9.偽りの約束 04


 女たちが二人。やはり今は使われることの無い、ジョイア帝の後宮の一室で向かいあっていた。
 花で例えるならば、今まさに蕾を開かんとする白く輝く百合の花と、萎れて花びらを落とそうとしている赤い薔薇だ。そして──薔薇の方にはすでに本来の輝きは無い。
 百合の女が、薔薇の女を見つめている。その眼差しは柔らかいものの、最奥にある光はまるで切れるようだった。見つめられた方は襲いかかる肉食の動物に睨まれた小動物のように、残る力を振り絞り、牙を剥いて威嚇する。
 先ほどまでは部屋を照らしていた満月に近い形の月も、西の空へと姿を消そうとしている。東側に位置するこの場所では、今は僅かな光が差し込むだけだった。
 百合の女──ミネラウバはゆっくりと諭すように口を開いた。
「失敗したのね。──殿下があなたではなく、スピカを部屋に連れ込まれているのを見たわ。あなたのおかげ・・・・・・・かしら。外から少し窺ったら、随分熱烈に求められていらしたようだけれど」
 彼女の声は尖っていた。ミュラは苛立たしく思いながらも頷く。失敗したのは確か。
 皇子はミュラを拒んだ。あの朦朧とした状態でもスピカと間違えることも無く、汚いものに触れたかのように嫌悪感いっぱいの顔でミュラを突き放し、部屋を離れた。そしてミネラウバが言うには、その後間違えずに・・・・・スピカを抱いたのだろう。
 冷静さを失っていたミュラに部屋を出て行く皇子を引き止めることは出来なかった。
 あのとき感じた焦躁は一体なんなんだろう。ミュラは我に返った後、自分の状態に愕然とした。まだその驚きが抜けていない。
「なんなの、あの皇子は。まさか──妖?」
 女は嗤う。「馬鹿じゃないの」
「でも、あの色気は尋常じゃないわ」
 言い訳をしようと思った訳ではないが、ミュラは言い募った。あのときミュラの理性を飛ばしたのは彼女の纏っていた香ではなかった。それよりももっと強烈な──何か。
「皇子殿下は、異能を持たれているわ。──そんなことも聞いていなかったの? 私はルティリクス様にお聞きしていたけれども? あなたには教えられなかったということよね?」
 馬鹿にした響きだった。無数の刺がミュラの自尊心を傷つけていく。
(どういうこと)
「じゃあ、もしかしたらスピカのことも聞いていないのかしら」
「何」
「殿下がスピカを欲しがられる理由」
「どういうこと?」
 ミュラは本気で訳が分からなかった。
(なんですって? 殿下はスピカを欲しがられている?)
 それはミュラが思っていた計画と随分違う。否定の言葉が思わず溢れる。
「殿下が望まれているのはジョイアでしょう」
「ジョイア?」
 その怪訝そうな顔を見て、ミュラは抱いていた妄想が縮むのを感じる。
「そう聞いていないの?」
 てっきりそうだと思っていたミュラは、彼女が本気でそう知らないのを知って驚く。三人しか──ルイザを含めると四人だが──潜り込んでいない人間が作戦を知らない。その事実は。
 ミュラは任務の内容を反芻する。ミュラは『皇子を落とす』。ならばこの女の任務は?
「あなたは何を頼まれたのよ」
「皇子からスピカを引き離して──宮から連れ出すこと」
「じゃあ後一人の男は?」
「連れ出したスピカを国境まで運ぶこと……かしら?」
 おかしい。じゃあ、ジョイアに残されたミュラと、そしてこの女は?
(そういえば……)
 帰りの日程も国外への脱出の方法なども、何も聞かされていないことを今さらながら思い出す。任務が終われば教えてもらえると信じ込んでいたのだけれど──。ミュラは変な汗が脇下を流れるのを感じながら、確認した。
「殿下が欲しがられているのは本当に〈スピカ〉なの?」
「そうよ」
「じゃあ、あなたはなぜ協力するの」
 思わず前のめりになると、背中に出来た隙間から冷たい空気が流れ込む。体だけでなく、すっと何かが冷えた。嫌な予感がする。ミュラが信じて来たもの全てがひっくり返されるような、そんな予感。
「もちろん彼のお役に立ちたいからよ」
「欲しいのは〈スピカ〉なのに?」
 ミュラは強い調子で繰り返す。女は確かに頷いているのに、それでも、その言葉を頑に否定していた。自分で言った言葉だというのに、心では受け入れていないように見えた。ミュラが怪訝そうにするのを受けて、女はミュラよりも力強い声で答える。
「殿下が欲しいのはスピカの〈力〉よ。彼はあの力を国の為に使いたいと。彼女の力を使えば、各国の情勢を握手一つで探れると。スピカが妃の一人となれば、どれだけ国の力になるだろうって」
 スピカの〈力〉が何なのか分からないミュラには女が何を言っているか、よく分からなかった。しかし、今まで知り得なかったことが一つ分かっただけで、何か別のものが見えた気がした。
『握手』
 女が言う通りであれば、ミュラは、それからこの女は絶対に〈正妃〉にはなれない。なぜなら、その座にはスピカが居座ることになるに決まっているからだ。アウストラリスでは各国の要人と握手ができるほど近づけるのは王妃のみだから。それは側室では有り得ない。──それにこの女はなぜ気が付かないのか。ジョイアの人間だから、知らないのか。
 妄想が完全に消え去った後の残骸は、ひどく惨めなものだった。

「──私、降りるわ」
「え?」
 ミネラウバは──、いやタニアだったか。もうこの際どうでもいい。
「やってられない。割が合わないじゃない」
「割? 何を言っているの?」
 小首を傾げる姿は可憐だった。そういえばこの女は生粋のお姫様なんだと、ミュラは思い出した。
「馬鹿ね、騙されたことにまだ気が付かないの」
「だま、された?」
「殿下は私も、あんたも利用して、スピカ・・・を手に入れようとしてるだけじゃない。あの方が欲しいのは、──スピカだけじゃない」
 だからこそ、少人数だけでの任務なのだ。手に入れるのは少女一人だから。多勢は必要ない。
「何を言っているの」
「まだ分からない? あなた、じゃあ、任務が終わった後どうする気なの。誰があんたをこの国から連れ出してくれるの? その協力者の男? でも彼が連れ出すのはスピカだけなんでしょう。私も、あんたも、この国に置き去りじゃない」
 言葉にすると明確になった。そうだ、それが事実。駒は駒でも──ミュラは〈捨て駒〉だ。それが残酷な事実だった。
 冷静に考えれば、ミュラが皇子を落とせば──皇子がミュラを手放す訳が無いではないか。そしていつまでも偽りの身分が通用する訳は無い。詐称がバレた時は? そのときミュラはどうなる?
 ミュラの目には彼の後ろ姿しか思い浮かばない。手を伸ばしてもあっさりと撥ね除けられる。いくら必死に乞おうとも。
 気が付けば彼女が手に入れられるものは──一つもない。ミュラの目から何かが剥がれ落ちて、現実が鮮やかに映り始める。
(どうしてわからなかったの、私ったら)
 ルティリクスが、それからルイザがミュラに何も知らせないのは。そしてこの女が何か勘違いしたままなのは。二人して、〈妃〉という座を餌に働かされている。もちろんミュラがそう望んだ。だけど、彼はそれを分かっていて──こちらに一番欲しい餌を、口にさせたのだ。今思えば、具体的な約束は何も無いことに気が付いて青くなる。
「なにをいってるの」
 絶望するミュラとは対照的に、女は薄く笑っている。そしてどこから取り出したのか、何に使うつもりだったのか──その手元にあるものをみて、ミュラはぎょっとした。
「それ、なによ、なんのつもり」
 ミュラは初めて気が付く。相手を邪魔だと思っているのは、ミュラばかりではなかったということに。
 この女はより具体的で確実な方法を思いついて、今、実行しようとしている。そのことがミュラの体を芯から冷やした。
「なにをいっているの」
 女は答えずに繰り返した。変わらず笑っているのに、僅かに頬が震えている。
「殿下がなんですって? 適当なことを言わないで。──殿下はスピカを愛してなどいないわ!」
 そう叫びながらも、彼女は口にしたことで、漸く、その可能性に気が付いたようだった。しかし、飲み込めない。飲みこめずにもがいている。

 いつしか女の目が充血していた。目の端が膨らみ、いくつもの雫が滴り始める。ミュラはそろそろと後ずさる。鉛色の物体が月の光にぎらりと光り、反射して女の横顔を冷たく照らしている。
「今の言葉を取り消しなさい」
「落ち着きなさいよ……私じゃないでしょ、あんたをにしたのは、あんたが怒るべき相手は……っ」
 ミュラは言ってはいけないことを口にしたことに気が付かなかった。それはミネラウバの理性を飛ばすに十分だった。暴力の固まりがミュラを後ろへ弾き飛ばす。背中が扉にぶつかったと同時に、胸に強い衝撃を受ける。
「……あ……」
「うるさいわ」
 目の前の女が赤く染まっていくのが見える。しかしそれはミネラウバの血ではない。ミュラの胸から命がその血とともに流れ出ていた。
「あなたのこと邪魔だと思ってたの。口先だけで、役に立たない。どうしようって思ってたけれど、穴埋めは私がするわ。──そうだ、これで殿下の元に確実にスピカを送れる。役目を果たせば、そうすればきっと──」
 うわごとのようなその言葉はもうミュラの耳には届かない。たとえ聞こえていても、彼女の計画などミュラに分かるはずも無かった。
 視界に映るのは心細そうに立ち尽くす女の泣き顔だった。必死で思い出そうとするけれど、恋をしていたはずの男の顔はもう思い出せなかった。ミュラが今しがた捨てたものに未だしがみつき、女は泣き続けている。
(ばかね、迎えは来ないの。だから、皇子を選べば良かったのに。あの皇子ならまだ──)
 もう声は出せない。その言葉が自分に向けてなのか、ミネラウバに向けてのものかも、もう分からなかった。
 足が崩れ落ち、視界からは一瞬で全てが消える。

 そのまま──ミュラの命は事切れた。

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2011.05.14改
2010.09.04