8.野心と恋心の狭間で 03


 ルイザはひたすらに口うるさくミュラを諭した。ミュラは言葉に含まれる刺を感じたようで、「この女もきっとルティリクス殿下のお手が着いているのだろう」とすぐに察しているようだった。敵対心を燃やしているのだ。彼の周りの女──特に身分のある女は常にそうだった。ルティリクスが好まないので、彼の前では諍いを避けるけれども、裏ではいつもただ一人の正妃の座を狙っている。
 当然ルイザのような端女にその座は巡って来ない。ミュラは自分の立場を忘れて、ルイザをそう見下している。それがルイザの敵対心を煽るなどと思ってもみない。
 ルイザはそんな幼いミュラが暴走するのを止める役割を担っている。もともと主であった〈メイサ〉がシトゥラから姿を消したためルイザの仕事は無くなっていた。当主の言いつけで深入りするなと言われていたけれど、さすがに長い付き合いをしていれば情も湧く。もともと好ましい少女であればなおさらだ。
 出逢ったころの彼女は羽根の折れた小鳥のようだった。だけどまだ羽ばたこうとしていた。シトゥラの娘は羽根を切られて飛ぶことを諦めているのに、彼女だけは、もがき、そしていつかはと時を伺っていた。
 ルイザはそんなメイサに密かに憧れ、そして慕っていたから、彼女がいなくなったことに心を痛めていたし、内心はこのような子供の守り・・・・・などは面倒だと思っていたけれども、ルティリクスからの頼まれごととなるとどうしても断れない。お前が適任だと言われれば、もう、任務を行うしか無い。それはシトゥラの娘ならば誰でもそうだった。そう管理されているのだ、昔からカーラによって。
 分かっているのに抜け出せないのは、あの方がそれだけ魅力的だからだ。彼も自分が女たちにとってどういう存在かを良く知っている。そうしてそれを存分に利用するのだ。
 王子の心を求めて、女たちは働く。彼の為に働く。万が一の可能性を夢見て。

(この女には、無理ね)
 ルイザは意地悪くミュラを見つめる。確かにこの体は美しい。今までに見た中では、二番目に位置するくらいに。でもミュラはメイサには劣る。――殿下の〈初めて〉の女性には。
 ルイザが彼女の元にやって来たのは五年前。成人の儀の少し前のことだった。
 主人となったその少女は十五歳を過ぎるころから既に女の色香を身につけられていた。匂うようだとシトゥラの侍女の間でも話題になっていたものだ。
 二十を過ぎたころには、その成熟した美しさは輝くばかりとなった。──あれ以上の女となると、そうそう見当たらない。少なくともアウストラリス国内には。ルイザは自分が磨き上げた彼女をそんな風に誇りに思っている。
 慣例を破ってまで、彼女をルティリクスの最初の女性とされた意図を、当主は未だ語ろうとしない。だからシトゥラの誰もが想像するが口にすることは出来ない。しかし、当事者であるお二人を除けば、皆、それがどういうことなのか分かっている。
(カーラ様は、あの殿下をも未だに管理されていらっしゃる)
 それはきっと次期当主・・・・がシトゥラに戻るまで。いや、シトゥラに置ける彼の役割の重さを考えると、もしかしたらそれ以降も続くのかもしれない。
 彼をゆるく縛る細い鎖の存在に、思わず背を震わせる。
(あの方はそのことに気づかれていらっしゃるのだろうか)
 そこまで考え始めた時、ミュラが「お茶」と催促し、ルイザの気が削がれる。
 ルイザは気を取り直して椅子から立ち上がると、茶を雅な椀に注いだ。美しい緑色の液体が白磁に注がれていく。どうやら今日の茶葉はティフォンのものらしい。アウストラリスで好まれる茶色の渋みの強い茶と違い、見目にも爽やかで、そして香りも味も甘い。どう考えても高級品だった。こんな役目をいただかなければ、ルイザのような者は一生口に入れることは無かっただろう。

「あれが例の女ね?」
 ミュラの声にルイザははっとする。彼女の視線の先を見ると、ひと際目立つ少女が目に入る。ルイザは思わず息を呑んだ。
(ああ。なんて──美しい)
 淡い金色の髪は結い上げられている。結い上げられているにもかかわらず、光が溢れるよう。体を締め付けない緩やかなラインの黄色のドレスに包まれる華奢な肢体。新緑にも負けない輝きを持つ大きな緑の瞳、手に持った白磁と同じくらい白い肌。甘そうな白桃の唇。シトゥラが求めて止まない、少女。これが──スピカだ。そうに違いない。
(なるほど)
 どうやら美しさの質が違うのだ。ルイザは長くシトゥラに務めていたが、メイサ以上に美しい娘を見たことが無かった。だからスピカを見たという者達が、メイサのあの美しさを知っていながらスピカをもてはやすのか理解できなかった。が、全く別の輝きを持つ宝石ならば──分からないでも無い。
 彼女はあと一週間後、ジョイアの皇太子妃に収まる。それを阻止するのが、ルイザとミュラの役目。
 ルティリクスが言うには、あの娘は、随分と嫉妬深いと聞く。聞いていた話からは想像できなくて何度も確認した。が、彼がそう言うのであればそうなのだろう。そこでミュラの出番だ。

 皇子を誘惑して、落とす。全部奪えずとも、もし口づけの一つでも奪えれば、彼女は黙っていないだろうと。
『くちづけですか? ただの・・・くちづけ?』
 そのあまりの独占欲に笑いが出そうになって、ルイザは問い返した。
『ああ、それで十分だ。まあそれ以上でも全く問題はないが……あいつには無理だろう』
 彼は珍しく面白そうに笑った。子供がいたずらを仕掛けるようなお顔。ルイザもこんな顔は久しく見ることは無かった。
(あいつというのはミュラ様のことかしら? 彼女には予め期待していないということ?)
 不思議に思ったけれど、彼が次を口にしたため思考はそこで遮られた。
『スピカもシリウスも慣れていない上に随分と潔癖だ。そこにつけ込め。スピカが揺れれば、それで良い。あとは宮に潜む残りの者が彼女を宮の外におびき出す手はずだ。ジョイア宮は警備が厳しすぎて彼女を誘拐するのは難しい。が、本人の意思で外に出るのであれば、話は随分と違うからな』

 ガタン、という音にルイザは我に返る。幻影の中の笑顔にぼうっとしていたのだ。
「ミュ、いえ、エリダヌス様」
 シトゥラでは既にエリダヌスで通していたというのに、ぼうっとなるとどうしてもその名が漏れかける。彼女がエリダヌスという柄ではないからかもしれない。この娘にはやはり神話の川の名よりも、男を淫らに誘う花の名の方が似合うようだ。
 エリダヌスに扮したミュラは、カツカツと大きな靴音を立ててドレスを翻す。辺りに彼女の纏う花の香りが漂っていく。食事の席にはそぐわないというのに、彼女の鼻は麻痺しているのか、全く気にしない。
 彼女が向かう先を見て彼女が食事が済んでも食堂を出ない理由を知った。彼女はさっそくスピカに会うつもりだったのだ。
 ミュラはちらりと後ろを見るとルイザに目配せする。打ち合わせ通りに、という意味だろう。
「あらあらあら」
 ミュラは大げさに声をあげて、牽制するようにスピカに近づいた。何事かとスピカは顔をしかめている。
「遅いお出ましですこと。夜のお勤めがあるのですものね、仕方ないとも思いますけれど」
「いいえ、エリダヌス様。昨晩の伽はこの方ではなかったそうですわ」
 ルイザは慎重にミュラに合わせた。基本的には合わせるようにと言われている。朝から宮に流れている噂を知っているくせに、とぼけているのは、スピカを煽っているのだろう。こういう苛めに関しては天性の才能を感じる。ルティリクスがそこを汲んで任務を与えたことは、もちろん彼が言うはずもないだろうし、本人は気が付いていないみたいだけれども。
「え? 皇子の愛妾って、この子でしょう?」
 すかさずミュラは大げさな声をあげてスピカの心に傷を入れる。〈愛妾〉──その立場が屈辱的なのは自身を振り返ってよく知っているのだろう。やはり見事だと思う。
(殿下はさすがね。適任だわ)
 スピカはこういった悪意に慣れていないのかもしれない。なんだか呆然としている。
 傍にいたスピカの侍女がスピカの代わりに腹を立てた。
「どなたがそんなことを言われているのです!」
「その辺の侍女を捕まえれば、みんなそう言うわよ」
 ミュラはそこであっさりと事実を口にした。朝、噂を拾って来たのはルイザだが、スピカはこの宮では全く受け入れられていない。驚くほどに。ここでは血統やら身分やらがアウストラリスに比べてより重視されるのだ。豊かな分だけその地位に対する妬みが大きいということ。当然と言えば当然だった。
 ミュラはさらに追いつめようと、スピカの体を舐めるように見て、自分のご自慢の体と比べている。スピカは体も美しかった。胸はそんなに大きくはないけれど、その分形よく、しかも柔らかそうに膨らんでいる。触れたらどれだけ気持ちよいだろうとルイザでも想像するくらいに。しかし、肉感的なミュラの傍に並ぶと幼く見えるのは当然と言えば当然だった。ミュラは、その僅かな弱点を見逃さない。スピカが気にするだろうことをはっきりと口にした。
「その割には……なんというか。お子様・・・なんじゃないの、まだ」
 今のは悔しかったのだろう。スピカは僅かに眉を寄せ、拳を握りしめている。
「外見では分からないのかもしれませんわ。なんといっても、今まで誰も寄せ付けなかったあの皇子を落としたのですもの。大人しいふりをしていても、案外……」ルイザは息が合っているか最新の注意をする。下世話な主人には下世話にあわせねばならない。そうでないと逆に出過ぎることになる。ルイザは心を殺して侍女として正しい姿を演じようと心がけていた。
 ミュラはそんなルイザに満足げに頷くと、この清純そうな少女に付いて回るには致命的と言ってもいい烙印を押そうとする。
「ああ、そうなのかしら。寝台では大胆なのかもしれないわね」
 そこまで言うと、さすがにスピカは怒りに震えていた。その可憐な顔に似合わない苛烈な瞳に、微かな既視感を感じて、ルイザは一体どこで見たのかと首をひねる。
「そういう下世話なお話は、こんな場所でされない方がご自分のためでなくって? 聞いていて気分が悪いわ」
 突然後ろで上がった声に、ルイザは飛び上がりそうになった。下世話という響きに自分の内心を読まれたかと思ったし、まず、食堂には話に割って入るような人間がいないと思っていたのだ。ミュラも突然現れた闖入者に勢いを削がれている。
 振り向くと、そこには儚げな美少女。スピカよりもさらにか弱そうな、華奢な大人しそうな娘。なのに、今の言葉はひどく毒が籠っていて戸惑った。ミュラも、さらにスピカもその侍女も同様だったようだ。他に発言者がいないか探している。
 ミュラが辛うじて口を開く。しかし突然開かれたびっくり箱に心臓が対応していないようだった。
「な、なによ」
「南部の方はこれだから。もっと趣味の良いお話などされれば良いものを」
 その穏やかな顔が口元を歪めてにたりと笑う。その灰色の目がミュラの動揺を探っている。ルイザはとっさに目配せする。この相手は危険だった。ミュラもすぐに心得たらしく、とりあえず話を切り上げる。
「覚えてらっしゃいよ!」
 と──こう言った場合によく使用される捨て台詞を吐いて。

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2011.05.14改
2010.08.17