裏庭はメイサのお気に入りの場所だった。アウストラリスでは水が貴重だけれど、王宮で水に困らないのはこの場所を含めていくつか城内に湧いている泉のおかげと言って良い。いや、この泉があるからこそ、王宮はここに建てられたのだ。
この泉が他と比べて特徴的で貴重なのは、温度は低いけれども、国内では珍しい〈温泉〉であるからだった。
アウストラリスは内陸部に位置するため、冬場の冷え込みがひどい。北部のムフリッドほどではないけれど、このエラセドもそう変わらなかった。
そのため昔からこの温泉は好まれた。そのまま湯につかれるほどの暖かさは無いものの、城内を巡らせれば暖房代わりになる。
こんこんと湧き出る澄んだ水は心をも洗う。冬場は、その表面から微かに立ち上る湯気にも癒される。
昼間は宮中の使用人の皆が皆、飲料用の水の確保から洗い物など、ここを利用していて、こんな風に陣取る訳に行かないが、人が寝静まる真夜中であれば話は別だった。
女官見習いの部屋は狭く、大量の湯を持ち込む場所も無い。もちろん、湯を通している場所もあるのだけれども、それは王宮の主要な部分のみだ。
いつもメイサは使用人用の浴場を利用していた。けれど、メイサは髪を染め直す時だけ、ここで人目を忍んで水を使っていた。こればかりは人目の多い場所でする訳に行かなかった。特に明るい場所では。一度染め粉をきちんと落とさなければむらが出来て、上手く染め直せなかったからだ。
その点、寝静まった夜の裏庭は好都合。メイサは深く被った帽子を脱ぎ去り、纏めていた髪を解く。毛先を持ち上げて月光に翳す。被っている布で誤摩化せているため、髪は以前ほどこまめに染め直しておらず──ではなくて、逆だ。染め直す時間と場所が無いから隠して誤摩化しているだけだけれど──所々、赤みが増していた。それを見て、まるで戒めが解かれたような気分が胸に広がるが、すぐに危険を感じる。
(継承権争いは終ったけれど……まだシトゥラのものとばれるわけにはいかないわ。私はまだ何も成せていないのだし。──早く戻って染め直さないと)
そう決意しながら、濡れないようにと上着を脱ぎ、ふわりと暖かい湯で手早く髪を洗い流した。
髪の毛先を流しながら、メイサは考えに沈み込む。リダの言ったこともだったけれど、それ以上に気にかかっていることがあった。結局、あれから胸騒ぎは収まらなかった。──あの名前が心に浮かんでからずっと消えない。心のどこかに巣食っている。
(スピカ)
昼間聞いた話では、あの皇子はとうとう〈あのとき〉に彼女に言った言葉を実行するらしい。
『僕は君を正妃にする』
髪をゆっくりと絞ると、闇の色をした水滴と同時に、心の中にしまい込んでいた、あの夜皇子がスピカに贈った愛の言葉がいくつもメイサの記憶の箱から落ちて来た。
(……ずいぶんと大きくでたものね)
今更ながらにそう思う。なぜならスピカはシトゥラから縁を切っている今、ジョイアではただの娘でしかない。家の後ろ盾を持たない、ただの美しい娘。もしあの皇子がルティのようにスピカの力を利用しようと考えるのならば、話は別かもしれないけれど、『好きだからっていう理由で娶るんだろう?』あんなことを言ってるくらいだし、まず力のこと抜きでスピカを后に据えるつもりだと思う。
第一、あの力は秘められてこそ力を発揮する特殊なもの。知られて警戒されれば終わりなのだ。外交に使うとしても──周辺諸国で一番使いたいであろう、アウストラリスにはもちろん使えない。もしアウストラリス以外に使うとすれば、アウストラリスは隣国がその武器を使って力を増すのを放っては置かないだろう。
そもそもよく考えてみれば、ジョイアの皇子に力を知られているとなると、一番探りたい彼の国のことは探れなくなるのはアウストラリスとしても同じなのだ。そういう意味では、皇子が記憶を失ったままスピカを手に入れられるのが最善──という、カーラやルティの思惑も理解できる。もしそうなっていれば、確かにルティがスピカを王妃にすることは
(その辺は、あの皇子の〈悪運〉の強さというか何というか)
メイサは髪を拭きながら、ぼやく。なんとなく『想いの強さ』など臭いことは言いたくない。あのとぼけた皇子とその言葉を並べると、むっとしてしまうのはなんでだろう。
(……となると──)
横道に逸れそうな思考を無理矢理戻した。アウストラリスと違ってジョイアには王位継承者が少ないと聞く。あらかじめ内部にあまり敵のいない国ではスピカはあまり使いようがないのではないか。むしろ知られればよけいな敵が増えて身の危険が増すだけだ。と考えると、やはり皇子はスピカの力を隠すに違いなかった。つまり、スピカはやはりただの平民の娘としてジョイアの皇室に嫁ぐこととなりそうだ。そう、あの女官たちが言っていたように、〈お伽噺〉のような縁談が進められるのだ。
メイサはぼんやり浮かんだ思考をそう纏めた。
(これからが見物ね)
もし皇子が平民の少女を娶れば、周辺各国でもあまり例のない事態だろう。というより、周りが黙っているとはとても思えない。そしてどうやらメイサが心配しているのはまさにその〈波乱〉のようだった。
スピカがもしシトゥラとの縁を繋げば──アウストラリスの貴族、シトゥラの娘として、皇子に嫁ぐとすれば。それは国と国を繋ぐだけの重みを持つに違いないのに。少なくともただの平民を妃にすると言うよりは政治的に意味があるはず。
でも先日の誘拐の件を考えれば、皇子はきっとそれさえも求めないのだろう。それほどには潔癖に見えた。そしてその潔癖さが……メイサには彼の幼さにも見えていた。
不安の根がどうもその辺に生えていそうで、気になって仕方が無い。メイサはじっと考えつづけて、ふと気が付く。自分が何に対して気をもんでいるのか。
(そうだ。あの皇子がまだ〈幼い〉ってことは)
そして頑丈な城壁であるはずの
(スピカが皇子の妃となったからといって、安心するのは……まだ早いのかもしれない)
なぜか、昔ルティがスピカに付けた印が再び頭に浮かび、メイサはその痛みに思わず胸元をぎゅっと押さえる。なぜ、こんな? ──ルティがスピカを王妃にすれば──などと考えたからなのだろうか。
(馬鹿ね。私ったら。それは
メイサは大きくため息をついて、嫌な想像を押しやりつつ泉の淵から立ち上がる。そして小さなくしゃみをした。真剣に考え事をしている間に、湿った髪のせいで体までも冷えてしまったらしい。慌てて部屋に向かおうとして、何か視線のようなものを感じてふと振り返った。
「?」
しかしそこには月明かりに照らされる泉があるだけ。微かな湯気の向こうには深い闇が広がっていた。
(だれも、いないわよね。──こんな時間に居るわけないか)
メイサは湿った髪をまとめ直し、帽子を深くかぶる。そしてもう一度だけ泉に浮かぶ満月を見つめると、自分の部屋に足を向けた。
満月の光は庭を明るく照らす。しかしそれによって出来た影は光の強さの分だけ濃い。その中で光る二つの目は闇に紛れ、ただひたすら女の後ろ姿を追っていた。