低く甘い声。耳元で囁かれた言葉がミュラの胸を焼いている。あの夜からずっと。
*
カーテンの隙間から差し込む光が部屋を照らしていた。白い筋は琥珀色の液体を満たしたグラスに行き先を阻まれ、乱反射された光は天井に美しい模様を描いている。
ミュラは足元の鞄の中身を点検し終わると、ベッドに腰掛け、グラスの中の冷やされた茶を口に含む。
(いよいよね)
旅立ちの時は近づく。あと少しで迎えがやって来る。その時からミュラの任務が始まるのだ。
『皇子を落としたあかつきには──妃にしていただきたいのです』
あの日、ミュラの願いをルティリクス王子は聞き入れてくれた。
──その願いを叶える為には、ミュラは死にものぐるいでジョイアの皇子を落とさなければならない。
聞けば、そのジョイアの皇子はこの周辺では他に類を見ないほどの〈美少年〉らしい。〈美姫〉と言っても良いと誰かが言っていたくらいに。そしてその皇子がご執心なのは正統派の美少女。顔では敵わないのだ。
ミュラは正統派の美少女ではない。それを彼女は自分で自覚していた。
しかし、諦めることは無い。彼が言うには、彼女は
とにかく二人の間に亀裂を入れることが重要だと言われた。そして地位を手に入れられればなお良い、と。〈地位〉という言葉──それはミュラの野心をくすぐった。分かっているのだ、彼は。ミュラがどんな覚悟を持って彼に近づいたかを。
ミュラは〈成り上がり〉という偏見で見られることも、〈ジョイアと通じた裏切り者〉だと見られることもどっちも辟易していた。それを払拭する為には、家柄を上げるしか無い。もし次期王の妃にでもなれば、側室の一人にでも加えてもらえば、この不遇からも抜け出せるのではないかと思ったのだ。
父も姉も役に立たないのであれば、自分が頑張るしかない。
アウストラリスでは〈力〉が全てだ。力が手に入れば、ミュラを馬鹿にする人間を黙らせることができるのに。いつもミュラはそう思っていた。だからこそ、彼の器に気が付いてからはもう夢中になった。外見ならば、他の王子もそれなりに麗しい。しかし、それだけでは足りない。もはやミュラは王になる男にしか興味が無かった。
そんなミュラだから──大きな声では言えないけれど──ジョイアの皇子にまったく興味が無いとは言えなかった。ジョイア──豊かだと聞く隣国の妃──そこに広がるのはどれだけ華やかな世界なのだろう。
その地位がもし手に入るとなると──それが愛妾であったとしても、アウストラリスの妃とは待遇が比べ物にならないのだろう。お伽噺の姫ような生活を想像して、あまりのきらびやかさに、恋に輝いていたミュラの目は曇る。
(でも──やっぱり、ルティリクス殿下ほどの男はそうそういらっしゃらないし)
そう自分にいい聞かせながらも、ミュラは野心と恋心の狭間で揺れ続けた。
『それが出来るくらいの女なら、お前が望むまでもない。こちらから求めて妃にするだろう』
ミュラはその意味をずっと考えた。そう言われた時の笑顔の意味を考えた。
ルティリクスが何を手に入れたがっているかはミュラはよく知らなかった。彼は一人で何もかもやってしまう。役目を与えられ、その意味を問うても任務に必要なこと以上を教えてくれることは無い。あとは自分で考えるしか無かった。
城内には彼がジョイアの皇子が執心している娘に横恋慕しているなどという無責任な噂が流れていたが、そんなことがあるはず無い。横恋慕──それほどあの方に似合わない言葉があるだろうか。馬鹿馬鹿しかった。あの方は一人の女に執着などされない。そして、執着されるのならば、それは──ミュラ相手でなくてはならない。
だけど──もし、そういう事実があったとしたらと考えた。そうして辿り着いた答が一つある。
(もしジョイアの皇子を落とした上で──ルティリクス殿下が、ジョイアを手に入れれば? もし──殿下が欲しいのが〈ジョイア〉であるならば?)
カルダーノの会談で、ジョイア宮に既に二人いると言われていた。ミュラは三人目。ジョイアを内側から攻略──殿下が抱えるそんな野望が目に見えて来たような気がした。彼ならやってしまうのではないか、そんな予感が胸を焼く。ミュラの憧れる男は、それほどに猛々しい姿をしていた。
ミュラに与えられたのは、その為の重要な任務なのかもしれない。
「ジョイアの皇子もルティリクス殿下も手に入れる」
そう自分に言い聞かせると、急にミュラは腹の底から力が湧いてくるのを感じる。
「お時間です」
ミュラの気持ちが固まるのを待っていたかのように扉が叩かれる。
「──今行くわ」
覚悟とともにベッドを叩くと埃が光の中をキラキラと舞い上がった。硬くて、軋む、粗末な寝台。王族の部屋とは随分造りが違うそれがミュラは大嫌いだった。
側に侍る女官は、閨に呼ばれた時だけ、柔らかい寝具に包まれて眠ることができていた。
(今度はこの粗末な部屋には戻って来ないわ)
そうだ、ミュラが今度この王城に戻ってくるときには、最上級の品に囲まれて、そして、最上級の男の腕の中で眠るのだ。
「私は今からエリダヌスになる」
──そうして、幸せを掴んでみせる。
ミュラは立ち上がると鞄を手に取る。そしてその幼い顔に野心を滲ませて、扉を開いた。
* * *
シトゥラ家──アウストラリスの末王子の生家があるムフリッドへと一台の馬車が道を急いでいた。馬車の車輪が荒れた大地を削り、黄色い砂埃が辺りに舞い散った。
ミュラは天幕に覆われた車内で熱心に手元の書簡に目を通していた。ジョイアからのその書簡がミュラの元に届けられたのは、王宮を出る直前だった。普段馬車の中では眠っているミュラだけれども、今回の旅はのんびりしていられなかった。期日まで半月を切っている。出来ることは出来るうちにしておかなければならなかった。
今回ミュラがシトゥラを経由するのは、ジョイア北部からの入国を望まれたからだった。協力を得る貴族は北部ケーンの者。しかし準備のためケーンまで行くと時間的に無理があるため、シトゥラ家で一度準備をしてから入国する手はずとなっている。
そのシトゥラ家は謎に包まれている。他の家のものを極力排除していると聞くが、その理由にミュラは前々から興味を持っていた。もちろん探らせてなどくれないだろうが、なんといってもあのルティリクス王子が幼少期を過ごした場所。どのように育てばあのような魅力的な人間が育つのかにより興味があった。資質ももちろんだろうけれども、きっと教育の賜物なのだろう。
しかし馬車が走るムフリッドは随分と寂れた場所だった。荒れた土地に僅かに生える草は大地と同じ色をしていた。
──乾いている。ミュラの育ったカルダーノにある水分の十分の一もあるのだろうかという乾きようだった。
この場所に本当に人が住めるとは思えなかった。北部は貧しいと聞くけれど、これでどうやって財を築いているのだろうか。
そんなことをつれづれと考えながら、はっとする。
(ああ、そうそう、余計なことを考えている暇はないのよ)
ミュラは砂埃が髪に付くのを気にしつつ、もう一度書簡を確かめる。
それによるとジョイア宮に忍んでいるのは近衛隊のグラフィアス。そして第一皇女の侍女であるミネラウバだそうだ。
グラフィアスというのは、ルティリクスがジョイアに忍んでいたときに作られた仲間だそう。寝食を共にして、友情を暖められたとか。友情、という言葉がどうしても空に浮いて見えたけれど、ミュラは気にせずに次に進む。それよりも、気になるのはこの女。ミネラウバについての情報だったからだ。
同じく彼がジョイアにいたときに、作った仲間だというけれど、
そう考えると、敵対心でミュラの心が燃え上がる。ルティリクスの
万が一彼が、もう既に他の女の前では違う表情をしているかと思うと、自尊心が持たない。そんなことは許せなかった。アウストラリス城内で
(あぁ……違う)
ミュラはふいに蘇る女の影を振り払おうと首を振る。しかし瞼に張り付いた影は去らなかった。
──あの女。最近入った、妙に〈目立たない〉女官見習い。しかしミュラはいつも気を付けているだけあって、自分を脅かす存在にはすぐに反応した。
あんな風に隠しているのは、わざとなのだろうか。それとも鈍いだけなのだろうか。露出の少ないしかも体に合わない地味な服に隠されていたけれど、ミュラの勘は誤摩化せない。近づいてよく見たけれど、やはりミュラの自慢の体と良く似た体つきをしていた。その上、顔で負けていた。特に美しく澄んだ大きな茶色の瞳と肉感的な唇が印象的な、華やかで、しかし上品な顔立ち。
ミュラより年上なのだろう──歳相応の成熟した女の色香を漂わせていた。何も過不足が無く、均整がとれていた。──ただ、髪だけがくすんでいて艶もなくいまいちで。もっと手入れをするか染めるかすれば、どれだけ男の目を引くだろうと思う。それに気づかずにいる様では、宮中でのし上がっていくことは出来ないのだけれど。
ミュラは自分の顔が幼いことを自覚していて、気にしていた。
(殿下が褒められるのは体だけ。殿下が愛されるのは体だけ……)
童顔に釣り合った華奢な体であればまた別の魅せ方もあったと思う。それでも一部分でも他より優れていれば、優越感を保てたのに。
ミュラは彼女が彼に近づいたのを見て即座に牽制した。幸い、派手な外見の割に大人しそうで、そんなに野心もなさそうだったけれど(野心があれば、もっと着飾って、目につくように振る舞うだろう)──彼の方は分からない。あれだけ傍に寄って話していたのだ。もう目に留めているかもしれない。ミュラの体を褒めたくらいなのだ。さらに美しければ、きっと、今回の役目にもそちらを選んでしまう。彼にとっては、役に立つかが全て。その為には、美しい方がいい、そう思われても何ら不思議ではない。
そんなことを考えると、ミュラはエラセドを離れるのがひどく怖くなった。居ない間にミュラの居場所が乗っ取られていそうで。念のため、皆の前で注意を引いて他の取り巻きの女にも火をつけておいた。彼女が全ての女の敵であることを、知らしめておいた。
『──アステリオン殿下が〈リダ〉にされたのと同じように、ルティリクス殿下も彼女を寵愛されるかもしれない。殿下がお一人を選ばれる、そんなこと、あってはならないわよね?』
特に、あの女が被っている顔を覆う布をとらせてはならない、あの印象的な顔は隠しておくべきだと念を押した。
今考えるときっと女官長もミュラと同じ考えだったのだろう。女官にわざわざ布を被せたなど例を聞かない。あれはいらぬ争いの元だと思われたのだ。
とにかく抜け駆けは許されないと、ミュラは言って聞かせた。頷く女たちの目に疑いや反発が無いことにミュラはひとまずほっとした。自分より先に抜け駆けされては困るのだ。
けれど──、あれでは、どう防いでも時間の問題かもしれない。王太子となった今、彼は欲しい全てのものを手に入れられるのだから。ミュラが作った垣根を軽く飛び越えてしまうかもしれない。
その前に。ミュラは自分の持てる武器で地位を固める必要があった。
(殿下の目に他の女が映る前に〈妃〉の座を手に入れるのよ)