9.偽りの約束 02


「それで──」
 グラフィアスははっとする。ミネラウバが彼の手から書類を取り上げたのだ。
「あの娘は?」
 その響きにはスピカのことを話すのとはまた違う響きがあり、グラフィアスは驚く。「あの娘というのは──」
「エリダヌスよ」
「ああ、なんだか張り切っているようですが、全く相手にされていない様です。閨に突撃しても、躱された、というより、先ほどのお話からすると皇子がご不在だったせいなのでしょうね──怒って帰っているのを見かけました」
「やっぱり」
 ミネラウバはあきれ顔だった。
「あの方は何を考えられてあんな娘をお傍に置かれているのかしら」
 不満げな声は、先ほどの儚げなものとは全く異質で、グラフィアスは混乱する。慣れていない彼に、女心など分かるはずもない。
「スピカ様はよくて、あの娘は駄目なのですか」
 思わず問う。
「殿下は、スピカをとして傍に置くのではないのよ。スピカは──」
(女としてではない? ──ではなぜ?)
 グラフィアスが目を見開くと、ミネラウバは途中で口ごもる。「ああ、あなたは知らないのよね」
「何を」
「いえ、なんでもないの。こっちのこと。彼女は、たしかに〈特別〉なの。だから──仕方が無いのよ」
 一体どういう意味だろう。ミネラウバは、何を知っているのだろうか。
 グラフィアスが首を傾げるが、ミネラウバは僅かに微笑むだけ。


(だって、彼女は女ではなく〈武器〉なのだもの)
 ミネラウバは、きょとんとする男を見上げると、口の中で残りの言葉を呟いた。
『俺はスピカの〈力〉が欲しいんだ』
 スピカは〈心を読む力〉を持っていると彼は言った。それがどうしても欲しいと。そしてその機密を教えてくれたのは、彼女への信頼の証だから、誰にも言うなと。
お前にだから・・・・・・言うんだ』
 疑いが産まれる度に彼の腕の中で聞いた言葉を何度も反芻してきた。
 だからこそ、ミネラウバはその僅かな希望にすがって今もこの宮にいるのだ。

 彼──ルティリクスとの出会いはジョイア第一皇子の寝室だった。
 ミネラウバは皇女の侍女でもあったけれど、大臣の娘でもあった。貴族の娘に産まれた以上政治利用されるのは当たり前。彼女は妃になる為に教育されていた。たとえ、相手が皇嗣たらないかもしれない皇子であったとしても、政局がどう動くかは分からないからだ。
 彼女は昔から父の言う通りにだけ生きて来たし、逆らえなかった。ある日突然父に命令され、どういう意図があるのかも知らないまま、皇子の閨に潜り込んだ。皇子は暗殺されかけて床に伏している──はずだった。しかし、彼女が寝室に入って知ったのは、皇子が国内のどこかへと失踪中だということだった。教えてくれたのが、その当時影武者として潜り込んでいた男──ルティリクスだった。
 どういう経緯で彼がその役目を預かっていたのかは知らないが、どうやら皇子が唯一信頼している臣下レグルスの信頼を彼は得ていたようだった。
 彼は皇子の代わりにミネラウバの相手をした。ミネラウバは皇子の外見を多少知っていたから、違うと一瞬で分かった。けれども、体の中の熱に逆らえなかった。あの日、一目惚れとはこういうことなのだと知った。
 どこの馬の骨とも知らぬ男によって傷物になった彼女はもうすでに皇子の妃になどなれない。あのスピカももし本当に噂のような毒婦ならば、それどころか純潔を失っていたならば、皇子もさすがに彼女を娶ろうとしなかっただろう。
 この国で妃の処女性はひどく重要視されていること、父親が知れば──勘当されてもおかしくないことを彼女は知っていた。勘当──当時、それは多くの貴族の娘と同様温室育ちの彼女にとって、死の宣告に等しかった。
 だから彼女は父親に皇子の不在だけを告げ、後のことはひた隠しに隠していた。
 しかし、彼女とルティリクスに関係があったと想像されるのは容易いこと。男の為に女が働く──しかもそれが忠心を誓うべき皇子を裏切ってのこととなれば、あまりにも分かりやすかった。
 幸いミネラウバの罪状は父親にさえも報告されていない。ミネラウバが騙されたのは明らかだと、情状酌量の措置がとられたのだ。
 だから彼女がルティリクスと関係があったことを知っているのは、スピカの誘拐事件にミネラウバが関わったことを知っている僅かな人間だった。しかし、今回の関係者の中で知らないのは皮肉にも一番張り切っている彼女の父親だけなのだった。そして大臣の娘のタニアがミネラウバだとは宮での慣例──出自を隠して仕えることも手伝ってまだ知れていない。もちろん調べればすぐに知れることではあるから、もしかしたら知っていて影で冷笑しているのかもしれないが、あののんびりした皇子のことだ、どちらかというと単純に知らないのだろうと思う。
 ──とにかく、もしタニアとして名乗りを上げた場合、あの皇子は断る理由にルティリクスとの関係をあげるだろう。そうしてそのことは父親に知れ、ミネラウバは家からも宮からも追い出されるに決まっている。
 そうなると、もうルティリクスの役には立てなかった。それは避けるべきことだ。
 だから。せめて、この任務が終わるまでは、ミネラウバはタニアであるという事実は隠し通すべきだった。
 任務が終ればむしろ、勘当されて親の縄を抜けて、宮から去ることができるのは好ましいことだ。ジョイアを出て、愛しい男の元に走ることができる。
 ──小鳥はとうとう籠から抜け出せるのだ。
『全てがうまく行って、お前さえ良ければ、俺のところで面倒をみる』
 あの最初の夜、ミネラウバが処女であったことを知った彼は神妙な顔をしてそう言った。そうと知らずに抱いたのだ。『処女は抱かない。いろいろ面倒だし、泣かれるのは嫌いだ』と言われて、ミネラウバは『違う』と答えた。相手は慣れているだけあってさすがに疑われたけれども、痛みにも決して泣かずに『違う』と訴え続けた。その機会を逃せば次は無いと本能で分かったのかもしれない。
 彼女が騙したというのに、彼は怒らなかった。その顔に似合わない困惑した顔をして、気が抜けて涙腺が緩んだミネラウバの涙も拭ってくれた。
 その仕草があまりに優しかったから。あの言葉を聞いたとき、ミネラウバは責任を取ってくれると──つまりプロポーズかと思って舞い上がってしまった。彼女は皇子との一夜が既成事実になると父親に言い聞かされていた。だから同じように考えた。そして、余計に必死でスピカの誘拐にも手を貸したのだ。
 後で捨てられたと知ったときは、まさかと思った。蝶よ華よと育てられた彼女は、まさか自分を捨てるような男がいるなどと考えてもみなかったのだ。愛する男に裏切られ、その上、自分の価値が地に落ちてしまったことを知り、死にたくなるほど落ち込んだ。その落ち込みようが功を奏して、そして彼女が失ったものの大きさに情けをかけられて、彼女は未だ罪を問われずに宮にいることができているのだけれど。
 しかし、彼からまた連絡が来て──そして、彼が王子だと知って、萎んでしまった気持ちが膨らむのが抑えられなかった。彼はミネラウバを見捨てては居なかった。やむを得なかったのだと。やはり同じように『全てがうまく行けば、今度こそ俺のところで面倒をみる』と言ってくれたのだ。つまりそれは、当然妃にしてくれるということなのだと、育ちの良いミネラウバは以前と同じく何の疑いも無くそう解釈した。
 だからこそ、エリダヌスにはしっかりと皇子を落としてもらわねばならない。そして、出来れば、この国にそのまま留まってもらえればいい。スピカを失った皇子には代わりが必要なのだから。ミネラウバには妃の座にも、それからあの女のような皇子にもさほど興味が無かったから、あの娘が相手でも何ら構わなかった。
 ミネラウバがエリダヌスを邪魔だと思うのも仕方がないこと。エリダヌスからの書簡を読んで、ミネラウバは彼女が、今のルティリクスの〈愛妾〉だということを知ってしまったのだ。
 元々浮き名の多い彼のことだ。ジョイアにいる間も、来るもの拒まずだということは薄々知っていたし、王子である彼ならば多少の火遊びは仕方が無いのかもしれない。ミネラウバはもともと妃になるように教育されているだけあり、その辺には理解があったが、エリダヌス本人が自分が〈妃〉だと強調していたところが気になった。王子の結婚となればさすがにジョイアにもその話は伝わってくるはずだ。それが無いということは、内々では決まっているか、──嘘か。どちらかだった。
 妃である可能性を考えて一瞬落ち込みそうになったけれども、顔を知られていないことをいいことに、侍女姿で遠くから観察したところ、〈嘘〉の可能性が高いと判断した。スピカを虐めて楽しんでいるような傲慢な女だった。あれは王子には相応しくない。どう考えても愛妾止まりだ。美しさではスピカに全く敵わないというのに少々の胸の大きさで勝ち誇っている馬鹿な女。身の程も知らずに、ミネラウバを牽制しているに違いなかった。
 となると──のさばらせるわけにはいかない。あんな女にはたとえ体だけだとはいえ、彼を渡したくない。
 そう思ったとたん、ミネラウバは彼の元に通い詰め夢中で求めた、まるで蜜月のような日々を思い出して、体が熱くなるのを感じた。
(ああ、殿下。本当はあなたを独り占めしてしまいたいのに)
 自分が妃となったあかつきには、せめて、ああいった品のない女は彼の傍から排除するべきだ、その方が彼の為だとミネラウバは未来へ思考を巡らせる。

「とにかく、失敗だけは避けて頂かないと──。あの娘、口ほどに無いようなので心配なのです」
 男はミネラウバの妄想をそう遮ると、蟻のような目をしばたかせた。彼女たちの事情を、この女にも権力にも縁のなさそうな男が理解できるとも思えず、ミネラウバはグラフィアスに微笑んでひとことだけ言った。
「大丈夫。あの女が足りない分は──私がなんとかする。失敗はさせないから」

(──愛する彼の為に、まずは、スピカを手に入れてみせる。絶対に)

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2010.08.27