メイサは暗い部屋で一人沈み込む。
〈闇の皇子〉の話は聞いていた。百年ほど前、あの愚かな戦が起こる前までは、シトゥラの娘のためにジョイアの〈闇〉の家の娘を養女として迎えていたという事は学んで知っていた。だが、昔ルティが見つけた〈闇の家〉の者というのは、都合の良い事に、少年だったというのだ。
十年前、ルティから聞き、それを知った本家の大人たちは色めき立った。シトゥラの失った二つのものが一度に手に入る。これで過去の栄光を取り戻せると口々に言った。メイサはそれを部屋の外でこっそりと聞いていた。――ルティと一緒に。
(なあ、どういうことかわかるか?)
(……わからないわよ)
(お前、なんで不機嫌なんだ? 俺、何かやばいことしちまったのか?)
(そんなことないとおもう。……みんなスピカが手に入るって喜んでるじゃない)
(俺は、お前が喜べばいいって思ってただけなんだけどな。母上はお前の事、籠の鳥みたいって言ってたぜ? かわいそうだって)
(…………)
ルティの言う事は途中からおぼろげにしか理解できなかった。
喜ぶ? そんなわけが無い。メイサは嫌だった。嫌に決まっていた。いままで自分を後継者だと言っていた大人たちが突然のように自分をお座なりにして、見た事も無い少女を代わりに崇め出したのだから。――じゃあ、自分は。今まで自分がやって来た事は。自分の居る意味は。
考えれば考えるほど苦しくて仕方が無くなった。目が回り視界が狭まる。頭が割れるようだった。目眩がして吐き気もした。気が付いたら、その場に臥せっていた。あれがおそらく初めての頭痛だった。
メイサは寝台に横になると、目を瞑っていた。そうすると少しだけ頭痛が和らぎ、考える事が出来るようになる。
あれ以来、頭痛の度に〈スピカ〉の事を思い出す。それか、〈スピカ〉の事を考えると頭痛がするのかもしれない。もうそれはどちらがきっかけなのかも分からない。
シトゥラは間もなく〈スピカ〉を手に入れる。ルティがそう読んだのならば、それはほぼ間違いなく成功する。そして〈スピカ〉は〈クレイル〉となり、メイサは。
(その時は――私は?)
目を開けるとルイザの顔が視界に入った。
「お薬をお持ちいたしました」
「ありがとう」
(私も……このルイザと同じように)
普通の女になってしまうのか。〈普通〉それはシトゥラでは〈役立たず〉と同義だった。祖母はそう言って力を持たぬものを蔑んできた。メイサにはあの蔑みの目は我慢ならない。自分の身に受けると思うと、それだけで死にたくなった。
「ルイザ、変な事を聞いてもいいかしら」
「変な事ですか?」
「〈儀式〉って……辛かった?」
ルイザは眉を寄せる。
「どうしてそんな事を? メイサ様も……」
ルイザが不思議がるのは当たり前だ。
「やっぱりいいわ」
メイサは首を軽く振って誤摩化した。
――シトゥラにとって娘は何よりの宝。たとえ王族にでも出し惜しみするほどに。
外で囁かれるこの家に対する噂。確かにそれは真実だった。しかし、娘の価値、それは一般的な貴族の娘としての価値ではなかった。普通は政略結婚に使われるはずの直系の娘は、噂通り、まず王族に嫁ぐ事は無い。それは、シトゥラの血に〈王〉の血を混ぜたくないがためのことだった。
王の血を引けば、それはいくらシトゥラの血を濃く引こうとも〈役立たず〉とするしか無い。王の高貴な血をこの家に受け入れるわけにはいかなかった。
しかし前例が出来てしまった。その結果がルティだ。
ルティの母親はシトゥラの娘――メイサの母と同じく、カーラの娘。〈ラナ〉にあまりに似ていたがため、嫁がせられない〈ラナ〉の代わりに王に嫁いだ娘だった。
だからルティは、シトゥラの闇を知る。そして関わり続ける。その身の高貴な血など無いもののようにして。
メイサは最初彼が王子だと知らなかった。彼はそう名乗らなかったし、何より祖母がただの孫として扱っていたから。メイサが知ったのは、王宮から使いが来て、彼を「殿下」と呼んだからだ。
それは彼が末の王子で王家から見放されているという理由なのか、それとも本人が望んでいるのかは……閉じ込められたメイサには分かるはずも無い。
分かるのはこの家に巣食う闇だけだ。シトゥラには十六以上の歳の娘に生娘は居ない。そして求められれば誰とでも喜んで寝る。〈儀式〉と称して、そう訓練される。ただ、〈国〉のために。
つまり、そういうことだ。シトゥラの血を少しでも引く娘は――皆が皆、アウストラリスの間者なのだった。手に入れた情報、それこそがこの家の宝。だからこそ異能を強く引き継ぐ娘が大事にされる。そして、シトゥラの血を引く男は――
そう考えたとき、急に胸が軋んだことで気が付いた。〈女〉――そうか、そういう意味……彼にはその役目がある。今は彼にしか出来ない、その役目が。しばらく彼がアウストラリスにいなかったから忘れていたけれど。
メイサはそう言えば、と思いつく。胸を焼くどす黒いものを押さえつけながら言葉を吐き出した。なにを今さらと言われるかもしれない。
「ルイザ……あなたルティと寝たんだ?」
「あ……えぇ、まあ」
ルイザの顔には、困ったような表情が浮かぶ。じっと見つめると、彼女はまごまごと付け加えた。
「昨晩のこと、分かってしまわれました?」
*
『あぁ……あ、ルティリクス、さま、……』
風に乗って廊下の上を声が滑って来る。メイサは枕を裏返し、自分の頭に被せた。
昨晩よりも声が大きい。あれはカーラが呼んだ違う女だろうか。それとも、今日もルイザだろうか。ああなってしまえば声を聞き分ける事など無理だった。なんにせよ――呆れるほどに簡単に落ちてしまっている。
(――情けない。シトゥラの娘が、相手に落ちてしまってどうするの。そんなだから〈役立たず〉なんて言われてしまうのに)
メイサは怒りの矛先を腕の中にいるだろう女にすり替えた。あのようにはしたない声を上げて、きっと彼の日に焼けた背中にしがみついているであろう、その女に。
そうでもしないと身の内の焔に全身を焼き切られてしまいそうだった。
ルティが女を抱く理由を思い出して、動揺した。だけど直後メイサは自分を納得させていた。それは〈儀式〉のため。シトゥラのため。それなら仕方が無いと思った。けれど――
ルイザの儀式はとうに終わっている。そして分家から集められた女は殆どが、儀式をすませた〈役立たず〉の女だった。彼女たちを見て、気が付いた。もう分家にも殆ど儀式をするべき〈娘〉は残っていないことを。
メイサの予想は大きく外れていた。
腑に落ちなくて考えた。そして出した答えは一つしか無かった。信じられなかったけれど、思いついてみれば簡単なこと。彼は、単に女と遊んでいるだけなのだ。
そう考えたとたん、焔が風を含んで大きくなる。耐えきれず、枕元に置いてあった酒瓶をそのまま煽った。喉がカッと焼けた。
彼女はその感情の名を知っていた。だけどそれは認めるわけにはいかない。
彼が謝るまでは絶対に。
彼女が彼を赦すまでは、――絶対に。