「なんですって?」
聞き間違えかと思って──聞き間違えであって欲しいと願って──メイサは大きな声で尋ねていた。
それは王位継承の試しが五日後に迫った日の事だった。
いつものように夕食をとり、部屋に戻ったメイサが見たのは、部屋の中で佇む一人の男。少しでもその正体に気が付くのに遅れたら、悲鳴を上げるところだった。
絶句するメイサに、彼は何か聞き慣れない、しかし確実に聞いたことのある言葉を吐いた。
「だから、避妊薬を貰いに来た。持ってるんだろう?」
目を見開くメイサにルティは今度ははっきりと言った。前髪で上手く表情を隠しているつもりかもしれないけれど、その瞳を隠していること自体、きっと気まずいのだ。珍しい。そしてなんだか懐かしい。でも。
彼はなぜメイサのところにやって来たのだろう。
どういうことかと尋ねるけれどただ「渡せ」と言うだけなので、メイサは観察力と想像力を総動員する。この間の廊下での女たちの様子。妃という言葉。そして目の前の男の僅かにそわそわした──昔、いたずらをカーラに見つかったときに似ている──様子から。いろいろ察したメイサは目を細めて、斜めから男を睨んだ。
「ふうん」
つまり、女達がとうとう勝負に出たのだ。あの群れの中で、誰かが一番の寵愛を求めて動き出した。──きっと子が欲しいと申し出たのだ。それはあまりに分かりやすく、そして一番有効な手段だと思う。普通の場合ならば。
そしてこの様子から見るに、彼はそれを断れないのだ。だから、こうして、策を練っている。
一体どの娘かしら。メイサはこの間見た群の中の顔をいくつか思い浮かべた。
「子供が出来たら困るわけね?」
「……まあ、そんな訳。それで、出来るだけ早く必要なんだ。アイツは今回結構重要な駒だし、とにかく時期がまずい」
心底面倒そうな顔と〈駒〉という言葉に大きな溜息が出る。──どこまで女心が分かってないのだろう。というか、なぜメイサの前でその最低な本音を晒すのだ。
「駒、ね……」
胸が痛むかと思ったけれど、それはなぜか僅かな痛みだった。彼の方が遊びだということが分かったからか、それかあまりにも女心に疎いことへの呆れが大きかったのか。
しかし。これは全ての女性を代表してこの鈍感男に一言言わねば収まらない。きっとメイサの他に言う人間は居ない。王子である彼に言える人間は僅かなのだ。
「……とりあえずそれが必要な
メイサは昔の調子を思い出して、腰に手を当てると、一息で言った。
「サイテーね」
(ただで駒になる訳無いじゃない)
メイサは腹を立てていた。そのやり方はなんて不誠実なんだろう。相手が真剣なのが分かるから余計に腹が立った。
女が彼に体を許すのは、心を手に入れたいからだ。そして女が相手の子を産みたいと考える、それはかなり真剣なことだと思う。もしも動機が不純だとしても、自分の一生は決まってしまうくらいの一大事だ。その覚悟にはそれなりの覚悟で応えるべきだとメイサは思う。第一、自分が彼女だと考えると……あまりに居たたまれない。
「やったからって必ず子ができる訳じゃない。薬の効能も知らなければ、あっちも気にしないだろ」
ルティはなんで怒られているのか分からないという様子だった。その顔は、昔蛙をメイサに贈って、怒られた時の顔とよく似ている。
彼は鬱陶しそうに目の前の椅子に勝手に腰掛けると、膝の上で手を組んでその上に顔を伏せる。女官部屋に設えられた質素な椅子は彼の重みに耐えきれずに小さく不満の声を上げた。少し癖のある赤い髪がさらりと下に流れて、隠れていた野性的な感じのする耳が現れる。思わず見とれかけて、メイサは自分を叱咤した。
(もう! 今はそんな場合ではないの!)
邪念を追い払うように強く詰問する。八つ当たりが混じる。
「だいたいね。なんで私に頼むわけ」
尖った声に、ルティはひどく不満そうな顔だった。
「俺だってお前になんか頼みたくない。五月蝿いし、めんどくさいし」
その言葉にメイサのこめかみがぴくりと引きつる。
(だから、なんでそういう本音を言うわけ!? 他の子にするみたいに少しは偽りなさいよ!)
メイサの怒りに気づかずにルティは続けた。
「だけど──お前が持ってるって聞いたから来たんだ」
「え、誰に?」
「持ってないのか?」
問いには答えてもらえず、逆に問われ、メイサは少しの後ろめたさに目を逸らしつつ「も、持ってないわ」と頷く。
「分かった。じゃあいい。ババアに頼む」
立ち上がり、あっという間に踵を返すルティをメイサは慌てて引き止める。そうだ。今、この間の話の続きをしないと。せっかくの機会だ。逃したらまたしばらく雑用で終ってしまう。
「待って。仕事は私にやらせてよ」
直後胡乱な目がメイサを刺した。
「今度は
「じゃ邪魔なんかしないわ! アステリオンかヨルゴスのところに潜り込ませるんでしょう? その娘の代わりに私を──」
「……何を考えてるんだ、馬鹿か。お前には無理だと言ったはずだ」
冷たい目と言葉であっという間に切り捨てられそうになって、メイサはもがく。
「出来るもの」
むきになるのは昔の習性なのだろうか、そんなことを考えながらもメイサは反抗した。どうしても〈役立たず〉は早く脱したい。私は役に立つ女だと認めさせたかった。
ルティは本気で呆れたといった様子で、立ち上がると、一歩メイサに近づいた。
「本当に? じゃあ試しにやってみろよ」
「え?」
何を? と顔を上げて、メイサは目を見開く。
その艶やかな色を見たのはいつだっただろう──五年前? あの夜の彼はこんな顔をしていたのだろうか。あの部屋は暗かった。いくら探っても、メイサの記憶には彼の表情は残っていなかった。
茶色の瞳が真っ直ぐにメイサに向けられた。意外に長い睫毛が瞳に影を落とし、見たことも無いくらいに甘く輝いている。メイサは心臓が思い切り跳ねるのを感じる。最初に言われた頼み事で怒りに紛れて忘れてしまったけれど、そういえば、寝台と小さな筆記机しか置いていないこの狭い部屋に『二人きり』ということに急に気が付いたのだった。
そしてなぜか『絶対にない』と強く思っていたけれど、目の前のこの男は、アステリオンと同じくらい節操がないことを思い出した。欲目で頭からすっ飛んでいたが、傍から見れば、まぎれも無くそういうこと。悪評が立たないのは、この男にそれだけの魅力があり、手を出された女の方に彼への好意があるためで。
薄暗い部屋の中、燭台の焔だけが妖しくその高い頬を照らした。前髪だけが赤く染まり、後は闇に飲み込まれている。見上げるほどの背、メイサを包んでも余るほどの大きな体躯。意識しないでいられるほど、メイサは慣れていなかった。男にもだけれど、まず、この二十歳のルティに。
彼がその大きな手をメイサに伸ばし、彼女はガチガチに固まりながらもはっきりと期待する。自分の気持ちに気が付いてから、心の底で、ずっと求めてやまないことを。
「ほら」
筋張った指がメイサの頬をかすめた。胸の音はどんどん大きくなる。彼女の敏感な耳は自分が立てる音だけで壊れそうだった。
「出来るんだろう?」
(や、やってみろって、誘惑を? ……ルティ相手に!?)
シトゥラで学んだ数々のことが頭をよぎるものの、それらは煮立った頭の中ですでにぐちゃぐちゃだった。
(ええと、と、とにかく、こういう場合はっ)
確か誘うように目を伏せて──と思い出しつつも、メイサはその甘い視線に耐えられず乱暴にぎゅっと目を閉じる。
しばしの沈黙。いくつかの呼吸の間、メイサはひたすら何かを待つ。頬と唇を引きつらせながら、待ち続ける。
暖かい気配が近づいたのを境に、メイサの耳は胸の音以外他に何も聞こえなくなった。
(どどどどどうしようっ)
メイサの頭の中は、既に
(あ、あれ? 私、もしかしなくても、キスってしたこと、ない……?)
つまり最初の手順で躓いた。どうすればいいか分からない。思わず目をぱっちりと開けると、先ほどと変わらず同じ位置で構えた彼としっかり目が合う。
(え? あれ? 今……気配は近づいていたような? 気のせい?)
きょとんとするメイサに、ルティは切り捨てるように言う。
「……最悪だな」
「あ」
どうやら彼もメイサが動くのを待っていたらしい。
(ああ、自分からしなければいけなかったってこと。それは、そうか。その方法も書いてあったもの)
相手に合わせて臨機応変にこなさなければいけなかったのに。そう気がついて後悔したけれど、既に遅かった。というより、この女に慣れた男を誘惑など──もともとメイサには無理に決まっていた。そうそう、失笑されて終わり。目に見えている。
ルティはいつの間にか甘い表情を消し、ひどく不機嫌そうにメイサを見下ろしている。かと思うと、次の瞬間、彼は口元だけを歪ませにやりと笑い、その変化に何かを見間違えたかと思う。
「──言ったろ? お前には
顔の割に苛ついたままの声で、改めて力一杯〈失格〉を言い渡されて、予想通りではあったけれどもメイサはカッとなった。
「わ、分からないわ、こういう女が好きかもしれないじゃない! ほら、アステリオン殿下は慣れてるらしいし、初々しいのがお好きって聞くし、多少不慣れな方が新鮮かも──」
そう食い下がろうとして、やっぱり眉の辺りに微かに怒っているような気配を感じて口をつぐんだ。しかし、彼はじっとメイサを睨んだ後、諦めたように小さく息をついて言う。
「……勝手にすればいい」
「え? いいの?」
腹に力を入れて反撃を待っていたメイサは、拍子抜けする。
「どうせ言っても聞かないし。ったく、どいつもこいつも俺の仕事を増やしてばかりだ」
そう言うとルティは風のようにメイサの隣をすり抜ける。小さな扉の音にメイサが振り向くと、もうそこには誰もいなかった。
メイサはしばらく扉を呆然と眺めていたけれど、ふいに我に返って机の引き出しを漁る。指先に固く冷たい壜の感触を得て、力が抜けた。振るといくつかの丸薬が、その中でころりと転がった。
仕事をするのであれば、自衛の為にこういう薬が必要なのだとシトゥラで学んだ。男は女ほど行為と子供を結びつけて考えない。大きな声では言えないが、好きでもない男と寝るのも嫌なのに、さらにその子供を身ごもるなんてまっぴらごめんだから、メイサも真剣に学んだ。
その壜を撫でながらひどく憂鬱な気分になる。
(意地にならずに……渡しておくべきだったのかしら)
これが無ければ仕事にならないのは分かっている。そんなに簡単に手に入るものでもないから、渡せなかった。特に王妃と連絡が取れない今、これを取り上げられれば、メイサの仕事には妊娠という危険が伴ってしまう。
だけど、自分が他の男の子を孕むのも嫌だけれど、ルティの子を誰かが腹に入れるのも嫌だ……──その苦しみが想像できないほどに、嫌だ。
『お願いいたします。成功のあかつきには、殿下のお子を産ませてくださいませ』
彼の願い事を理解したとき、どこからかそんな声が聞こえた気がした。彼の腕の中に女の影が見えた気がした。
メイサは、きっとルティがその薬を使わなければいけないこと自体が許せないのだ。だから持っていても薬を渡さなかった。渡せば使ってしまう。使うということがどういうことか。それを考えると渡せなかった。
薬が無いから──抱かないで欲しい。子供が欲しくないのなら、女を抱かないで欲しい。そうすれば絶対にできないのだから。
メイサのささやかな抵抗が少しでも抑止力になればいいと願った。
彼に直に願えないメイサには、そういった小細工をするしか手段が残されていなかったのだ。