現在在位しているジョイア帝──シド陛下は、最愛の妃であるリゲル妃を得た後は側室を娶らずにいた。そして彼女の死後、リゲル妃を娶る前に娶っていたシャヒーニ妃が側室から正室へと変わった。その正室は今、その
つまりは、シド帝には現時点では妃が一人も居ない。歴代の帝でも珍しいことであった。
彼のための後宮はここ十年、まったく使用されることが無い。第一皇子の立太子が近づき、妃が各地から呼び寄せられている今、東側の同じ構造をした皇太子の後宮は活気づいているが、西側のここはまるで墓地のように静まり返っている。それでも定期的な掃除はされているため、比較的居心地が良い空間であった。密会にはあまりにも具合が良い──ジョイアへの忠誠心を失ったものにとっては、特に。
そうして今、薄暗い部屋の中には、近衛隊の制服を着た一人の男と、侍女の制服を着た一人の女が居た。
人目を忍んでの
「では、ミネラウバ様。皇子殿下はスピカ様とお会いできていないのですね?」
「ええ。侍女内の話では、上手い具合に手違いがあったみたいね」
「手違いですか?」
「知らなかった? 殿下の侍女がスピカの部屋を間違っているみたいなの」
「なるほど」
男──グラフィアスはここ連日の皇子の行動を思い浮かべて、納得する。
(彼女の所に現れないのはそういう訳か)
彼はずっと娘の方を張っていた。隙あらば攫おうと思っていたからだ。当然毎晩皇子が閨に呼ぶだろうから無理だろうと思っていたが、しかし彼女の周りに皇子の気配はなかった。結局警備をくぐり抜ける自信が無く、攫うまでに至らなかったものの、皇子の不在を不思議に思っていたのだ。何か動きを気取られて密会の場を移したのかもしれないと思っていたけれども、そこまで頭を回した訳でもないらしい。
「それから、スピカに関する噂話をシェリアが流しているけれど、あれは放置してるわ」
「あの、殿下がスピカ様に惑わされていると言うやつですね」
聞いたところ、随分ひどい噂だった。皇子と彼の
ミネラウバはくすくすと笑うと頷く。「
「……」
グラフィアスは是とも非ともとれるような微かな相づちを打った。そして目の前の女の美しい笑顔を不審に思う。
同じ一人の男に仕える身ではあるものの、身分が違うため深く問うこともせずにいたのだ。けれど、どうしても気になっていた。
「あなたは……辛くはないのですか? 〈殿下〉はあなたではなく、〈スピカ〉を妃にしようとされている。私とは違って、あなたには……見返りは何も無いと聞きました」
グラフィアスが言う〈殿下〉はもちろんジョイアの皇子ではない。
うまく行ったあかつきには、グラフィアスには職が用意されていた。彼は騎士として仕えるのでれば、生涯を捧げられる主を見つけたかったのだ。しかし、今のままではそれは叶わない。空しく一生を終えるのは嫌だった。亡き妃への妄執に狂った帝にも、それ以上にあんな子供にも一生を捧げることなど出来ないと彼はずっと思っていた。
「見返りが無い訳ではないわ?」
ミネラウバはそう言ってやはり微笑んだままだ。
それを見て、グラフィアスは複雑な心境となった。
(見返りが無い訳ではない? そんなはずはない。殿下はこの娘と何も約束をされていないはず。なぜなら──)
グラフィアスにはどうしてもこの娘が幸せになれるようには思えない。
淡い青色をした美しい瞳を見つめても、彼女の気持ちは分からない。だから置き換えてみる。自分が少し前に感じた、ほのかな恋心と。
その相手の少女は、グラフィアスが忠誠を誓いたいと願った男の想い人だった。
彼女──スピカのことが気になり出したきっかけは、ひどく単純だった。近衛隊の同僚が「可愛い娘が入ったんだ」と騒いでいたから。別に特別なことは何も無く、ただ、興味を持って見たところ、その笑顔に一瞬で魅了されただけのこと。
ただそれだけかと言われるかもしれない。けれど、それだけの輝きがあったのだ。ずっと女になど興味が無かったグラフィアスの心を動かすくらいには。
彼女が通る外宮の通路に見張りの担当が回って来た時は、顔には出さなかったけれども、心を弾ませていた。彼女はいつも忙しそうにくるくると働いていたけれど、すれ違う時は欠かさず笑顔で挨拶をしてくれた。宮に仕える女は皇子以外は目に入っていないのが普通だ。しかも、グラフィアスのような特に目立ったところもない男ならなおさらだ。そんな寄り道とも無駄とも思える行動をする者は一人もいなかったのだ。だから、澄ました女どもの中で、スピカは異常に目立った。衝撃だった。けれども、堅いグラフィアスは他の同僚のように気軽に誘うことはもちろん出来ず、それどころか彼女に挨拶を返すことさえ出来なかった。
そんなことを繰り返す日々が半年──正確には五ヶ月ほど続いた後だった。
相変わらず声を交わすことも無かった。だから彼女の中ではグラフィアスは景色と同然だったのだと思う。けれど、彼の中では次第にスピカという少女の占める割合が増えていっていた。
そして、あれは年が明けたばかりの頃。成人の儀に合わせた祭りの中でのことだ。
その祭りの一番の見所は国中の若者を集めての武術大会だった。剣、弓での武芸を競う。もちろん皇子も出場したのだけれど、彼は弓術での参加だった。
グラフィアスは自信のあった剣術で大会に出場した。そしてそこで優勝して、褒美にその少女を望もうと考えていた。
我ながら大胆な手だとは思った。だけど、他の奴らのように軽々しく声をかけることが出来なかった彼の出来る唯一の方法だった。それだけ本気だと、他の奴らとは違うと彼女に分かってもらいたかったのだ。
同じことを考えるヤツは意外に多かった。それというのも、なぜか彼女には気軽に近づくことは思ったより難しかったのだ。
同僚がせっかくこぎ着けたデートが──大抵が不慮の事故だったが──突然駄目になったり、話しかけようとして石──岩と言ってもいい──が飛んで来たりなどはごく普通のことだった。それでも諦められない同僚が、あるとき、大胆にも夜這いを仕掛けようと近衛隊の詰め所で話していたが、彼はそれを実行することも無く、翌日宮のごみ置き場に捨てられていた。辛うじて命はあったものの、虫の息だった。一応近衛隊が調査も行ったのだが、犯人は分からず終い。しかしあまりに突撃情報が筒抜けだったので、グラフィアスは、近衛兵の誰かが抜け駆けを恐れたという〈同士討ち〉なのだと思っていた。──まあ、後から知ったすぐには信じられない
そんな訳で、多数の挑戦者が彼女の意志を置き去りにしたまま勝手に競い合った。──結局は、グラフィアスは同じことを考えていたらしい同僚のルティリクスに少女を賭けて勝負を挑み、そして負けた。
彼は自分の腕に自信があった。上司である近衛隊長のレグルスとも剣の腕では五分だった。だから負けるはずが無かったのに、あれは完全な負けだった。頭上に剣を下ろし、勝った──と思った次の瞬間のあの笑顔は今でも彼の肝を冷やす。首筋にいつの間にか突きつけられた剣の冷たさを思い出すのだ。どこから剣が飛び出したのか分からなかった。消えたと思ったら懐に飛び込まれていた。
去年優勝したと聞いていたし、強いことは知っていた。でもあれほどとは思いもしなかった。
しかもあの外見だ。グラフィアスとルティリクスは丁度欠員の出た近衛隊に同時期に配属になったのだが、宮の女どもが一方の男のことで騒いでいるのは、あっという間に聞こえて来るようになった。それに加えて、隠していたようだったけれど、抜群に頭が柔らかいことも知っていた。──剣で勝てないのならば他にどうやって勝てばよいか分からないのだ。彼の恋心は、あの瞬間剣で断ち切られ、芽吹くことも許されなかった。
だからこそ、彼がその後見事剣術大会で優勝して、そして、褒美にあの少女を望んだとき、彼は心から嬉しかった。彼ならば彼女を幸せにできるだろうと納得した。周りの男たちも皆そうだったはずだ。
しかし──蓋を開けてみれば、あの少女はすでに皇子のものだったという。あのときの衝撃は忘れられない。
数いる貴族の娘でなく、なぜあの娘なのか。城で使えていた男は皆──本当に皆と言っていい、──落胆した。接触は無かったはずだった。少なくとも近衛隊にはそんな情報は入って来ていない。大体、有り得ない。彼女は単なる平民の娘だという噂だったし、仕えていたのも皇子の侍女としてでは無かったのだから。もしそういった意図があるのならば、慣例通り予め自分の侍女にして手を付けているだろう。
だから、グラフィアスは考えた。
〈あのとき〉。ルティリクスが剣術大会優勝の褒美として彼女を望んだ時に皇子は彼女に目を付けたのだと。なにしろ彼女はあの場でひどく目立っていた。ただでさえ美しい少女だ。光のあたる場所に置けば瞬く間に輝くに決まっていた。きっと彼は自分の側近があれほどの美しい娘を手に入れることが許せなかったのだ。グラフィアスの知る高貴な人間は、大抵がそれほどに狭量だった。
あの成人の儀の夜、グラフィアスはルティリクスと二人で互いの失恋を嘆きつつ飲み明かした。
二人は愛し合っていて、将来を誓い合っていたと彼は言っていた。そして、彼女の父親のレグルス──グラフィアスはそのとき初めてその信じられない血縁を知ったのだが──の許しが得られなかったから、優勝して許してもらおうと思っていたと。
まさかそれが仇になるとは。『こればかりは仕方ないさ』と、悔しがることもせずに淡々と酒を飲む姿は哀れにも見えたが、その一方で──どこかで、何かを期待した。
今までに彼が諦めたところを見たことが無かったからかもしれない。単に執着が無いのかと思っていたら、方法を変えただけでしっかり手に入れていた──というようなことは多々あったのだ。
彼は障害を障害と見なさないようなしなやかさを持っていた。壁があれば横をすり抜ける──それがたとえ卑怯と見なされるような方法でも、目的に向かって歩くことを止めない強かさのようなものを感じていた。
だからこそ、翌日彼と少女が消えたのを知り、彼がやり遂げたのだとすぐに分かった。グラフィアスは心の中で喝采を贈った。それだけのことをやってのけた彼に憧れを抱いた。
しかし──
スピカが皇子とともに戻って来た知らせが宮に伝わったのはそれからすぐのことだった。逃げた男の安否を心配した彼の元にひっそりと届いたのは一通の書簡。
グラフィアスは、それを開いて自分の運命を知った気がした。彼が、あのルティリクスがアウストラリスの王子であると知って、今の理不尽な職務から解放されるのではと期待した。彼こそが、自分の仕える主なのではと思い始めたのは、その瞬間だった。
書簡には『協力してほしい』という熱心な訴えが綴られていた。お前なら俺の気持ちがわかるだろうと。あの傲慢で身勝手な皇子には絶対彼女を渡したくないのだと。あの子供に彼女が幸せにできるはずが無いと。
グラフィアスは頷くしか無かった。同じ気持ちでいたのは確かだったのだ。それに、書簡には控えめな勧誘の言葉もあった。お前さえ良ければ側近として重用すると。
ジョイアではこれ以上の出世は望めなかったし、それ以上に、彼はその件ですでに皇子への忠誠心を失ってしまっていた。側近の女をかすめ取るような男にはとても忠誠を誓うことなど出来なかった。
グラフィアスの心は、そして彼の運命はそのときに決まったと言っていい。