人気のない廊下が続く先、ステンドグラスに赤々と照らされた大きな背中が端に見えた。彼は左足を少し引きずっている。それなのにメイサより随分と歩みが早かった。追いつけない。
「待って!」
自分の大声など初めて聞くかもしれない。メイサは広々とした廊下に響き渡る自分の声を聞いていた。
赤い髪の人影が歩みを止め、ゆっくりと振り返る。髪の色が余計に鮮やかに見える。そう思って観察すると、彼が纏っているのは意匠を凝らした刺繍が縫い付けられた華やかな茶色の服。その色はメイサの纏っている色と殆ど変わらないのに、彼が着るとなぜかひどく洒落ていた。おそらく生地が違うのだろう。ムフリッドでは見たことのないような上質の服だ。――その高貴な身に相応しく。
そんな想いがふと頭に浮かんで、彼は王子だったとメイサは今さらのように思い出した。
「なに?」
声は冷たい。他の女の子にはこんな声を出さない彼なのに。メイサは胸が痛むのを堪えながら駆け寄ると、先ほどよりは声を抑えて言う。
「ごめんなさい」
ルティは眉をひそめる。何を言われているのか分からないというような顔。
「……なにが?」
「お、お祖母様から聞いてないの? えっと、ジョイアの皇子を逃がしたのが……」
「――シリウスを逃がしたのはお前って話?」
「え、ええ。計画を台無しにしてごめんなさい。あなたの継承権争いの足を引っ張るつもりじゃなかったの」
ルティに謝ったことなどあっただろうか。思い返してもそんな記憶は見つからなかった。だからなのか、どんな顔で言っていいのかも分からないままに、でも真剣に謝った。
頬は強ばる。口が自分の口でないようだわ――そう思いつつメイサは一息で言った。彼はさすがに不愉快そうに髪をかきあげる。しかしすぐに表情のない顔に戻った。
「お前は……そんなにクレイルが欲しかったのか? それでシリウスと?」
メイサは黙って頷く。確かにクレイルは欲しかったし、さすがにシトゥラを潰そうとしたとは言えなかった。メイサの返事に、ルティは不快そうなため息をつく。どうやらひどく呆れていて、そして怒っている。彼が壊されたものを考えると、無理もなかった。
居たたまれず、彼女がルティがさっき引きずっていた左足を見下ろすと「それ皇子にやられたの?」と問う。
ルティはさらにうんざりと息をつく。
「これか――これはスピカにやられたんだ」
メイサは思わず「え?」と大きく呟いた。
(スピカが? あのか弱そうな娘が?)
そう顔に出ていたのだろう。「アイツは見かけに寄らず過激なんだよ」ルティはそう言いながら頷く。
「スピカに逃げられたのは、俺の落ち度だ。お前が気にすることもない。まずスピカの行動を読めなかった俺が悪い。あの皇子とレグルスと、……ババアとお前の行動を読めなかったのも、全部な」
(ババア、ですって)
メイサはいつの間にか彼の口元を見つめていた。くっきりと刻まれた微かに甘い形の唇を。ババア――その言葉で五年前の彼がメイサの中に一気に蘇っていた。
(ああ、私、今、ルティと話してる)
急に昔を取り戻したような気分になる。しかし過去に心を飛ばしかけたメイサに、ルティは命令した。
「お前――母上に何か指示されても無視しろ」
「え?」
「どうせ、さっきのは聞いてたんだろ?」ルティは鋭く問う。「盗み聞きはお前の得意技だ」
「――ええ」
メイサは先ほどの会話を思い出し、胸が悪くなるのを感じた。しかし、一方でルティが過去に触れたのが飛び上がりたいくらいに嬉しい。どんな顔をするべきか一瞬悩んで、口だけ笑いそうになるのを必死で堪えると必要以上にルティを睨む形になった。そんな自分を馬鹿みたいだとメイサは思いつつ、昔の調子を僅かに思い出して思わず言い返す。
「〈役立たず〉で悪かったわね。だけど、私はあなた付きの女官じゃないわ。主人に言われた役目をきちんと果たしてみせる」
自分の言葉に自分で傷つきながらも抵抗すると、ルティはその茶色の瞳でメイサを睨む。
「あぁ、だからシトゥラの女は面倒なんだ。気ばかり強くて、勝手に突っ走る。まるで計算できない。――いいか。俺はまだ諦めてないんだ。上手く組み立てれば勝算はある。だから引っ掻き回されたら困るんだよ。大体、もう他に女は手配している」ルティはそこで言葉を切り、冷たく唇をゆがめて後をわざと強調する。「
言葉に込められた意味に気が付くと、急激に息が詰まった。それ以上の反論は押さえ込まれ、萎んでしまう。
その時、カツリ、後ろから足音が響いた。
ルティはそれを合図にまるで何事もなかったかのように身を翻す。同時に釘を刺すように小さく、しかし、鋭く言った。その声は、また温度を下げて、今はもう氷のようだ。先ほど微かに熱を持った会話が嘘のように。
「お前には出来ない仕事だ、諦めろ」
数人の女官が廊下を歩いて行く。立ち尽くすメイサを鋭く一瞥すると、川の水が岩を避けるように脇を通り抜ける。きつい花の香りが鼻をかすめる。
「殿下!」彼女らは小さく叫ぶと、ルティの進む方向へと足を早める。そして追いつくと、ルティに向かって揃って甘く微笑んだ。彼は彼女たちに、メイサには向けたことのない甘い笑顔で対応している。まるで赤い花に群がる蝶のよう。女たちのしなだれかかるような様子に、ルティが先ほど言った女というのは、あのうちの誰かかもしれない、そう思った。
五年ぶりの会話に暖まった心が、あっという間に冷めて行く。メイサは今のは夢だったんじゃないかと思う。彼が女の腰に手を回すところまで見ると、メイサは我慢できずに俯いた。
(でも)
床の大理石には卑屈な顔をした女が映っている。それを見てメイサは大きく息を吸う。確かに今、メイサとルティは会話を交わしたのだ。いくらそれが望んでいたようなものでなくとも。それは、確かな一歩に思えないこともない。
メイサは俯いた顔を持ち上げる。その顔からはもう卑屈さは消えていた。そして彼女はもう誰もいない廊下の端を睨む。
「――諦めないわ」
メイサはそのまま誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。