ルティの王位継承の試しが迫った数日前、彼の出した法案は議会で論議され、ほぼ彼が出した案そのままで通ることとなった。そしてそれが決め手となり、彼の王位継承は確実なものとなった。
候補として他一人残ったヨルゴス王子は、明らかにされた彼の策を聞いてあっさりと身を引いた。その諦めの良さに気味の悪さを感じる。彼はまだ切り札を出し切っていない。メイサはアステリオンではなく、ヨルゴスを標的にすべきだったかと、今さらのように感じていた。そうすれば少しは役に立てたのかもしれない。
「ええ? ヨルゴス様が?」
厨房で、食事をトレイに並べていると、女官のコソコソとしたうわさ話が突如耳に入った。
「そうなの。ジョイアの皇太子の立太子の礼に、自らお役目を所望されたそうよ」
「珍しい」
「わざわざジョイアになんて……大人しい方なのに、不思議ね」
丁度頭にあったヨルゴスの名に耳が自然と反応していた。目線をそちらに向けないように、聞こえていないように振る舞いながら、メイサは耳を澄ます。
やっぱり掴めない王子だ。なぜ突然のようにジョイアに興味を示す? それとも以前から何か? 閉じこもっていたメイサには王宮に入る前の事情は分からない。とにかくヨルゴスのことが分からない今、余計に飲み込めなかった。
(ええと、立太子の礼──?)
メイサの知識に寄ると、確かそれはジョイアの皇子が皇太子として披露される儀式だったはず。そしてそれ以上は知らないが、何か特別なことがあるのだろうか。
耳をそばだてるメイサの前で、女官たちは手を休めて話を続ける。
「立太子の礼といえば、最初の妃の披露も同時にあるとか……そうそう、ほら、シトゥラの」
その名に体がびくりと跳ねそうになるのをメイサはぐっと堪えた。それでも手に持った椀から汁がこぼれ、慌てて布巾を手に取る。
(え? ──シトゥラ?)
「ああ、お相手は〈噂のひと〉の娘って話でしょ。とうとう妃の座に納まるのよ。あの国での身分は平民だと聞いたのに……平民の娘が大国の妃に──って、お伽噺みたいなお話よねぇ」
「ジョイアの皇子もとろかすほどなのね、その娘は。あの皇子は国内だけでなく、国外からもその正妃の座を狙われているのでしょう? それなのに、一番に妃の座を手に入れるなんて……さすがといえばさすがね。『王族にも出し惜しみするほど』ってのは本当なんだわ。そんな女が宮にいれば、争いが絶えないでしょうしね」
(ああ、スピカの話か……)
ほっとしつつもスピカを思い出し、出し惜しみもされずに放り出されてこんなところにいる──しかもそのシトゥラの娘だとも気づいても貰えない自分に気持ちが重くなる。
(ど、どうせ私は)
いつものように卑屈になりかけて、しかし、比べるのも馬鹿らしいとすぐに思い直した。スピカはスピカ。メイサはメイサ。多分、そう思うのが正しいのだ。メイサはメイサであって、スピカには決してなれない。でも、彼女のあの力をメイサは今更欲しいとは思わないし、ジョイアのあの面倒くさいへなちょこ皇子の寵愛など欲しくもない。逆に、スピカもそうだろう。彼女が持っていなくてメイサが持っているものなどほとんど無いけれど、もしかしたら彼女だってメイサの持っている平凡さを欲しがるかもしれない。〈普通〉の幸せを得ることを求めるかもしれない。
『力のこと分かるまでは、あなたのお妃になんてなるべきじゃなかった』
人はどれだけでも欲深くはなれるけれど、手に入れたものに本当に幸せがあるかは手に入れてみなければ分からない。手に入らないからこそ美しく見えるものがあるのかもしれない。クレイルについても、きっと、そうだ。
メイサはそう自分に言い聞かせて、拳を握る。未練は無い。だけど自分の過去をたった今完全に否定できるほどにメイサは強くなったわけでも無かった。
「でも、その娘って、確かルティリクス様が一度取り戻されたって、ちらりと耳に挟んだのだけれど」
「あらあなたも?」
「随分ご執心だったみたい」
「あのルティリクス殿下を? あの方を夢中にさせるなんて、ますますもって恐ろしいわね、シトゥラの娘は! 良かったわ、身近にいなくて、ほんと」
(…………)
メイサは何か騒ぎ立てる胸を押さえると、小さく息をついてその場所を離れた。
(スピカ……)
少女の面影がどうしても頭の中によぎる。あの光そのものに見えた少女。彼女がとうとうあの皇子の妃に──
喜ばしいことなのに、応援していたはずなのに、何かが胸の中で暴れていた。
その何かの正体がつかめずメイサはその影を追い続ける。
だから食堂に向かう途中、その影を見つけたとき、メイサは思わずその名を口にしそうになった。
春になり力を付けた日の光に髪が輝く。波打つ金色の河のように。
「ス────」
「ああ、メイサ」
それは幻覚だったのだろうか。振り向いた少女の髪の色は、亜麻色。見間違いに気が付いたメイサは心の中の像を追い出して、その名を飲み込んだ。
「──リ、ダ」
儚げに微笑む少女はメイサに駆け寄った。メイサは彼女が手に持った荷物を見てすぐに察した。
「出て行くのね」
リダは荷物を足下に置くと、ぺこりと頭を下げる。
「ええ。今までお世話になりました。お役目が無くなったし、いとまをいただいたの」
アステリオンが失脚した今、沢山居た愛妾すべてに暇が出されていると聞いていた。食堂にも現れず、連絡も取れなくなり、メイサは密かに心配していたのだ。
しかも、リダの場合は、アステリオンの不正の証言を持っているはずで、調書作りに協力する必要がある。そんな風に主に反した者を雇う者はなかなか居ない。ルティにしても、こう公になってしまえば、今までのように間者として使うことは出来ないから、傍に置く理由が必要となる。──たとえば、愛妾であるとか。
彼女の持つ大きな荷物はそれを否定していて、メイサはほっとしている自分に後ろめたさを感じた。
「大変……だったのね」
「隠していてすみません」
そういいつつも、反省も後悔していないのだろう。晴れ晴れとした笑顔だった。不思議と顔から幼さが抜けていて、自分とそう変わらないように見えた。今はとても十六、七には見えない。メイサは彼女はひょっとしたらアステリオンの好みに合わせて年齢も偽っていたのかもしれないと思う。そう思いつくと、メイサは、負けた、と思った。その芸当はメイサにはとても出来なかった。
「いいの。こっちもいろいろ言ってないことは多いし。──それで、これからはどうするの?」
「貯めたお給金と、あと殿下が手当を下さるとおっしゃるので、お言葉に甘えようかと」
殿下というのは、まぎれも無くルティのことだろう。メイサは詳細を尋ねようとして躊躇う。
「あの方にはお世話になりました。本当にお優しい方だわ」
ふんわりとして綺麗な、でもなぜか胸を突く笑顔。その顔を見ただけですぐに察してしまう。彼の周りで散々見て来た顔だった。
「あなたも、ルティのこと……」
なんだか気の毒になってしまう。ルティの裏の顔を散々知っているから、特に。親身になってしまうと、あんな男は止めておきなさいと自分のことは棚に上げて説得してしまいそうだった。
リダは俯くとそっとため息をつく。
「あの方のお心は得難い。私にはとても無理です」
どこか寂しそうに、リダは荷物を一つ一つ持ち上げる。そして王宮の入り口に向かおうとするのを見て、メイサは彼女の荷物を一つ持った。まだどこか体調が悪いように思えたのだ。
「私はただの駒だった。最初は自分の目的を果たす為に利用させて頂くつもりだった。でも、お仕えするうちに……どうしてもお役に立ちたいと思うようになって──そして、駒になったあとでふと気づいたわ。他にもたくさん同じような女がいて、自分もそのうちの一人に過ぎないと。特別にはなれないと」
リダは寂しげにフフと笑う。そして口をつぐんだ。
〈駒〉という言葉が、二人の間に落ちた。メイサはその重い固まりに阻まれ、それ以上聞いてはいけないような気がした。沈黙が落ちる。二人分の足音だけが廊下を漂っていた。城の出口である重厚な門が見え、メイサはこの気まずいままの別れを嫌って話題を変える。
「ああ、……そういえば体調はどうなの? もう元気になったのかしら」
リダはメイサの気持ちを汲んだのか話題に乗って来る。
「体調が悪いというのは、嘘だったの」
「嘘?」
「事情が事情だったから、絶対子が欲しくなかった。でも〈あの男〉は欲しがったの。私が拒んだら余計に……──馬鹿みたい」
リダは急に思い出したのか、名を出すのもおぞましいというように、小さな体を震わせた。その震えはすぐにメイサにも伝染する。自分の中に突如沸き上がって膨れた恐怖に戸惑いつつもその細い肩を抱くと、彼女は肩の力を抜いて、大きく息を吐いた。
「ああ、ごめんなさい。……だから薬が手に入るまではどうしても夜の務めをしたくなくて……結局は間に合ったので良かったのだけど」
「え──薬って?」
「ルティリクス殿下にご相談したの」
メイサの胸の内で、情報の欠片がかちりとはまり、一つの絵になった。それは思い描いていた絵とは随分異なって、思わず呆然と立ち止まる。
「本当は──そのときにもう止めろと言って頂きたかったのかもしれないわ。私は、本当は甘えたかったの。でも、あの方は私が任務を遂行出来るように、
リダは独り言のように言いながら、メイサから荷物を受け取ると門の衛兵に身分証を出す。そして許可を貰うと、先ほどの顔が嘘みたいな屈託の無い笑顔をメイサに向けた。
「──それじゃあ。私、もう行くわ」
「え──あ、ああ。リダも、体に気を付けて」
あまりにあっさりと背を向けられて、メイサはそれ以上の言葉を継げなかった。というより、リダの話の途中から、耳が聞こえなくなった。薬の使い道を知って、半分以上頭が働かなくなってしまっていたのだ。
(私、サイテーなんて言ってしまった。でも──)
胸を刺すのはそんな後悔か。いや──それ以上の何かに胸を突き破られていた。メイサは唇を噛み締める。
彼はメイサから取り上げた薬をリダに与えようとしたのだ。役に立たないメイサから取り上げて、リダに。そしてそれは正しい判断だった。
メイサは、今、おぞましげに体を震わせる彼女を見て……怖いと思ってしまった。もしリダのようにアステリオンにいいようにされれば、メイサはきっと昔の傷を広げるだけだっただろう。きっとそれほどに自分は弱く、シトゥラの娘として失格で──やっぱり彼の言う通りに〈役立たず〉だったのだ。
ザク、ザクと音が響いてメイサははっとする。見送りも忘れていたことに気が付いて顔を上げると、リダは門の向こう、砂の被さった石畳の上に足を進めていた。そして急に言い忘れたとばかりに、振り向く。そして荷物をその場に置くと、メイサに駆け寄った。
「──メイサ、あなた、私の代わりになろうとしてくれていたのでしょう?」
「……」
下心までがばれていたのと愕然とするメイサにも、リダは穏やかで大人びた笑顔を向けた。
「あの三日間、私随分楽しかった。やっぱり寂しかったの。あんな大役を預かって、張りつめていたし、他の女に気を許すわけにはいかなかったしね。あなたが私に近づいた理由を知っていても安らいだわ。いえ、──それがあまりにあからさまで隠せていなかったから、逆に安心したのかも」
「……」
(そ、そうなんだ)
どうやらリダはメイサよりも一枚も二枚も上手だったらしい。知らずに姉ぶっていたことがあまりに恥ずかしく、思わず赤くなるメイサの前で、リダはくすりと笑うと続けた。
「代わってあげても良かったの。でも、なんだかあの男──アステリオンが喜ぶのが目に見えて許せなくなってしまったのよね。変な話だけど。それにあなたにはもっと似合いの仕事があると思うの。殿下もきっとそう思われて、あなたに────」
「え?」
そこで急に口をつぐむと、リダはまるで初めてメイサを見たような顔をした。そして直後、微かに首を振ると、後に続く言葉を飲み込んだまま一歩後ろに下がる。
「いえ、それはどうやら私が口にすることではないわ。では、お元気で」
「リダも」
黄色い砂が春の風に煽られて、彼女の姿を霞ませていく。メイサは小さくなっていくリダの影をじっと見つめた。
(私に似合いの仕事……)
彼女の言った言葉の意味を噛み締めながら。