていた。メイサは覗き込んだ光景に目を見張る。周りに注意しながら、重たいそれを僅かにずらすと、金色の髪が現れた。
星明かりに光る瞳は緑灰色をしていた。――その色はスピカの色。しかし、厳つい顔は娘とあまりにも似ていなくて、メイサは少し笑った。
〈レグルス〉はまずメイサの姿に驚いたようだった。ぽつりと呟いた「目元が似ている」。その言葉が「誰と」なのかは分からなかったけれど、話している暇はない。彼もそれは分かっているようだった。
「――武器は北の倉庫の中」
メイサは一言呟くと、彼の脇をすり抜けて散歩を続けた。
レグルスがメイサの思っているような人物であるならば――それだけでうまく行くはずだった。
(うまくいくかしら)
階段の上から階下を覗き込む。中央に延びる当主への部屋へ向かう廊下の途中、地下へ降りる階段が見えた。暗く、地に飲まれそうな闇の色。あの皇子の髪の色と一緒の。
部屋の鍵は、特に凝ったものではない。外から金具を引っ掛けただけのもの。閉じ込めるだけに造ったものだから簡素なものだった。レグルスがどれほどの腕前かは知らないけれど、昔ラナを連れて逃げ出し、今は皇子の護衛を一人で務めるほどなのだ。相手が相当な腕前でない限りは見張りくらいはなんてこと無いはずだった。あの場ではそう思ったものの、後から急に気になり出したのだ。
(それにしても……)
簡単に絆されてしまった自分がおかしかった。それも仕方ないのかもしれない。メイサの周りにいる人間は誰も彼も生気が抜けている。皆が皆カーラの言うことを聞くだけの人形のようだった。メイサはそのカーラとルティ以外に血が通っていると感じた人間に久々に会った。それも一度に三人も。
そちら側に行ってみたい、メイサは彼らの住んでいる、色の着いた世界に強く誘われている気がした。逃げ出したい、というのとは少し違う。いや、少しはそんな想いも混じっているんだろうと思う。メイサはカーラに切り捨てられたのだから。だけど、『外』に広がる世界に触れて思った。その引力はメイサが思っていた以上のものだった。
メイサは彼らに絵本の騎士を見ているのかもしれないと思った。メイサの騎士はメイサを救ってくれなかったけれど、それはメイサがただ待っていたからかもしれない。
じっと見ていると、やがて二つの黒い影が地下から現れた。メイサは思わずびくりと体を震わせて周りを見回す。皇子はその色のせいで目立たない、けれどレグルスが目立ちすぎた。ハラハラして見下ろすメイサに後ろから声がかかる。
「メイサ様」
「な、なにっ!?」
悲鳴のような声が上がって、自分がびっくりした。声をかけた侍従もそのただならぬ様子に眉をひそめ、そしてメイサの肩越しに階下の人影に気が付く。侍従の目が見開く。「あれは――!」
カーラの部屋に走って行く侍従を見て、メイサは叫んだ。
「はやく! 私が時間を稼ぐから。……王都の方向はここからまっすぐに南よ!」
皇子がはっと顔を上げて頷いた。彼に向かって、裏口の方向を示す。
「きゃっ」
直後侍従がメイサを捕らえ、苦しみながらも振り向くと、侍従の陰からカーラが寝間着のまま現れた。
「こんの、恥知らずが!」
一瞬で頬が熱くなる。――殴られたのだ。産まれて初めて受ける衝撃に思わず膝が折れる。しゃがみ込んで呆然としていたら、カーラは彼女の髪をわしづかみにして、持ち上げる。
「あの皇子に情でも移ったのかい!? 情けない! ――二度と表に出れなくしてやるよ!」
「ち、が」
思わず言い訳をしようと口を開く。けれど、祖母の手に握られたナイフに口が固まった。
(ころされる)
メイサはそう思った。だって、メイサは〈役立たず〉だ。食い扶持を減らすのに一番の方法、それは――いなくなること。いつかそうなるのではないかと心の隅で恐れていた。
叔父――いや、父が必死で阻止しているけれど、いつか――そう、スピカが手に入れば、メイサは用済み。それどころか、プライドだけが高い、扱いにくい娘はすでに〈邪魔〉な存在なのだ。
メイサが隠された理由は結局、――いつ誰かに成り代わっても構わないように。メイサが消えても誰も気にしないように。
今この瞬間、メイサはシトゥラから完全に切り離されていた。そう思った。
(ああ、ろくなもんじゃないわ、私の人生)
目映かった外を見ること無く、命は閉じる。メイサはナイフの切っ先を見ていられず、目を強くつぶる。
(お願い。上手く逃げて。そして――ルティを助けて)
急激に薄まる意識の中、必死で祈った。
なぜか今、メイサはルティの幸せを彼らに託していた。皇子が助けるのはスピカなのに。彼らがもつ光がルティを救ってくれるような気がしていた。