6.女たちと影 02

※文中に性描写があります。苦手な方はご注意ください。



 この方はどうしてこんなにも魅惑的なんだろう。

 ミュラは、目の前の肘掛け椅子に腰掛けて男と話をする赤い髪の青年をじっと見つめていた。──ルティリクス王子殿下。いや、もう既に次期王に決定するのも時間の問題だろう──若く美しいルティリクス王太子・・・殿下を。

 相手の男の歳は父親くらいに見えた。太っていて朗らか。感じが良いと思う。安心できる雰囲気を全身から出していた。テーブルの上の焼き菓子を一人で平らげている。先ほどまで食事をしていたというのに、別に胃袋があるのかもしれない。その前で王子は不敵な、しかし魅力的な笑みを浮かべていた。
 ミュラはその横顔に見とれつつ、こっそりとため息をつく。

 父親を敬遠しがちだったミュラも、今度ばかりはその父に感謝しなければいけないと思っている。彼はいつも美しい姉達ばかりを優先してきた。その姉達は今はアステリオン王子をはじめ、多くの王子の元に仕えているが、寵愛をいただけることは無かった。
 落胆する父は今、末の娘のミュラに望みをかけている。継承権争いに突然浮上して来たこの末の王子。見るものが見れば王者に相応しいのは明らか。ミュラは初めて出逢ったときにそう思った。
 ミュラは半ば忘れられていた。捨てられるように、長い間ジョイアに潜伏し、帰国したばかりの末の王子に充てがわれた。だけど、姉たちの誰が想像しただろう。末の王子がこれほどに強く美しく成長して戻って来るなんて。

 ミュラの家は、今彼女たちがいる場所──アウストラリス南部カルダーノにある。元々アウストラリスは国土の半分が砂に覆われた国だが、南部はオアシスが散在するため、国内の街が集中している。そのうちの一つで、王都から半日という距離にあるカルダーノは南部の山脈の麓に埋め込まれるように出来た交易都市だ。南端をジョイアのやはり交易都市であるオルバースと接していて、アウストラリスにあって、ジョイアとも交流の深い都市。とはいっても、ジョイアとアウストラリスの間の溝は百年前から深いままなので、物が流通しようとも人が交流することは滅多に無い。
 そんな中、ミュラの大叔母にあたる娘が、オルバースの商家に嫁いでいた。その縁で、細くではあるが、ミュラの実家はジョイアと交流があった。そのためジョイアの文化にも他の娘に比べれば随分と詳しい。そしてそれが家の娘がいまいち深い寵愛を受けられない理由の一つにもなっていた。元々代々続く伝統の家ということも無く、徐々に力を付けて来た成り上がりの家。財産を力に貴族に成り上がったのは数代前ということ。それだけで寵愛を受けるはずも無いのだが、ジョイアを徹底的に嫌う、アウストラリス王家の気質は王子たちに受け継がれている。ミュラの家が持つジョイアとの繋がりは嫌悪される決定的な理由だった。
 しかし今、それが重要視されている。もともとこの王子は他の王子と違って懐が深いのだ。家柄など関係なく、自分で会って自分の目で判断する。そんな風に娘を傍に置くなど、書類の家柄や血筋ばかりを重要視する他の王子にはあまり見られない傾向だった。

 ミュラは震えそうになる手を握りしめる。
 まだ詳しくは知らないけれど、任務にはジョイアの情報が必要だと。ルティリクスの取り巻きの女でそれを持っているのはミュラだけだった。──任務がうまく行けば。ミュラは彼に今夜にでもある願いを伝えようと思っていた。そのことを考えると体の奥が熱くなるのを止められない。
 窓の外を見るともう日は暮れかけている。カルダーノの街は赤く染まっていた。今晩はこの家に一泊だ。つまりルティリクスを一晩独り占めできるということ。早くこの会談が終わればいいのにと、ミュラは願いつつ、張り付けた笑顔が壊れないように苦心する。役目を預かった今、重要な会談なのは分かっているけれども、ミュラにとっては今晩の彼との時間だけが全てだった。それだけを目当てにミュラはこの会談に同行したと言ってもいい。
 彼との夜が少しでも長い時間であるといい──男たちはそんなミュラの想いも汲むこと無く話を続けていた。
「ジョイア宮には既に二人居られるということですね?」
 にこやかな笑顔で中年男が尋ねると、殿下は無表情のまま頷く。
「ああ。一人は近衛隊に。もう一人は皇族の侍女だ」
「ははあ。娘の方は知っております。大臣の娘。前回の咎を負わずに済んでいるとは、幸運ですな」
「あれは予想外だったが、まあ、ジョイアとしても表沙汰にしたくなかったんだろう。それより、貴公の娘、シュルマの件だが──」
「お話の件ですが、やはり今回はご期待に応えるのは難しく思っております」
「気は変わらないか。──残念だ。うまく懐かせていたから、感心していたんだが。──そう仕向けたのか?」
「いいえ。シュルマは……のんびりしておりましてね。皇太子の目に留まるほどの器量ではありませんから、私は元々諦めていたんですよ。そう野心を持たなかったのが幸いしたのでしょう。妃の侍女を務めたいと言い出したのを聞いて驚いているところです。そういう訳ですし、任務には力不足です。そちらの方の魅力にはとても敵いませぬな」
 そこでちらりと視線がミュラに向けられた。
「この方にエリダヌス役をお願いするのが一番でしょう」
 中年男にさらににこやかな笑顔を向けられ、ミュラは微笑み返す。その目線が胸に止まるのを見て、思わず胸を張った。
 はっはっはと豪快に笑う男はまた菓子をつまむ。
 その様子にルティリクスの口から小さな溜息が漏れる。
「そういうことならば、今回はオルバースに特に何も協力は求めないが──どうも、貴公はのんびりしすぎている気がしてならない」
「まあまあ、そう急がれずとも。あの皇子にはまだ味方が居りませぬし。その上味方を作ろうとされない。留守にしている宮で起こっていることも知らずに居られる。あの娘に執着するだけの子供です。すぐにぼろが出ます」
 あの娘とは誰だろう。答えを求めてルティリクスを見つめるけれど、彼の視線はミュラの方には向けられない。
「それより、王太子殿下は今回は北部の人間を使われるそうで」
 その言葉にルティリクスの声が尖った。
「どこから聞いた?」
「北部ケーンのパイオン卿の周辺が急に羽振りが良くなったことを耳に挟みましてね」
「……耳が早いな。──まあそういうことだ」
 ルティリクスは仕方が無いというように、肩をすくめる。
「ヤツは使えません。目先の欲に流されがちです。ご注意ください」
「分かっている」
「使える人間はお傍に居ります。またいつでもお声をおかけください」
 中年男はそこで僅かに嫌らしい笑みを僅かに浮かべる。今まで男が纏っていた気の良さそうな雰囲気が嘘に見えて、ミュラの背中は少し泡立った。


「──あの男、は? 何者なのです? オルバースと言われていましたが?」
 ミュラは全身を覆う気怠さに押し流されそうになりながら、尋ねる。思考力が正常なうちに──そう思っていたというのに、それを分かっておられたのか、この方は。部屋に入るなりミュラを寝台に連れ込んだのだ。
 砂漠を荒れ狂う嵐に巻き込まれたかのよう。翻弄され、残る思考力は無に等しい。それでもミュラは閉じてしまいそうな瞼を必死で持ち上げた。
(この方とお話しできる機会など、次はいつになるか分からない。お聞ききせねばならぬこと、申し上げなければならぬことがあるの)
「寝ていなかったのか?」
 ミュラは首を振る。もしかしたら一度気を失っていたのかもしれない。まるで朝起きた時と同じような光景にふいに寂しさが湧いて来た。
 ルティリクスはすでに服を纏い、その均整のとれた美しい体に見とれることは叶わなかった。窓辺で書を認めている涼しい顔には、つい先ほどまで行われていたはずの艶ごとの名残など何も残っていなかった。これでは──端から見ればミュラの有様が嘘のように見えるかもしれない。
「男のことは忘れろ。今回お前には関係がない」
 ルティリクスは顔を上げると冷ややかに言った。
「殿下──私は何をすれば良いのです」
 どうすれば、私だけを愛して頂けるのです。心の中の本音を押し隠す。
「お前の役目はなんだ?」
 逆に問われて、ミュラは答える。なぜか出てくるのはいつでも同じ答だった。そう言えば喜ばれることを本能で知っていた。
「殿下のお役に立つこと、です」
 彼はテーブルの上にあったグラスから酒をあおると、椅子から立ち上がり、その顔に魅惑的な笑みをたたえた。ミュラを魅了してやまない笑顔が言う。
「では、〈エリダヌス〉となり、ジョイアの皇太子を落とせるか」
 ミュラは目を見開く。「え──?」
 エリダヌスになる。それはそういう意味なのかと、初めて任務を理解する。
「お前には野心がある。そして、この体なら、アイツは気にする」
 赤い髪が揺れたかと思うと、両の手で胸を掴まれ、敏感になったままの胸の先端を舌で嬲られた。思わずのけぞるが、その唇はさらにミュラを追いつめ始める。
(野心? アイツって? それはその皇太子のこと──?)
 働かなくなる頭を叱咤して、ミュラは問う。
「殿下────」
「……自信がないのなら、止めるのは今のうちだ。失敗されるのは困る」
 胸への口づけが止む。あまりにも簡単に手放されそうになり、慌てる。先ほどの情熱的な彼は一体どこに行ったのか。ミュラは瞬きをする間に人が変わった男に戸惑いを隠せない。
 その瞳からは既に甘さは消えていた。それを見て、先ほどまでの甘い瞳は作り物だと、ミュラは初めて気が付いた。
 ミュラはこの体を自慢にしていた。気に入って頂けていたと思っていた。いつかは──それを武器にして心も手に入れられるのではないかと確かに野心を燃やしていた。でも。もしかしたらこの方は。この体さえも望んでいないのかもしれない。実は溺れていたのはミュラだけで、彼はそうではなかったのかもしれない。
 疑いは膨れ、ミュラの中の自尊心は脆く崩れ始める。
 どうやら、彼の欲している女──それは、彼の役に立つ女でしかない。ただ抱くだけの女には代わりはいくらでもいる。
 そう気が付くと、ミュラの胸を焦躁が焼いた。
 ミュラにとって、ルティリクスの代わりはもうどこにもいない。昔は居た。どの王子でも構わなかった。でもこうして肌を重ねるうちにもう誰でもよいなどとは思えなくなった。これ以上の男など、いる訳が無い。
(まるで奴隷のよう)
 そう感じて、苦しくて思わずその背にしがみつくと、彼は優しく抱きしめて口づけをくれる。そう、いつものように。この方には自分しかいないと勘違いするほどに情熱的に。
(代わりがいる? では代われない者になるためにはどうすればいいの)
 ミュラはやはり諦めきれないと思った。だから一つ見返りを求めた。どうしても欲しいもの。ずっと欲しかったものを。
 酒の甘い香りが鼻に染み込む。絡み付く舌が痺れそうに辛く、甘い。彼との口づけはいつもその味だった。強い酒。唾液で薄まっているのに喉が焼けるのが分かる。
 そのせいだろうか。既に体は熱を持っていた。それを知り、潜り込んだものに、大きく喘ぐ。ああ──理性が飛ばないうちに言わなければ。
「成功のあかつきには、欲しいものがございます」
「──今度は何が欲しいんだ?」
 その言葉に疑問がよぎる。ミュラはまだ何も願っていないというのに。誰かと間違えられているのかもしれない。酔っているにしても、悔しい。
(一体誰が何を欲しがったの? 抜け駆けした者が既にいるってことかしら?)
 焦ったミュラは顔を上げ、その表情と、瞳に映っているものに息を呑む。そんな訳は無い。これは見間違い? いや、違う。ミュラは光のある場所で抱かれたことが無いから、見たことが無かったのだ。
(この方はいつもこんな顔をしていたの? それに)
 直後、最奥を突かれ、ミュラの頭は真っ白になった。
「あぁっ──あ、あ──殿下、私は────」
 そのいつに無い激しさに、半ば意識を飛ばしながらもミュラは願いを口にした。

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2011.05.14改
2010.07.24