メイサは顔に当たる光に、ゆっくりと目を開ける。
(ここは……? ああ、そうか)
目を細める。こんな風に光が当たって眩しくて目が覚めることにも、ようやく慣れてきたところだ。
起き上がって小さな窓を開けて外を見る。中庭では色とりどりの鳥たちがさえずり、朝の訪れを城中に教えている。平和でのどかな、光のある世界。
少し前――あの闇の皇子を逃がす前までは考えもしなかった変化だった。
あのあと、皇子は上手く逃げ仰せたらしい。らしいと言うのは、メイサは気を失って顛末を知らないからだった。気が付いたら、ひどく揺れる馬車の中だった。
あまりの環境の違いにメイサはしばらく本当に死んだと思い込んでいた。あの世に行くには随分辛い想いをしなければいけないのか、自分の罪の重さはそれほどなのか、などと考えていた。メイサは慣れない――それどころか初めての馬車での旅に酔い、ずっと寝込んでいたのだ。
そして、体の痛みや吐き気が現実だと知ったのは、王都にあるシトゥラの別宅について、王妃、そして叔父――未だに父とは呼べない――に会って話を聞いてからだった。メイサは、どこがどうなったのか、いつの間にか王宮で女官として勤めることとなっていた。
カーラは殺すつもりは無く、髪を切り落とすくらいのつもりだったそうだ。でもあの時の目には確かに殺意があったとメイサは思っている。なぜ殺されなかったのかが不思議なくらいだった。
メイサが気を失ったあとすぐに、作戦の失敗が報告されたそうだ。詳しいことは知らないけれど、結果としては皇子にスピカは奪い返され、そしてルティは大けがをして帰ってきたと。命に別状は無いらしいけれど、シトゥラに連れ込まれたときには放心した様子だったと聞く。
それらは明らかにメイサのせいだった。そしてメイサはシトゥラを追放された。当然の罰だ。ことの顛末を知るなり、叔父はメイサの身を案じて気を失ったままの彼女をシトゥラから脱出させたそうだ。そうしないと命が危なかったかもしれないと思ったと言い聞かされた。
宮仕えをするため、急遽メイサは女官としての教育を受けることになった。そしてそれは到着の翌日、教師を別宅に迎えてすぐに始まった。
女官の仕事は多岐に渡ったけれど、大部分でシトゥラの侍女と同様だそうだ。話し相手になったり、身の回りの簡単な世話をしたり。ただ主人が王族というとんでもなく高貴な人間であるだけで。メイサは基本的にはルイザを真似れば良かった。
シャウラ王妃は叔母として、何度かメイサの様子を伺いに別宅にやって来た。彼女とは面識はあるものの、いい思い出はあまり無い。
彼女がシトゥラに来る時は、なぜかいつも泣いている印象があった。メイサには――それは社交辞令なのかもしれない――笑顔を見せてくれた。そして「おばあさまは怖くない?」などと、メイサを気遣ってくれたりもした。
けれど、ルティが目の前に行くと、とたん苦しげに顔を歪め口をつぐんだ。それは小さいときからずっとそうだった。王妃がルティと直接話すことは滅多に無いようだった。彼らがムフリッドにいる短い間でさえ、ルティはいつも他の人間と彼女が話しているところを横で見ているか、それか、彼女の独りごとのような嘆きを聞くか。それだけだった。
なぜ王妃があれだけ息子を疎んじるのかは、当時メイサには分からなかった。メイサの目から見て、ルティはたいそうよく出来た息子だと思っていたから、余計に。王子としての躾だったのかと言われても、何かしっくり来なくて、納得できなかった。
今、メイサは女官としての教育を一通り終え、王宮の一室に居た。まだ勤めは始めていなくて、明日にでも女官に与えられる部屋へ移ることになっている。彼女が直接仕えるのは王妃ではなかったから、その身を隠した状態だった。
隠されるのは慣れているから、特に不都合はなかったが、自慢の赤い髪は今茶色に染められていて、それだけがかなりの不満だった。与えられた服が地味な茶色のせいで、余計にぱっとしない気がしていたのだ。女官の制服は特に決まっていないから、動きやすくあれば、どんなものでも構わないというのに。誰が用意したのか――文句を言うつもりはないが、メイサに与えられた仕事を考えると着飾るのが当然だし、効率が悪い気がした。
古めかしい長椅子に腰掛けた麗しい女性を見つめる。硝子窓はテラスに置かれた鉢植えの植物を彼女ごと切り取っていた。彼女は手入れされた木々をその背に背負い、窓枠に収められる。まるで一枚の絵のようだった。その美しさにメイサはため息をつくと思った。なんて似ているんだろう。――スピカに。
メイサは、ルティにとってスピカが特別なのはこのせいなのではないかと密かに思っていた。スピカに母親の影を求めているのではないかと。
色と印象があまりに違ったのですぐには思い当たらなかったのだけれど、あとでスピカの顔をどこかで見たと思ったのだ。それは王妃の顔だった。
王妃の髪は赤。瞳も茶色で、その色はルティに受け継がれている。
もともと、シトゥラには赤い髪の人間が多いけれど、男に限っては必ずと言っていいほどその特徴的な外見を引き継いでいた。娘には異能、息子には外見が伝わるらしい。カーラの息子である叔父の髪も燃えるように赤いし、このシャウラ王妃の息子であるルティもまた。
スピカには外見が遺伝しなかった代わりに、力が濃く遺伝したのだろうと皆言っていた。メイサはその逆だ。要らぬ外見を濃く受け継いだばかりに、力を受け継げなかったのかもしれない。――メイサにとっては、もうそれはどうでも良いことだったけれど。
「大分慣れたみたいね」
王妃はそう言ってにっこりと笑う。その顔はまるで十代の少女の様で、とてもルティのような大きな息子がいるように思えない。確か歳は三十代後半のはずだと言うのに。
『私ね、あなたのこと人ごとだと思えなくて』
シトゥラの別宅で久々に会った時、この人はそう言ってメイサを労ってくれた。
「籠の鳥――まるで私のようで」
そう歌うように言った。妃まで上り詰めた人間の口から漏れる言葉とはとても思えなかった。
「籠の鳥? 王妃様が――?」
「お母様に逆らえない。それを疑問に思うことも無く生きてきたのでしょう。そして、疑問に思ったときには既に手遅れ」
最初何を言われているのか分からなかった。だけど思い当たることはあった。
メイサは考えることを奪われていた。十四歳のルティが、あのとき『自分の頭で考えろ』、そう言わなければ、自分で何も判断できず、狭い価値観を信じ込んで一生をあの家に捕われて生きたことだろう。そして、何の疑問も感じずに儀式を受けて、その身を犠牲にしつつ国のために働いていたのだろう。自らの幸せを顧みることもなく。
(シャウラ様も、そうだったというの?)
王に嫁ぎ、王子をもうけて。それでも足りないもの――昔は分からなかったけれど、今のメイサには分かるような気がした。
王は……未だに〈ラナ〉を愛している。だけど彼がそのことを知ることは無い。
それはシトゥラの陰謀だった。
当時はまだ王子であったラサラス王は、〈ラナ〉を欲した。どういう経緯で知り合ったかはよく知らないけれど、彼は本気でシトゥラから〈ラナ〉を奪おうとした。
そしてクレイル候補である〈ラナ〉を渡すことが出来なかったシトゥラは、彼女そっくりで既に役立たずと言われていた〈シャウラ〉を代わりに渡すことにした。ラサラス王子は〈ラナ〉の外見だけでなく内面にも惚れていたのだから、ごまかしは難しかった。けれど、〈ラナ〉はその力を使い彼の記憶を消すだけでなく――勘違いをさせたのだ。彼が恋をしていた女性は〈シャウラ〉だと。
まるでこの間の出来事のよう。スピカに記憶を消された皇子とメイサの関係に似ていた。カーラはメイサにシャウラの時と同じことを指示したのだ――皇子はその悲劇を身に受けることは無かったけれど。
そして今もまだ、失った〈ラナ〉の代わりに王妃は愛されている。王は彼女を〈自分の恋をした女性〉だと信じている。それはシトゥラの王に対する裏切りだった。
ルティは歪な愛の元に産まれた子供だった。メイサと同じ、愛のない、子供。
そして決して口にはしないけれど、それを苦しんでいた。メイサもルティも似たような傷を抱えていた。
王妃がルティを可愛がれないのはおそらくそんな事情がどこかに絡んでいるのではないかと思う。そう知ってしまえば、メイサは彼女を責めることは出来なかった。