翌日、メイサは気を取り直し、食堂である人物を待っていた。それはあの少女。──アステリオンの寵愛を受けているであろう、あのスピカに僅かに似た、華奢な少女だ。
入り口に細い影を見つけると、メイサは壁から背を離し、ゆっくりと食べ物を皿に乗せて、ひと際空いた一つのテーブルに足を進めた。
「ここ空いているかしら?」
にっこり微笑みながら近づくと、少女は明らかに警戒した表情を浮かべるものの、結局はぎこちなく頷いた。
それから数日後のこと。春の近づくアウストラリス王城の渡り廊下にはまだ冷たい風が吹きすさんでいた。
そんな中、メイサが張り切って向かったのは王妃の部屋。待ちに待った〈お呼び〉がかかり、私にもとうとう春が来たと浮き足立つ足を押さえながら忍んだ先で知ったのは────アステリオンの失脚。そして実質、継承権争いに決着がついたということだった。
「ど、どういうことです……!? 失脚?」
目の前が真っ暗になりかけた。思わず立ち尽くす彼女に、王妃は椅子を勧めた。そしてメイサの質問には答えずにのんびりと話し始める。
「私、昨日まであなたが見習いにされていることを知らなかったの。なんで連絡つかないのかしらって調べてみたら手違いがあったみたいで。ごめんなさいね」
王妃はさらにいれてあったお茶をメイサに勧めた。傍付きの女官の姿は既にない。人払いはすんでいて、彼女はメイサをただの姪として扱っているようだ。
今さらの連絡に呆然としつつ、メイサはふらふらと椅子に座り込む。
(手違い? 私が務め出してもう一週間以上も経って……そ、それはもう仕方ないけれど、それより──)
「私、今日、やっとお役目を果たせるはずだったのに……」
精一杯やってやっとそこまでこぎ着けた。あの少女がメイサに懐くのに三日。私もひとりぼっちなのと、寂しさを見せると、彼女もよほど寂しかったのか、徐々に警戒を解き、懐いた。メイサは黙って人の話を聞くのが好きだったし、その傾向は何かとおしゃべりをしたい十代の少女にとって好まれる傾向だった。そんな風に少女が心を許すにつれ、メイサの方もだんだん妹のように思えて来た。
そうして、彼女の口からアステリオンへの不満が漏れ出すのにそんなに時間はかからなかったのだ。
少女の名はリダと言った。メイサが偽っているのと同じく、南部の田舎の落ちぶれた貴族出身だと言う。一人残した弟を大事にしていて、彼の為に女官に志願したと言っていた。
メイサは全てを信用するわけにはいかないと心の隅で思っていたけれど、若いせいか警戒心の薄い彼女の方は全くそんな様子はなく、あっさりと「贅沢な悩みかもしれないけれど」と振って湧いた幸運を幸運と思えなくなっているというような愚痴を漏らした。
彼女は予想した通り寵愛を受けるのに疲れていた。特別な存在と言うのはどこかで孤独を伴うものだ。そこにメイサはつけ込もうとした。寵愛する少女の隣にいれば、もしかしたら目に留めてもらえるかもしれない、そんなささやかな機会を狙ったのだ。
そして、彼女はこのところ体調を崩していて、毎日代わりを探していた。はっきりとは言わなかったが、月のものなのかもしれない。他の取り巻きはリダの代わりというのが気に入らないのだろう、嫌みを言われるとリダは嘆いていて──だから、メイサは代わりを名乗り出るつもりだった。そして、それに彼女が頷くのはあまりに簡単な手続きに思えた。
やっと、やっと!と、達成感で一杯だったというのに……結果は「プリオル家の謀反が発覚した」という知らせ。
つまりは──プリオル家を後ろ盾とするアステリオンの失脚。メイサの出番はまたもや無くなったということ。
「詳しく説明して下さい!」
あまりの事態にメイサは息を巻く。
「アステリオンのところで少し前から寵愛を受けていた娘、知っているかしら?」
十分に心当たりがあった。
「ええと、リダという……」
「名前は知らないけれど、有名な話でしょう? それで、あれはルティが用意した娘なんだけれど、」
(な、なんですって!)
「じゃ、じゃあ、彼の毒牙に──」
(も、もしかして、ルティの子供を欲しがったのって、リダ!? そ、そんな風には見えなかったけど!)
驚愕するメイサの様子を見て王妃は吹き出す。
「ぶっ、毒牙って! 違うわよ。いえ、あの子のことだから違わないかもしれないけれど、まず共通の敵がアステリオンだったの。彼女の家、昔、岩塩の鉱山を奪われて、路頭に迷ったって。だから復讐の機会を狙ってたみたい。だけどそんな過去を持っていれば、そう簡単には彼に近づけない。そこに目をつけたのだそう。適当な身分を買って彼女を送り込んだの。あの外見は絶対使えるって踏んで。あの子、自分の女の好みは分かってないくせに、不思議と人の好みは外さないのよね」
王妃はどこか面白そうに呟くと、本棚から分厚い冊子を取り出しメイサに見せる。そこにはどうやらアウストラリスの法が書いてあるようだった。こんな細かい法などメイサは見たことも無い。存在すら知らなかった。
「この国では、王家を脅かすような行為は堅く禁止されてる。主権が揺るぐことは国を混乱させるから。鉱山の独占は国の財産を掌握することと同じ。だから今回国の調査が入ったの。リダって言ってたかしら、その娘はアステリオンの口から家のことを聞きたかったそう。不正の証拠を掴みたかったのね。だからルティに協力したの」
メイサは相変わらず呆然としている。話が意外なところに繋がって頭が付いて行かなかったのだ。メイサはもっと別のところに大掛かりな仕掛けがあって……決着がつくと思っていた。それほど大きく動いているように見えたのだ。だって、じゃああの──なんと言ったか、香の名の娘は? ジョイアは関係ない? それに──リダが? あの大人しそうな娘が、復讐? そんな馬鹿な。
混乱した上に、スピカがルティを刺したと聞いた時と同じような衝撃を受けていた。そして思う。どうも世界に転がっている物事は見かけ通りでは無いらしい。
「リダがアステリオンに復讐……」
何か納得いかなくてぶつぶつと呟くが、それは王妃の声にすぐに掻き消される。
「まあ、うまく先を越されたみたい。今回は一歩も二歩も遅れを取ったみたいね。……私が立てた作戦──籠絡させて弱みを握る、じゃなくて、既に弱みを見つけいて、それを裏付けたみたいだから」
あまり悔しさを感じさせない彼女の態度をメイサは不審に思う。計画の失敗は、直接彼女に関係ないから仕方が無いとしても、出し抜かれたというのは確かだ。確か、その出し抜いた息子とは不仲……のはずなのに。どうも掴めないひとだった。
「悔しくないのですか?」
「え? まあ、結果が良ければ別にどんな方法でもいいのよ。手段は問わないの。もしかしたら間に合わないかもしれないって思ったけれど、お尻に火が着いたおかげで、あの子ここ何日か寝ずに仕事をしたみたいでね。おかげで無事に王位継承権を手に入れられそう。あなたは十分役目を果たしてくれたわ」
やっぱりよく分からない。首をひねるメイサに王妃は続けた。
「ほら、ルティが薬を貰いにいったでしょう? あなたから取り上げられないとなると、急ぐしか無いじゃない? 手柄を立てられちゃうもの」
「はあ」
(ああ、じゃあ、王妃が私が持っているって言われたのね……あれ? でも、なんで今その話が出てくるのかしら? それに、なんで手柄を立てちゃまずいわけ?)
しばらくじっと考え、急にある考えがメイサの頭にひらめく。「お前には絶対無理だ」そんな言葉と一緒に。
(あ──もしかして、私が余計なことをして邪魔しないようにって──だからあんな風に諦めたふりをして私を油断させて)
つまり彼はメイサを役立たずと決めつけて、彼女が邪魔する前にとさっさと仕事を終わらせたのだ。そのことに思いついてメイサは愕然とした。
王妃はそんなメイサの前でやけに嬉しそうにくすくすと笑う。それはこの間、ルティとの会話を聞かせた時の笑い声に似ていた。
(ああ、この人はどうして)
こんな風にメイサの知りたくないことを教えてくれるのだろう。悪気がなさそうなところがたちが悪い。
思わず眉が寄るメイサを見て肩をすくめると、王妃はあっさり話を切り替えた。
「ともかく、継承権争いは、これで決着が付きそうよ」
「それは……ルティに聞かれたのですか?」
「いいえ、陛下に」
「ああ、じゃあ、その、ほぼ決定なのですね……」
一番の可能性を忘れていた気まずさで、何と言っていいかまごつくメイサを気にすることも無く、王妃は淡々と言った。
「鉱山に関して、有用な法案をいくつか出してきたそうよ。岩塩に限らず、資源に関しては〈採掘権〉を設定してはどうかって。ほら、今のままじゃ掘ったら掘っただけ財産になるけれど、掘った量に課税して、輸出に関しても国が規制をすれば、随分権限は削れるでしょう。それから他にもいくつか……ああ、難しかったかしら? とにかく詳細は昨晩陛下にお聞ききしたけれど、我が息子ながらよく出来ていたわ。あれなら十分決め手になるんじゃないかしら」
王妃が言うようにメイサは難しい話にはいまいちついていけなかったけれど、昨晩、というところで、メイサが思わず眉を上げると、彼女は微かに微笑んだ。
「たまに気まぐれのようにお渡りになるのよ。昔のように愛せなくなった原因が分からなくて、引け目を感じていらっしゃるのでしょうね。最初から私への愛など無いのだから……当たり前なのに。申し訳ないとは思っているのよ」
そう言った王妃の笑顔は随分と寂しげで、そして痛々しいほどに美しかった。