メイサは胸騒ぎを抱えつつ、廊下を駆け抜ける。倉庫から繋がる例の裏道を通って、王妃の部屋へと向かった。
　一体何の用だろう。よほどのことが無い限り、こんな急立てて呼び出されることは無いはずだった。
　息を整えつつ、カーテンの裏側に隠れていた簡素な扉を押し開くと、苛立った様子でうろうろと部屋を歩いていたシャウラがはっとした様子でこちらを見る。
「お呼びですか」
「ああ、メイサ。至急の用なの。すぐにルティリクスのところへ行って頂戴」
「え？　どういうことですか」
「先ほど城へ到着したと知らせが入ったわ、それで、カルダーノが、それから、怪我をしてて」
　シャウラ王妃は少々取り乱していて、メイサの質問にも答えない。訳のわからない言葉の羅列が続くけれど、
（カルダーノ？　え、──怪我？）
　メイサはその言葉に敏感に反応して、王妃の言葉を遮るように大声を出した。
「怪我ですって！　ルティが？　ひどいのですか!?　どうして──、あ、もしかして傷が開いたのですか!?」
「──いいから、さっさと行って！」
　怒りを丸ごと投げつけられる。ぴしゃりと言われて、メイサは口を閉じた。ヒステリックなシャウラにメイサは戸惑いを隠せない。こんなのは、いつも飄々としている彼女に似合わなかった。息子の怪我のせいなのだろうか？　でもこの間、スピカに刺された時は『どじを踏んだ』などと軽口を叩いてたくらいだったのに、今回は一体なぜ、こんなに。
　狼狽えるメイサを見て、シャウラは自分がひどく苛立っていることに気が付いたようだった。無理矢理のように微笑むと、ようやく少し落ち着きをみせる。
「ああ、ごめんなさい。怪我は大したこと無いって報告が上がってる。だから心配要らないの。ルイザも来てるそうだから、まずは彼女に話は聞いて」
　シャウラは右手で目を覆うと、大きく息を吸う。
「──ルイザですか？」
　あまりに懐かしくて、メイサは耳を疑う。こんなところで名を聞くとは思えなかった。彼女がなぜ？
　そう問うてもシャウラはやはり答えてくれない。一方的にメイサに命令するばかりだった。
「ごめんなさい、私、急に色々しなければならないことが出来てしまって。忙しくって取り乱して……ごめんなさい。手が足りないの。あなたにこの件は一任するわ。話を聞いた後の判断は任せる」
「でも」
　一任と言われても、判断と言われても。何が起こっているかも分からないのに。そう思うけれど、今の彼女に聞くより、ルイザに聞いた方がまだ的確な情報が得られる気がした。
「──とにかく話を聞いて参りますわ」
　出て行こうとするメイサに、「ああ、もう一つ」とシャウラが呼び止める。
「なんでしょうか？」
　閉じようとしていた扉から顔をのぞかせる。急げと言ったのは誰だっただろうと首を傾げる。本当に今日の彼女は彼女らしくない。
　隙間から体を半分出して王妃の顔を見つめると、なんだか今までと印象ががらりと違って目を疑った。
　儚い方──そんな印象がどこかにあった。だけど、それが消え去っている。
（あれ？　シャウラ様は……こんなお顔をされていらっしゃったかしら？）
　決意。覚悟。そんなものが大きな瞳の端から滲み出ているように見えた。一瞬、スピカに似ている、そう思って胸が軋む。そうだ、似ているのだ。確かに色は違えど顔立ちは瓜二つといっていいほどに。だけど──今までは全く受ける印象が違っていたのに。
　そこから発せられたのは妙に決意に満ちた言葉だった。

「近いうちに、あなたをルティリクスの元に移すから。覚悟しておいて」
「…………え？」
　問答無用。きっぱりと言われた言葉にメイサは目と口を大きく開けた。


　侍従にルティの居場所を聞くと、王宮の入り口付近の小部屋で治療中だと言われた。
　慌てている上に、先ほどの辞令で頭が混乱したままだったため、道を何度も間違える。メイサは傍に居れること自体は嬉しくも、彼の派手な女性関係を間近で見るのは悲しいという複雑な心境。だけど、まず──どう考えてもルティが承諾するとは思えないのだけれど。王妃はどうされるつもりなんだろうと、手段をいくつか頭に浮かべようとする。
（ああ、今は、それはどうでもいいわ。それよりも）
　メイサは纏まらない考えを床に投げ捨てた。今は彼の怪我の方が心配だった。
（軽傷だって言われていたけれど）
　はやる心を抑えて足を急がせた。メイサは古傷が開いてしまったのだと、そう解釈した。確かスピカにやられた傷はかなり深いはず。あれからひと月。傷はようやく塞がったばかりで、いくら彼が丈夫に出来ているからといっても、馬に乗るには絶対に早いのだ。それなのにこの頃遠出が多いと噂に聞いている。
　無茶するなと一言注意しなければ──そう心に決めるメイサが、部屋を覗いてみたものは、彼女が想像もしていないような光景だった。

　拳一つほどの扉の隙間から、中の様子が見えた。ただならぬ雰囲気にメイサは足を止める。ふと視線を下ろして床に散らばった血痕を見てメイサは青ざめた。その上で一人の中年の男が取り押さえられている。その隣で女が男にしがみついて泣き崩れていた。
「ミュラを、返して下さい」
　同じ雰囲気を纏う二人は、口々に訴える。その様子を見る限りは彼らは夫婦に見えた。その視線の先では、ルティが左手の治療を受けていた。いつも通りに涼しい顔をみるかぎり、床に這いつくばっている男のものかと思ってしまったが、床の血は彼の血なのだろうか。
（ミュラ？）
　聞き覚えがあった。それは一体誰の名だっただろう。メイサは混乱する頭で必死に思い出す。すると、ふいに鼻に花の香りが届き、気の強そうな顔が浮かんだ。そうか、あの花の名の女官──
　ルティは黙ったまま何も答えること無く、治療を受け続けていた。白い包帯にすぐに血が滲み出す。
　ハラハラと見つめていると、扉のすぐ傍から声がする。
「この者たちの処分はどうされるのです。すぐに牢に──」
　沈黙を破ったのは扉付近の衛兵だった。
「いや、」ルティは眉を上げて、当然のように夫婦を連行しようとする兵を止めた。「この者たちの処分は俺が直接下す」
「しかし、王族へ刃を向けた以上、極刑は免れません。公開での処刑が過去の処遇となっております。それとも、御自ら刑を処されるということでしょうか」
　ルティは僅かに逡巡した後、静かな瞳のまま頷く。
「──ああ。上にもそう報告しろ」
　衛兵は腑に落ちない様子で、部屋を下がろうと扉を開ける。部屋にいた数人のうち二人が不満げな顔で姿を現した。メイサはとっさに通りかかったふりをして衛兵を避けると柱の影に隠れる。
「娘の一人失ったくらいで何をあんなに逆上するのか」
「最近は王子の元で働くということを何か勘違いしているものが多くて困るな」
「娘も王子の為に死ねて本望であろうに」
　兵達が呟いた声が風に乗ってメイサの耳に届き、彼女はことの重大さに初めて気が付いた。

（あの娘が──死んだ？）