5.初仕事 02

「ところで、例の件は進んでいるのかしら」
 メイサは声をかけられてはっとする。閉じこもっていたせいでぼんやりする癖がついている、そう言ったのはこの王妃だった。気づいた彼女に「しっかりなさい」と注意され、慌てて背筋を伸ばした。
「はい。そろそろの予定です。お二方が、王宮に足を向けられ次第とお聞きしましたので。いつでも良いように準備を進めています」
「大変かもしれないけれど……頑張ってね。――あなたは自分のしたことを償わなければならない。うまくやれば、また家に戻れるわ」
「お気遣いを本当にありがとうございます。頑張ります」
 メイサが壊したものは自分が思っていた以上に大きなものだった。スピカを失ったシトゥラ――主にカーラ――は怒り狂っている。家を追放され、行く当てのない彼女を拾ってくれたのが王妃であるということがメイサには今だよく分からないのだけれど、きっと叔父が絡んでいるのだろう。王妃に問うたら「いろんな人にいろんなことを頼まれてね。それに私も叔母としてあなたを放っておけないし。ここに落ち着いたのは苦肉の策なの」と曖昧に答えられたのだ。いろんなひと――メイサのことを気にかけてくれる人間は、もう叔父一人しか居なかったはずなのに。不思議だった。

 そして、メイサに与えられた仕事。それは――
 彼女は、王妃に断って隣の自分に与えられた小さな部屋――普段は密談用となっている――に戻ると、資料を取り出す。それはメイサが仕えることになる主人たちの周辺情報。仕えるといっても――何のことはない。女官として傍に侍っておけば手がつくだろう、そういうこと。寵愛を得て、諜報活動を行うのが目的だ。――だからこそ、メイサは隠されたままなのだ。シトゥラの縁者とばれるわけにはいかない。ばれればルティの陣営の人間と知れてしまうから、情報は得られなくなる。だからこそ特徴的な外見である赤い髪を隠して、身元を偽っての宮仕えとなる。
 メイサはある零落した田舎貴族の娘ということになっていた。その身分をどうやって手に入れたかは、あまり考えたくはないが、今までシトゥラがやって来たことを考えれば想像はできる。
 こういった偽りはこの国では日常茶飯事だそうだ。だから警戒はあって当たり前のこと。信頼していた部下に寝首をかかれるなど過去によくある話だ。今のところメイサにはそこまで求められていないけれど、いざとなればその覚悟もしなければいけない。そもそもこの国の王位は簒奪で若返る。血塗られた玉座に座る王は心休まる時は無い。だからこそ皆一族のみを信じ、大事にするのかもしれない。

 仕事のことを考えると憂鬱だった。だけど、メイサのしたことでルティが窮地に立っている。
 彼は王位継承権を得るために、全てをスピカに賭けていたそうだ。確かに、握手一つで力を発揮できる彼女がいれば――あの光の手があれば――、殆ど警戒されることなく敵陣営の情報を得ることが出来るのだから。その計画を壊したのはメイサ。彼女が生きていたいのならば、彼を王にしなければいけない。メイサはまだ生きていたかった。それにシトゥラのためでなく、ルティのためならば……彼女は役に立ちたいと素直に思えていた。
 メイサに出来ることは少ない。結局、メイサは力を持たないシトゥラの娘――つまりは〈役立たず〉でしかないから。それでもやろうと思った。実践もなしに仕事をこなす自信はあまりなかったけれど、学んだすべてを注ぎ込んで、全力でやるしかないと思っていた。

『通しなさい』
 そう王妃の声がしたかと思うと、隣の部屋に人の気配が増える。あいかわらず耳だけはいいのだ。
 声に反応するのは癖のようになっていた。何気なくいつものように耳をそばだてて、彼女は目を見開いた。
『――あいつを使うってどういうことだ?』
(この声……)
 それはルティの声だった。
(な、なんで)
 ルティがここに来ることはまれなはずだった。わざわざ何の用だろう。決して仲睦まじいと言えない母子なのに。
 王妃の冷たい声が壁を通してメイサの耳に届く。
『怪我をしたと聞いたわ。随分とどじを踏んだのね。傷はどうなの?』
『熱が引かない。が、歩けるようにはなった。のんびりもしてられないしな。それより――どういうことだ』
『あら。血相を変えて……何事かと思えば、メイサのこと? ――あの子、責任を感じてるから、名誉挽回をね』
 メイサは突然出てきた自分の名に飛び跳ねそうになった。
『あいつに出来る訳ないだろう? あいつは……』ルティの声を王妃はぴしゃりと遮る。
『出来るわよ。あの子もシトゥラの娘。しかもクレイル候補よ。――誰よりもそれを誇りに思って生きてきたの。シトゥラで出来る最良の教育を受けてきて、何より群を抜いて美しい。女好きのアステリオンなら、すぐに目を付けて喜んで受け入れるわ。それかあの偏屈なヨルゴスでもいい。あの王子の周りには娘がいないから、逆にハマるかもしれないでしょう?』
『あいつは駄目だ。実践で使えるわけがない』
 それは随分はっきりとした拒絶に聞こえた。お前は要らない、そう言われた気がして、メイサは思わず耳を塞ぐ。しかし、彼女の敏感な耳は小さな声でも聞き逃せなかった。
(もう、それ以上続けないで)
 メイサの祈りも空しく、王妃は珍しく楽しげに問うた。
『なぜ?』
 一瞬間がある。躊躇うような沈黙をルティが破る。
『……アイツは役に立たない。知ってるだろう? アイツがなんで追放処分になったか。まだ他の娘の方がましだ』
『確かに、彼女、すぐに相手に絆されちゃうみたいだものね。あのジョイアの皇子のことといい――惚れっぽいとでも言うのかしら? シトゥラにしては珍しく。でもこれは決定事項なの』
 王妃の声はやはり嬉しそうだった。顔が見えないから本当はどうなのかは分からないけれど、メイサにはそう聞こえた。一体どういう趣味だろう。メイサがここにいることはルティは知らなくとも、彼女は知っているはずなのに。こうして奮起させようとしているのだろうか。しかし、メイサはそういうタイプでもない。どちらかというと受ける打撃の方が大きい。優しい彼女からは考えられない仕打ちにも思えた。
 メイサはただ拳を握りしめて彼らの会話を聞いていた。
 ルティに自分がどう見られているか。はっきりと思い知らされて、目の前が暗くなる。
(役に立たない……)
 分かっていた。分かっていたけれど、そんなはっきりと言わなくてもいいのに。

『話はそれだけ? じゃあ、もう出て行きなさい。あぁ、それから、表から入ってくるのは目立つから、以後は気を付けなさい』
 王妃はいつも通りにルティに冷たく言い放つ。部屋の空気が変わるのを感じてメイサははっとした。
(そういえば……)
 先ほど一瞬王妃が楽しげだと感じたのが不思議だった。昔ルティの前では彼女はあんな風に振る舞うことはなかったというのに。ルティの想いが少しは報われたのだろうか、メイサが知らないうちに母と子は少しは歩み寄れたのだろうか……そうだといい。一瞬そんな風に期待した。
 が――直後、なぜかメイサの目の前で扉が開く。
「!」
 顔を上げたメイサの視界に現れたのは長身の男。茶色の瞳がかち合い、メイサは目を丸くした。
「――――」
 ルティは一瞬口を開きかけたが、結局何かを飲み込むように口を閉ざした。直後、「ああ、お前か」一言そう言うと、何事もなかったかのように扉を閉じる。その後、なんだか楽しげな笑い声とルティが「なんでいるって言わない」と文句を言っているのが聞こえてきたけれど、――聞き耳を立てるどころではなかった。
 メイサは腰が砕けたように、床にしゃがみ込む。隣の喧騒が去っても、しばらくの間、立てなかった。

 彼の瞳をまともに見たのは五年前。
 変わったと思っていた。だけど、さっき真っ直ぐに見た彼の瞳は何も変わっていなかった。彼は今の瞬間、冷たく偽った仮面を外したかに見えた。
 彼はメイサを見た。そしてたとえあんな一言だったとしても、あれはメイサに向けて発せられた言葉だった。
(私、今、無視されなかった。それがこんなにも嬉しいなんて――)
 力が沸き上がってくるのを感じた。メイサはいつの間にか立ち上がって、部屋を飛び出していた。

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2010.07.07