9.偽りの約束 03


 ジョイア宮に着いてあっという間に三日が経ったが、皇子はにこやかに、しかし頑にミュラやシェリアたちを拒み続けた。
 午後、皇子が庭を案内すると言ったので、巧みにミュラを牽制して来るシェリアを邪魔に思いながらもここぞとばかりに訴えた。閨に呼んで欲しいと。
 しかし返って来た答えはあっさりしたものだった。今までの温和な態度が嘘のように冷たい声に聞こえた。
『僕は、今の妃だけで十分なんだ。君たちが背負うものも分かるけれど、こればっかりは受け入れられない』
 自慢の胸を押し付ければ、顔色を赤くするほどに初心なくせに、それでも確かに興味をそそられているくせに、それ以上の接近は許さない。
(なんなの? あの貧弱な娘の方がいいっていうの? どこが?)
 焦りと怒りでミュラの自尊心は崩壊寸前だった。
 外見と雰囲気からはここまで頑には見えなかった。ミュラの明らかな誤算だ。
(そっちがそう出るなら──)
 ミュラは他の手段をとる必要を感じる。


 ルイザを通して受け取ったミネラウバからの書簡には、計画の遅れに対する苦情が滲み出ていた。

『──幸い殿下は今、お忙しくてスピカにお会いになれずに飢えていらっしゃる。これ以上無い好機なの。後宮管理官のアレクシアにあなたを優先させるように依頼したわ。絶対に成功させて。立太子まであと三日しかない。正式に妃に迎えてしまった後では、わかるでしょう? 色々面倒なのよ』

 アレクシアというのがきっと今回協力してもらっているというシェリアの母親なのだろう。
 急げ──そんなことは分かっている。だけど、皇子の守りは妙に固い。妻だけに貞操を捧げる男など見たことが無いものだから、扱いに困ってしまうのだ。今までの相手ならば、ミュラが誘えば──いや誘わなくとも、数秒後には寝台に連れて行かれたというのに。
 しかし、あと三日と言われると焦った。意外に短い。ミュラの見て来た高貴な身分の男たちは、あそこまでの執着をみせないものだから、皇子があれほどに一人の女に執心しているとは思いもしなかった。それにやはり自信があったものだから、油断してしまっていた。

『──今夜、万が一失敗したら、私が替わるから』

 そんな脅迫めいた文言が手紙の最後に付け加えてあって、ミュラはそれは困ると思っていた。皇子を奪われれば全てが台無しだ。ミュラが想像した全てがミネラウバのものとなってしまう。そんなことは許せない。
(大丈夫、強引に寝所に潜り込めば、まさか追い出しはしないはず)
 そう考えると少しだけ心にゆとりができる。そうだ。とりあえずは体を手に入れて、その後、ゆっくり時間をかければいい。ルティリクスと同じように。
 ──二兎を追うものは……などという西方のことわざなどミュラが知るはずも無い。ミュラはどちらの男も諦めることは出来なかった。

 *

 大量に湧き出る水を、やはり大量の薪を使って沸かしたジョイアの湯殿はこれまた雅だった。
 ルイザに聞けばこの浴槽はヒノキという、外宮にも多く使われている針葉樹で作られているそうだ。そこにふんだんに湯が張ってあった。この国の人間は毎日沐浴をするらしい。汗もかかない季節だというのに、何という贅沢だろう。アウストラリスでは考えられなかった。
 しかし澄んだ湯に身を浮かべるこの行い。何と気持ちのよいことか。
 ミュラは湯船に体を浮かべて、目を瞑る。
 そのまま頭をルイザに預けると、彼女が甲斐甲斐しく髪を洗ってくれた。これまた天国のようだ。
「素敵。ずっとこうしていたいわ」
 思わず口にした言葉に、ルイザが眉を寄せたことにも気が付かない。夢心地だった。
 水気をとった髪にそのまま香油を塗り込んでもらう。髪の後は、体にも塗るつもりだった。〈ミュラン〉の花の香油。ミュラの名はこの花からとったと母が教えてくれた。ミュラの姉たちも皆一様にオアシスに咲く花の名がついている。残り物のような花だけれども、ミュラは結構その名が気に入っていた。
「今日は多めにお願いね」
 ミュラには策がある。女の残り香が皇子の身に付いていれば、あの鈍そうな娘もさすがにその意味を理解するだろう。亀裂は両方から入れる必要がある。皇子が隠してしまえば、ミュラの行為は無駄になる。それは許されない。
 それに──この香は、閨で効果的に働く。効能は広く知られていないけれど、知るものは知っていた。──理性を焼き切るのだ。
 ミュラがこれを多用するようになったのは王宮の側女に上がった時から。初めてルティリクスの寝室に呼ばれたときからだった。
 彼は──こういったものに慣れているのか、眉一つ動かさなかったけれども。
(ともかく)
 今夜を逃せばミネラウバに全て持っていかれてしまう気がした。
(そうはさせるものですか)
 微かなのぼせを感じて立ち上がると、その勢いに巻き込まれて湯が大量に溢れる。一つ二つ水面に浮かんだ泡はすぐに弾ける。それを見ながらミュラは心を決める。失敗すれば、全部水の泡。儚く消えてしまう。
(──そうはさせないわ)


 湯殿から戻る途中、ひと際特徴的な人影を見つけ、ミュラは思わず駆け寄る。──なんて偶然。幸運としか思えなかった。
 ルイザが慌てたように追いかけて来る。廊下を走ったのを咎めるつもりなのかもしれないが、彼女を見ればそんな説教は引っ込むに決まっていた。
「遅い夕食でしたのね」
 上がった息を抑えつつ、後ろから声をかけるとその少女は驚いたように振り返った。その顔を見て、一瞬人違いかと思う。
(あら? この子)
 金色の髪、緑色の瞳は変わらないのに、儚げな第一印象を間違えていたかのように感じた。今日は瞳に妙に力がある。ずいぶんと勝ち気な印象だった。
「……なにか?」
 強ばった顔のまま睨みつけられて、ミュラは眉を上げる。
(あら?)
 出所はよく知らないけれども、皇子が浮気をしているという噂は流れ続けている。それは確実にこのスピカという愛妾を蝕んでいるはずだった。その上にミュラやあのシェリアという女の嫌がらせ──食堂で会う度に粗末な服のことや髪型のことで何かと貶めてやったのだ──で相当参っていると思っていた。
 しかし、この顔は。ミュラを恐れるのではなく、疎んでいる顔。そこから卑屈さは消えていた。対等な立場に立とうとしている顔だった。
「なんだか元気じゃないの」
 あまりに意外で思わず感想を述べたけれど、スピカはそれを無視して背を向けて歩き出した。
(これがこの子の本性なのかしら? ああ、そういえば、午後の散歩のとき、シェリアが何か変なことを言っていたわね)
 確か、『他の男が恋しくて、父親と宮から逃げる相談をしている』とか『他の男に相談して慰めてもらった』とか。そんなことを皇子に訴えていた気がする。
 皇子を惑わせるための信憑性の無い話かと思って聞き流していた。思った通り、やはりそんな風には見えない。それよりは、ミュラたち四人の妃候補と皇子を巡って戦うことを覚悟したような顔に見えた。
 そんなことを考えるけれども、それは最早どうでもいい。彼女の強がりもここまで。すぐにその顔は泣き顔に変わる。
「今日は、私の番なのですって」
 スピカの足がぴたりと止まった。そして不審げにこちらを振り向く。ミュラは妖艶に微笑むと、とどめを刺そうと丁寧に牙を剥いた。
「今夜、私が閨に呼ばれることになったのです。今から行って参りますわ?」
「……なんで」
皇子・・お望みになったから・・・・・・・・・に決まっているでしょう」
「そんなはずないわ」
 そう強く言い返しながらも、先ほどまで強く輝いていたスピカの瞳は急に光を失っていた。それに気分を良くしながら、微笑む。
「ふふ。何をおっしゃるの? あなた、そんなに自分に自信があるの? 皇子を独り占めできるほどに?」
 体をじっと見つめながらそう言うと、スピカは屈辱でかっと頬を染めた。
 あまりに簡単に罠にかかるその様子にミュラの気持ちは高まる一方だった。
 今こそ仕上げに入るべきだろう。
 雌猫のようにスピカにすり寄ると、耳元でそっと囁く。──この国の哀れな后妃のことを思い出しながら。
「別に信じなくてもよろしくってよ? でも、知っていた方が今後のためにはいいのではなくって? 寵を得る事が出来ない妃の行く末はあなたもよくご存知でしょう?」


(そうそう、ついていらっしゃい)
 背中に気配を感じながら、ミュラは皇子の寝室へと軽やかに足を運んだ。アレクシアが手配をしているため、部屋の前の衛兵も「どうぞ」とあっさりとミュラを部屋に通す。息を呑む音を背中に聞きながら、ミュラは皇子の部屋の中へと滑り込んだ。
 そうして急いで皇子を探すと、彼はすでに寝台の上。微かな寝息が聞こえた。
(そういえば、午後寒そうにされていらしたかも。お風邪を召してしまわれたのかしら)
 燭台の光で子供のような寝顔を確かめると、ミュラは火を消して、服を脱ぐ。少しでも急ぐ必要がある。スピカにここに入ってくる度胸があるかは知らないけれど、もしそうなったならば皇子の体の下にいるミュラを見せられれば、それが最良なのだから。
 皇子の夜着をはだけると、意外に引き締まった体が現れた。筋骨隆々とはいかないが、形良い筋肉が腕や胸に程よくついている。女のような顔や比較的小柄な体格からは想像できなかったものだ。その差異にミュラは驚き、一瞬見とれる。しかしすぐに煩悩を振り払って、その絹のような滑らかな肌に持ち込んだ香油を念入りに擦り込んだ。ミュラと同じ匂いが瞬く間に皇子の体に染み付いていくのが分かる。風邪のせいか熱を持った体はすぐに香り始めた。
「ん……」
 胸から腹、さらにその下に手を伸ばそうとすると、さすがに起きたのか、皇子がゆるく目を開けた。部屋中の闇を全て凝縮したような黒い瞳が長い睫毛の間から覗く。その眼差しはひどく妖艶で、ただでさえ、その体に魅了されかけていたミュラは一気に頬がほてるのが分かった。
 皇子が身じろぎするのを感じて、とっさに体を離し、すぐ傍に座り込んだ。
 すると彼は手をついて起き上がり、髪をかきあげ辺りを見回した。
 黒い絹糸のような髪がその美しい肌の上でさらさらと滑り、そのあまりの色香にミュラは硬直した。祖母の昔話に出て来たあやかし、それが本当に存在するのならば、こんな姿をしてるのではないか。そんな愚にもつかないことを考える。とにかく、こんな妖美なものにミュラは出逢ったことは無かった。
 皇子は目が闇に慣れぬのか、すぐ隣にいるミュラに気が付かない。
(あ……どうせなら、一度くらいなら、いいかもしれない)
 考えてもみなかった想いが胸に落ちて来る。
 落とすにしろ、焦らして焦らして向こうから求めてくるのを待つつもりだったのに。なるべくは一線を越えないようにと考えていたのに。
 なんだろう、皇子を取り囲むこの気配は。その瞳を見ていると異常に吸い寄せられる。魂を抜かれる気さえした。
(どうしよう。欲しくてたまらない。……どうにか、なりそう)
 燭台の光がミュラの肩越しに皇子の顔を照らす。闇の瞳の中で熱が渦巻いている。吸込まれてしまう。
(ああ、なんて──)
 肌に触れると、指先から熱が体中に広がった。
 体の芯が痺れるようだった。吐息を抑えられず、深く吐き出す。そうして熱くなった体を皇子の傍に寄せた。
「スピカ……?」
 掠れた声がその麗しい唇から漏れる。どこかで聞いたような低く甘い声がミュラの耳に潜り込む。もちろん〈その名〉はミュラのものではない。しかし、自分の名を呼ばれているようにしか感じない。

 〈闇の眼〉の力など知る由もないミュラの頭からは、スピカのことも、作戦も、それどころか愛しいルティリクスの面影さえも完全に消え去っていた。
(いったいこれは──なんなの)
 その力に引き寄せられるまま──彼女は皇子の唇に自分の唇を重ねていた。


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2011.05.14改
2010.09.01