昔はたいそう美しかったその女もかつての美貌は陰り、今はその茶色の目の端に僅かな名残を残すだけ。シトゥラの当主を長年勤め上げるうちに、心はすさみ切っていた。普通老年になる前に代替わりをするはずのシトゥラ家には、まだ次の当主となる、クレイルを継げる娘がいない。その役目を負ったラナは逃げてしまったから。
誰かがやらねばならなかった。この家を存続させるために。かつての輝きを取り戻すために。それが彼女の使命だった。
老婆の名はカーラ。彼女は目の前の青年を見下ろす。赤い髪の青年は老婆より頭二つほど背が高いが、今はその赤い髪がよく見下ろせる。彼は足に怪我をして椅子に座っていた。家に運び込まれた時におびただしく流れていた血が脳裏に浮かぶ。その傷は昨日のうちに縫い合わせられたが、傷が開くといけないので安静にしているのだ。
『ルティリクス殿下が怪我を負われ、――スピカはジョイアの皇子に連れ戻されました』
慌てふためいた侍従が持ち込んだ報告を信じられなかった。その姿を目にするまで想像さえ出来なかった。――この孫が失敗するなどと、カーラは思ってもみなかったのだ。
「随分どじを踏んだものよの。ルティリクスよ。あの皇子にやられたのか?」
男は『皇子』の響きにふて腐れる。どうも彼の皇子とはそりが合わないらしいことは受け取っていた報告から読み取れた。豊かな隣国で大切に育てられた唯一無二の存在。貧しい国で替わりはいくらでも居ると投げ打たれた彼とあまりに違う境遇は、その大地の色の瞳にどう映ったのか。
そう興味深く観察するカーラの前で、彼は静かに首を横に振り、焔色の前髪を揺らす。
「いや、――スピカにやられた」
「ほう」
(――さすがはラナの娘)
彼女は感心した声を上げる。
「油断したのか」
「まあな。シリウスとレグルスにしか気をやってなかった。……よく思い返せば、レグルスの娘だ。見かけに騙されたな。それなりの使い手だということを忘れていた」
カーラはルティリクスが口にした天敵〈レグルス〉の響きにムッとした。その様子に彼は肩をすくめて、そのままその話は終わりとばかりに口を閉ざす。皇子を逃がしたのは誰かと尋ねない。〈犯人〉に重い処分を想像していたカーラは、彼女の行動――皇子にメイサをあてがったこと――を聞きつけて部屋に飛び込んできた彼の様子を思い出す。
――「〈約束〉を忘れたのか」
スピカを連れ、王都へ向かう前のことだった。出発前の僅かな時間を縫ってやってきたルティリクスは、彼にしては珍しくひどく憤っていた。
その髪と同じ色の熱い怒りを纏い、部屋に入るなりカーラを睨みつけた。反抗的な目からは、『お前の思い通りにはならない』という意志が垣間見える。昔、彼がそんな目をしていた頃を懐かしく思い出す。この孫の魅力的な顔の一つだった。問われたことに思い当たることがあるが、あえてとぼけた。
「約束? なんのことだ?」
「――アイツの儀式はもうしないと」
一瞬口ごもる彼をカーラは見逃さずににやりと笑う。名を出せないくらいには鍵がかかっていることを知り安心する。
「ああ、何かと思えば。メイサのことか。――皇子の相手は
ルティリクスは眉を上げる。初耳だと言うように。それはそうだ、今初めて言うのだから。
実のところは、あの娘にはもともと儀式など必要なかった。集中しなければ読めない、あの程度の力ならば、記憶が壊れることなどないのだから。なぜ、あえて儀式を行ったのかといえば、慣例に加え――壊すべきものを壊すため。
「ああ、言ってなかったかの」
「聞いていない」
刺のような声を軽く流すとカーラは続けた。
「まあ、そんな訳で、試しに実践に出てもらったのだ。なにせ突然のお客様だ。屋敷の中にあの皇子のもてなしを出来る娘はあれ以外にいなかったしの。あやつにはシトゥラの娘として働いてもらったまで。〈クレイル〉となるならば、皇子の相手ぐらいは当然だからの」
「……クレイル?」
もちろん後半は真っ赤な嘘だった。スピカが手に入れば、予備であるメイサはクレイルには相応しくない。しかし、この男に、メイサが何を欲しがっているのかを再認識させる必要があった。
「そうだ。クレイルだよ。メイサの幼い頃からの望みだ。どれほど欲しがっているかは知っているだろう? ――あやつはクレイルに相応しくありたくて、張り切って部屋に入ったんだ」
じっくりと彼の傷跡――カーラが昔つけた傷だ――に塩を塗り込んだ。そうして反応を確かめる。どうもこの態度は怪しい。傷が乾いているかどうか。痛みを感じるようであれば……直ちに処置が必要だった。
じっと見つめる。答えはないが、茶色の瞳が僅かに翳っているのをカーラは逃さない。彼の抱えている怒りが何に対するものなのかを見極めたかった。契約の不履行に対して? それとも――
穴の中に逃れようとする鼠の尻尾を掴もうと、再び手を伸ばす。
「それにしても麗しい皇子だった。メイサも楽しい夜だったであろうよ。――うぬ? なにか文句でもあるか?」
カーラは待ち構える。しかし、
「――別に、ないね」
赤い獣は牙を隠し、カーラは拍子抜けする。追いつめたつもりが、なぜか寸ででするりと逃げられた。
勘違いだろうか。それとも何か間違ったのだろうかとやり取りを反芻するカーラの前で、ルティリクスは長い前髪の下に瞳を隠す。一瞬の後、女ならば誰もが見惚れるような笑顔を浮かべ、いつの間にか体に纏った怒りも、瞳に浮かんだ影もを消していた。
*
カーラは今は傷を負った赤い獣を見下ろす。赤い髪に彩られた父親にそっくりの顔立ちの中で、母親そっくりの苛烈な瞳が印象的だった。その茶色の瞳が強く輝くところを見る度に、カーラはいつもひやりとする。傷のせいで熱が出てきたのか、今はその目の力がないが。
(……薬が切れてきた頃だと思うがの)
もう五年。娘の方はその傾向があった。この間戒めが解かれそうになっているのをカーラは見つけ、すぐさま釘を刺したのだ。もし、今回皇子の相手を断るようであれば……手遅れだったから、カーラは孫娘を処分せずにすむことにほっとしたというのに。終わってみればより悪い結果が出てしまったようだった。
あの皇子の射た矢に阻まれて頭を冷やしたものの、娘のあまりのふがいなさに一瞬殺意が湧いたことは否定しない。
籠絡するどころか、逆に相手に絆されるなど、シトゥラの娘にはあってはならないこと。しかもクレイル候補の娘がだ。分家にも示しがつかない。こういうものは当主として早めに対処する必要がある。
(それにしても、いつの間にか嘘がひどく上手くなったものだ。それもシトゥラの血かの)
カーラはどうしてもルティリクスが得意の嘘で何か隠しているような気がしてならなかった。
この大きな鼠は、体の割にすばしこくて、しかも隠れるのが上手くて、なかなかしっぽをつかませない。だからこそ追う甲斐もあるのだが。
カーラはため息をつく。
(捕まえた際には……せいぜいいたぶって、その後は籠の中で可愛がってやろうかの)
それが、飼われるものの正しい姿。カーラは思わずくっと息が漏れそうになるのを堪える。そして一息で言った。
「ところでの。皇子を逃がしたのはメイサだ」
「――あぁ」
いきなりの報告に、僅かに間ができる。顔を覗き込むが、そこには表情は無い。
「この件に関してはおぬしが責任者だ。処罰はどうするべきか聞いておこうと思っての」
「罰……ね」
彼がもし甘い処罰で庇おうが、もうすでにどうするかは決めているのだが。シトゥラにはこれ以上役立たずは飼えない。しかも金を使うばかりの本家の娘であれば余計にだ。そんな娘には処罰と称して、別の使い道がある。
(さあ、どうでる? 今度こそしっぽをつかませるか?)
期待してにやりと笑うカーラに、しかし、ルティリクスはにやりと魅惑的な笑顔を返した。まるで、この時を待っていたかのように嬉しそうに。だからカーラは、彼がその後冷たい声で下した命令を聞き間違えかと思った。
「あいつを――シトゥラから〈追放〉しろ」
目を見開く。それは、カーラと同じくクレイルを己の使命としているメイサにとっては、死と同じくらいに残酷な罰。もし、彼がメイサを大事に思っているのならば、確実に避けるであろう罰だ。
まずあの娘は、籠の鳥。決して一人で生きていけない娘だ。シトゥラという温室から放り出せば、あっという間にのたれ死ぬのが明らかだった。
彼が言う追放という罰。それは――カーラが用意していた罰が甘く思えるくらいのもの。どうも彼女は抱いている疑惑を勘違いと認めざるを得ないようだった。