「なに、あの女、むかつく」
憤ったミュラは女の方を睨みつつ食堂を後にした。赤いドレスの裾を軽く踏んで、バランスを崩し、そのことにも舌打ちする。
「まさかあれがミネラウバじゃないでしょうね?」
外見に思い当たるものがあった。プラチナの髪、青い瞳──? もっと良く見ていれば良かった。頭に血が上って見逃してしまった。でもプラチナというにはくすんでいたような気がするし、目は──悔しいけれど怖くてしっかりとは見れなかった。──しかし、あの毒はルティリクスの好みには合わない気がした。あれは単独で動くタイプの女だ。男に寄りかからない、自分が主導権を握りたがるミュラの苦手なタイプ。
「いいえ」
ルイザがミュラの考えを肯定してくれる。しかしルイザは不思議そうな顔をしていた。
「あの女は──北部ケーンのシェリア様のはずです」
「ケーン?」
「昨日お会いしたはずでは? パイオン卿の娘ですわ」
ルイザは「大丈夫ですか?」と言いたげな目でミュラを見つめていた。
(ああ、そういえば)
そんな名をどこかで聞いた気がする。そうか、昨日のあの皇子との対面のときに。ミュラの目には皇子しか映っていなかったから他の女には目がいかなかったが、そういえばあんな女がいたような気もした。服が違ったからか、存在感が無かったからか、気が付かなかった。
ミュラは焦る。ルイザが不審げにするのも分かる。昨日会ったばかりの人物を覚えていないというのは……理由が理由だけに余計まずい。
「ああ、あんまりに印象が違ったから。──それに私はミネラウバの外見をよく知らないもの。ちょっと勘違いしただけよ。で、ええと、シェリアって? それからミネラウバはなんで昨日顔を見せなかったの? 会うって言ってたのに話が違わない?」
ミュラは苦しい訳で適当に誤摩化して、忙しく話題を変えようとした。ルイザは疑わしげにミュラを見つめていたが、やがて口を開いた。
「まずシェリア様については、今回は主に、宮仕えをされているパイオン卿の奥方にご協力いただいているのです。本物のエリダヌス様との入れ替えには書類の書き換えも必要でしたし。まあ、あの娘はそのことを知りませんが」
「どうして?」
「いろいろ事情があるそうです」
ミュラは不思議に思ったけれど、ルイザはそれ以上語ろうとしない。彼女は口が堅い。これまでも作戦に必要なこと以外ミュラに知らせようとしなかった。そう言い聞かされているのだろうか。それともミュラが気に入らなくて逆恨みでもしているのだろうか。
考えても分からないので、ミュラは仕方なく想像する。やはりミュラが感じ取ったように、あの手の娘は扱い辛いのかもしれない。
「そしてミネラウバ様は」
「様?」
「ああ、彼女は、ジョイアの
格の違いを確実に強調されたような気がして、ミュラは機嫌が悪くなる。ルイザはミュラが彼女を馬鹿にしているのが気に食わないらしい。それも仕方ない。ミュラだって自分より身分の高い女に見下されれば腹が立つ。しかし、ミュラは下々の者には牙を剥かないことにしている。労力を割くのが無駄だからだ。
「そしてあなたと同じ皇子の妃候補です。しかも
ルイザは微かに微笑んでいるかに見えた。しかし、ミュラはその顔にも、含まれた皮肉にも気が付かないくらいに衝撃を受ける。
「なに? 私だけではなかったというの? ──なんで二人も?」
確かあの場にいた少女はミュラを合わせて三名。妃候補は四名だというから、姿の見えなかった女がミネラウバということになる。
(でも、どうして。そんな話は聞いていないわ)
苛立つミュラにルイザはあっさり言う。
「保険でしょう」
なんの──と問うまでもない。互いが互いの保険なのだろう。ミュラが失敗すればミネラウバが、ミネラウバが失敗すればミュラが皇子を手に入れるしか無い。
ふつふつと沸き上がるものを感じた。ミネラウバ。その名がミュラの心の中で、協力者の欄から僅かに外れる。
「一度会っておいた方がいいと思うけれど」
「ああ、打ち合わせをしたいと彼女も言われていました。それから彼女は幼名のミネラウバではなく、タニアという名でこちらにいらしてます。表向きはその名で通して欲しいとか」
ルイザがミネラウバに対してミュラ以上に丁寧な扱いをするのが気に食わず、思わず鼻に皺を寄せる。
「ふぅん」
(一体どんな女なの。大臣の娘でありながら、あの〈皇子〉よりもルティリクス殿下に落ちた女……)
ミュラは昨日対面した少年を思い浮かべる。ジョイアの皇子──〈彼〉はたいそう美しかったのだ。どんな言葉で表現して良いかわからないくらいに。放たれる異常な色気に、ミュラは惚けてしまいそうだった。また、自分が男ならきっと押し倒さずにいられないだろうと妙な感想を抱いた。つまりはミュラが素直に負けを認められるくらいの美貌と色香なのだ。あれに張り合おうとするのは馬鹿げている。
あの漆黒の瞳──ミュラの瞳も黒いけれど、あんな深い色ではない──で甘く見つめられれば、大抵の女は、いや男でも落ちるに決まっている。良家の子女ならばなおのこと。
(それを蹴って殿下に落ちるとなると……)
ミュラは首をひねる。やはり理由がよく分からない。好みの問題もあるだろう。しかし、ルティリクス王子を前にこれほどの男はいないと思っていたけれど、男──と呼ぶにはまだ早いかもしれないが、かの美しい少年にミュラは正直ぐらついてしまった。
ミュラの秤はいつしか彼女の予想を大きく外れて傾いていた。
なんといってもあの美貌が〈大国の皇太子〉という座に付随しているのだ。浮かれない方がおかしい。浮ついているのがルイザにばれるのはまずいので隠しているけれど。
(それよりも……)
ミュラはひとまずミネラウバのことは頭の隅に置いておいておくことにした。そうしたとたん、ミュラの瞼の裏には金の髪をした少女が現れた。
ともかく、今腹を立てるべきなのはあのスピカという女だ。ジョイアの皇子を籠絡するのにどんな手を使ったか分からないが、あんな子供みたいな女に妃が務まるものかと思う。さっきルイザとともに彼女に向けた言葉は半分以上は本音だった。
(その座には私の方が相応しいわ)
昨日皇子は優しくミュラに対応してくれた。その記憶の断片がミュラの中で膨らんでいく。皇子があの優しいまなざしをミュラに向け、微笑んでくれる、そんな場面を想像すると、なんだか頭がぼうっとして来る。しかも彼を落とせばルティリクスもミュラに対して態度を改めるだろう。そういう約束をもらったのだから。
ミュラは最高級の男二人に言い寄られる場面を想像する。
そのあまりに甘やかな妄想に、ミュラはなんとしてもそれを実現したくなる。
(ああ、やっぱり頑張らないと。邪魔者は
ミュラは膨れる野心と口元に浮かぶ笑みを押さえきれない。もちろん、その様子をルイザが冷たいまなざしで見つめていることなど、知る由もない。